老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

3日間病院通い

2021-02-22 08:01:00 | 老いびとの聲
1746 今週は月水金、3日間病院通い



今週は1日おきに病院通い
月曜は循環器内科と感染症科
血栓の症状、大動脈弁閉鎖不全症の症状診察
感染症科は服薬の副作用による心臓の症状診察

水曜は、皮膚科
先日手術をした抗酸菌の腫瘍切除術後の抜糸

金曜は腎臓外科
採血結果の数値をみながら
移植した腎臓の機能が低下していないか

どの科においても主治医に
コロナウイルスのワクチンを接種してよいか
聞かなければならない

私事をズラズラと書き
それをお読み頂き恐縮します

後、数分で心電図検査があります
ペッタ、と吸盤を肌につけられる感触は嫌ですね

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あの世に行きたい

2021-02-20 19:23:18 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1745 あの世に行きたい


96歳になる婆さんを訪問した
点いていない石油ストーブの前で寝ていた

デイサービスに行かない日は
自由気儘に「寝」日曜日

「いま、したいことは何ですか」
「何もないけど、あの世に行きたい」
「あの世行の”切符”がないと行けないよ」
「そうだな、切符がないからダメか・・・・」
「96歳まで生きるとは思わなかった。長生きしすぎた」

婆さん、薬の飲み忘れはあるけど、しっかり月1回の受診はしている

 

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空腹は耐えられない

2021-02-16 03:53:53 | 老人と子ども
1744 空腹は耐えられない

小さな小さな会社であっても
決算はしなかればならない

それでいま決算に必要な
書類をまとめるのに
猫や犬の手を借りたいほどだが
我家のbeagle元気は「我知らず」で眠っている

税理士に書類を送るために
昼飯も摂らず15時半過ぎまで時間を要した

お腹が空きすぎ
常に空腹の状態でいる子どもたちのことを思い出した

いま、世界には70億人程の人がいて
そのうち8億4千万人以上の人が満足な食事ができずに困っている
栄養が足りず病気になったり
なかには餓死さえしてしまう。



日本では、一年間で500~800万トンの食べ物が捨てられている
食べられるものがゴミになってしまう。

飽食のなかで、食べられず瀕死の子どもたちがいる。

ネグレクト(育児放棄、介護放棄)のため
満足な食事も与えられず栄養失調、脱水症におかれている
要介護老人に遭遇する

世界のどこかで飢餓にさらされている子どもの「問題」と
満足な食事も与えれない要介護老人の「問題」は
根っこは同じ。

何ができるか・・・・
できることは何か・・・・





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躰で知った老い往く辛さ

2021-02-15 04:46:26 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1743 躰(からだ)で知った老い往く辛さ



今日はバレンタインデー
自分は「ガーナチョコ」が好きである。

さて、「躰で知った老い往く辛さ」とは
老いの影は知らぬ間に忍び寄る。

病に因り心臓の機能は異常をきたしてきたが
まだ心不全の症状にない、と主治医から言われ「ホッと」しているが、
血栓症があり、手足は腫れ、軽く握ったり圧したりすると「痛み」が走る。

左足が水平に上がらず、ズボンなどの下衣を穿くときは
椅子に座り最初は必ず左足から通しす。

車のシートに乗るときも
左足が上がらず右手で左足を持ち上げなければならない。

知らない路を歩き、2,3㎝くらいのわずかな段差に気がつかず
左足を引っ掛けてしまい、前のめりに転んでしまった。
(足を上げているつもりでも、足が上がっていない)

転倒すると右膝に水が溜まっているので破れてはいないか、と
骨折よりも先に気持ちがいってしまう。

人間にとり「歩ける」ことは当たり前の動作で
「足が上がらない」不自由さは気づかない。
いままで「できていた」ことが「できなくなる」
車の乗り降りやズボンの着脱は
思うようにできなくなり、自分の左足でないような気がしてしまい
苛立ちと不甲斐なさと老い往く辛さを知る。

老い往く辛さを知ったことで
始めて要介護老人の辛さの一端を「わかった」ような気がする。

動けない辛さ、不自由さのなかで
残された手足でカバーしながら動き暮らしていく・・・・。
転倒防止を兼ねsnoopy絵柄の白い杖を使い、まだ歩くことができる
beagle元気に連れられながら散歩ができる

1日9,000歩を目指している
達成するときもあれば、目標に届かないときもある

病に負けず
不十分な左足であっても
《心》は自由(自遊)である・・・・・。




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TBSテレビ 金曜ドラマ『俺の家の話』から介護・父子関係・遺産を考える

2021-02-14 05:37:26 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1742 TBSテレビ 金曜ドラマ『俺の家の話』から介護・父子関係・遺産を考える



