老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

病床六尺、これが我世界である

2024-02-12 19:46:05 | 文学からみた介護
2032 『病牀六尺』と介護の在り方



正岡子規『病牀六尺』岩波文庫

●正岡子規著『病牀六尺』(びょうしょうろくしゃく・岩波文庫)を初めて読んだのは24年前のことであり、
書き出しは「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」(7㌻)
で始まる文章はいまも印象に残っている。

彼は23歳のとき、結核により喀血した。
子規と号したのも、血を吐いて死ぬ時鳥に我が身をなぞらえてのことであるという。
結核は脊椎を侵し、34歳の頃人力車で外出したのを最後に臥床生活に入る。

●子規は、『病牀六尺』の六十五のところで、介抱(看病、介護の言葉に置き換えてもよい)の問題について述べている。
「直接に病人の苦痛に関係する問題は・・・介抱の問題である。
病気が苦しくなった時、または衰弱のために心細くなった時などは、
看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。
殊(こと)にただ物淋しく心細きやうの時には、傍の者が上手に看護してくれさへすれば、
即ち病人の気を迎へて巧みに慰めてくれさへすれば、病苦などは殆ど忘れてしまふのである」
(107㌻)。

更に六十九においては
「病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。
精神的の介抱といふのは看護人が同情を持って病人を介抱する事である。
形式的の介抱といふのは病人をうまく取扱ふ事で、例へば薬を飲ませるとか、
繃帯(ほうたい)を取替へるとか、背をさするとか、足を按摩(あんま)するとか、
着物や蒲団の工合を善く直してやるとか、そのほか浣腸沐浴は言ふまでもなく、
終始病人の身体の心持よきやうに傍から注意してやる事である。

・・・・・・この二様の介抱の仕方が同時に得られるならば言分はないが、
もしいづれか一つを択ぶといふ事ならばむしろ精神的同情のある方を必要とする。

うまい飯を喰ふ事は勿論必要であるけれども、
その介抱人に同情がなかった時には甚だ不愉快に感ずる場合が多いのであらう。
介抱人に同情さへあれば少々物のやり方が悪くても腹の立つものでない」
(113㌻)。

「形式的看護と言ふてもやはり病人の心持を推し量っての上で、
これを慰めるやうな手段を取らねばならぬのであるから、
病床六尺、これが我世界である。」
(114㌻)。

●かなり引用が長くなってしまったが、子規は介護(介抱)の在り方を提起し、
その内容は現代の介護においても大切なことを示唆してくれている。

精神的介護は、看護人(介護者)が病人に対し「思いやり」や「想い」を持って接していくことが必要であると同時に、
形式的介護では、病人の苦痛や苦しみ、性格などを推し量り、如何に心配り[気配り]を行う事である。

病人の苦痛や苦しみ、性格などを推し量り、如何に心配り介護を行っていくか。
「思いやり」を持つという意味は、自分と対峙しているひとりの要介護老人に対し
自分はその人はいま何を欲しているのか(いま必要とされるケアは何か)、その「想い」を持ちながら介護にかかわっていく。
それが「心配り(気配り)」なのである。

介護者自身、自分の介護に満足するのではなく、相手が「満足」されたかどうか、そのことが介護の基本であり、
介護員もホテルマンと同じくサービス業に位置付けられる。

勿論常に介護技術を磨き、終始病人に苦痛を与えず、身体の心持よきように安楽、安全な介護を提供する事も大切であると、
子規は、明治35年に「病床六尺の世界」から訴えていたのである。
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