軽妙なタッチで
介護・遺産問題を考えさせてくれるドラマだ

観山 寿三郎(西田 敏行)は、軽度の認知症状があり、歩行器につかまりどうにか歩ける
長男の寿一(長瀬 智也)に介助されお風呂に入る寿三郎

最初は歩行器につかまり歩くのを嫌がっていた老父
躰や手足を動かしたお陰で要介護1から要支援にレベルアップした

介護は、「家族だからできること」「家族だからできないこと」がある
必要のない介護サービスをケアプラン(介護サービス計画)に盛り込み 家族ができる役割を奪ってはいないか
「家族ができないこと」は何か。
介護保険のサービスだけでは「家族ができないこと」を埋めていくことはできない。
家族がしたくても「できないこと」とは何か
本人や家族の聲を聴くことが大切。
ハッとした台詞であった

寿三郎老人は「死に方がわからない」と呟く
生きることへの執着が強いために「死に方」に迷いがでてきた
死に方がわからないから、エンディングノートに「死ぬまでにやりたいこと」を100以上書き連ねた
広げ過ぎた風呂敷 たたみかたがわからなくなってきた

介護をしながら能の稽古もやり、週末はプロレスラーとして活躍する寿一(長男)
肩の凝らない介護ドラマである





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人間にとり 何が「不幸」か

2021-02-13 04:44:38 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1741 何が「不幸」か

自分はテレビのことを「魔法の箱」と呼んでいる
いまは超薄型の液晶画面になり、「箱」とは言えなくなってしまった

昭和30年代頃のテレビは
ブラウン管テレビであった
子ども心に「箱」のなかに人が入っているのかな、と思ってしまう



魔法の箱にとり憑かれ
時間を奪われてしまうことがあるので
観る番組を大幅に削った

いま観ている番組のひとつ
『にじいろカルテ』



『にじいろカルテ』のなかで
「病気は不幸じゃない」という台詞があった
その台詞を聴いて
「そうだな」と思いながら
マザー・テレサの言葉を思い出した

「人間にとってもっとも悲しむべきことは、病気でも貧乏でもない。
自分はこの世に不要な人間なのだと思いこむことだ」(マザー・テレサ)


自分の存在が否定されるほど悲しく不幸なことはない
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老人のねがい

2021-02-10 14:52:28 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


老人のねがい


よく老人は「ぽっくり死にたい」と口にする。
それは老人のねがいにも聞こえる。
寝たきりや「痴呆(認知症)」だけになりたくないから、ぽっくり死にたい。
子どもに迷惑をかけたくない。
それが老人のねがいだとしたら、寂しい気がしてならない。

いまや人生百歳の時代になり、脳卒中(脳血管障害後遺症)や認知症を患い、
不自由さを抱えながら生きらえている。

ケアプランを作成する前において、
在宅で暮らす要介護老人はどんな思い(想い)や不安、苦悩、葛藤などを抱えているのだろうか。
言い換えるならば、不自由な躰や記憶を失っていくなかで、
老人たちは日々何をしていきたいか(死ぬまで何して過ごしていきたいか)。
そして最後は何処で死にたいか。
そのことが老人にとって、大切なことであるにもかかわらず、
言葉にすることもなく押し黙ったまま死を迎え、
住み慣れた我家の畳の上ではなく、病院や介護施設のベッドで逝ってしまう。
  
「爺(じっじ)婆(ばっぱ)、死ぬまで何して過ごしていきたいか」「じっじ、ばっぱ、最後は何処で死にたい?」。
在宅訪問を重ね、じっじ、ばっぱ から信頼を培いながら、
じっじ、ばっぱと「死ぬまでにやりたいことリスト」を一緒に作り、
それをケアプランに反映させていけたら、楽しいだろうな、と思う。
それは簡単なようで、なかなか容易ではない。
固く貝のように閉じた老人の口どう開かせ、本音を聴いてゆくのか。
初心に返ることだ。

自分も知らぬ間に老人の仲間入りとなり、
老いたヒトデの如く、躰も手足も「ガタ」がきてしまい、
beagle犬に連れられ散歩している昨今である。

老いた自分のねがいである死に場所は、
海の見える家で潮風の匂いや海の音を感じながら逝きたい、と思っているが、それは夢物語でしかない。
那須連山と阿武隈川の風を感じつつ、
那須高原の小さな我が家でwifeが枯れた自分の手を握りしめ逝けたら本望である。
 
死ぬまで自分は何がしたいのか。
何もしなくても砂時計のように刻々と時間は過ぎ去っていくだけに
(チコちゃんから「ボーっと生きてんじゃねーよ!」の耳をかすめる)、
いましていることを大切にして、老人の聲に耳を傾けていきたい。


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