老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1478; 志村けんさんの死が教えたコロナウイルスの非情さ

2020-03-31 08:15:11 | コロナウイルス
志村けんさんの死が教えたコロナウイルスの非情さ

コロナウイルス感染は
とどまるところを知らず拡がり続けている。

人気コメディアンの志村けんさんがコロナウイルス肺炎で亡くなった。
心から哀悼の意を捧げます。

コロナウイルス感染は余りにも非情
いま、さくらの花が咲いているのに
さくらの花に別れを告げることもできずに
白い煙となり青いそらに消えて逝った
志村けんさん。

非情なコロナウイルスは、
高齢者や病身者を狙い撃ち。
注意しても注意しきれない見えない敵。

人間の奢り、油断から
コロナウイルス感染は拡大した。
人間の智慧と根気により
コロナウイルスの絶滅を願うばかりである。

1477; あぶない親子

2020-03-30 19:36:44 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
あぶない親子

大正15年生まれの絹婆様
十年前に最愛の夫を亡くし
いまはひとり暮らし。
焦がした鍋の数も増え
いま食べたことも忘れてしまう。

一月おきに東京に住む息子松任が帰郷する。
息子が帰って来るので本来ならば安心するのだが
反対に心配・不安の種が増え続け、あぶない親子になってしまう。

どんなあぶない親子なのか。
一昨年の暮れ東京の駅ホームで息子は脳梗塞で倒れ救急搬送された。
左半身は軽い麻痺で済んだものの、認知力・理解力は低下した。
にもかかわらず酒煙草をやり放題。

酒煙草を止めるよう注意しなきゃならない絹婆様なのだが
「私も吸いたい、飲みたい」、と息子に訴える。

親子で煙草スパスパ、モクモクで居間は煙で充満
コタツの上は空の缶ビールやウィスキーの瓶がある。

心不全の持病がある絹婆様
不整脈、息切れ、呼吸苦となり息途絶えがち
救急を呼び市内の総合病院に搬送された。

煙草を吸うと本当に死ぬよ、と話しても
息途絶え、胸が苦しくなるまで吸う
苦しくなった老親の状態を目の当たりにしても
理解できない息子

老親から金をもらい
酒煙草を買いに行く息子

入院をきっかけに今後どうするか
考えねばならないが
絹婆様は家で暮らしたい、と言う。
家は自由気儘にできる。

退院後どうするか
本人以上に悩まなければならない・・・・・・

1475; 共に生きるデイサービスをめざす

2020-03-29 16:18:54 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
共に生きるデイサービスをめざす

いま、10名定員の小さな地域密着型通所介護事業所 “桜デイサービス”に
6名ほどの老人が利用されている。

障がい者のデイサービス(生活介護事業所)が不足している。
そこで桜デイサービスは、ことしの6月1日から
要介護老人と障がい者が共に過ごし、かかわり合いを持つことになった。

老人と障がい者がひとつ屋根の下で過ごすには
いろいろと大変であり、手間も増えてくる。

ニーズの違いや年齢が離れていても
ハンデイキャップを持つ者同士で助け合う
そんな風景を想像しながら
いま、生活介護事業所指定申請書の作成をはじめた。
締め切りは4月15日

1474; 春なのに 雪が降った

2020-03-29 05:45:50 | 老いびとの聲
季節外れの雪

春なのに
雪が降った。

弥生、三月は、雪が降るかもしれないから
車はまだ夏タイヤに交換しない方がいいかな、
と思いながらも、キャンバスは禁断を破り夏タイヤにしてしまった。
でも、軽トラックは冬タイヤのままだったので、ホッとした。

桜の蕾は
寒かろうな。

春なのに
雪が降った。



1472;死に寄り添う(下)~兄嫁の見送り 勘助~

2020-03-27 15:48:16 | 生老病死
死に寄り添う(下)~兄嫁の見送り 勘助~


『臨死のまなざし』から教えられたこと(5)



1991年2月17日、中勘助の『蜜蜂・余生』に出会い、「蜜蜂」を読み終えた。
今回、立川昭二さんの『臨死のまなざし』を読み、『蜜蜂』を思い出した。
蜜蜂は、働きづめに働いて死ぬ生き物であることを、
稲垣栄洋さんの『生き物の死にざま』で深く知ることができた。

勘助の嫂(あによめ)にあった末子の人生は、
蜜蜂のように命ある限りただひたすら
「家」のために働きづめに働き死んでいった、数え年60歳であった。
昭和17年4月3日 脳溢血で亡くなる。

勘助は『蜜蜂』の23頁~24頁に
「自分には些(いささか)の興味もないこうした面倒を何十年も
つづけながら感謝らしい感謝も、同情らしい同情もうけず、何ら
報いられることなく老い疲れて草の凋(しお)れるように死んで
いったあなたが気の毒でなりません。

詩人的作家である勘助は
 雨も悲し
 風も悲し
 照る日もまた悲しかりけり
 ・・・・・・
 (『蜜蜂』32頁)
9月3日の日記に
 あなたのいないことしの秋
 きものは人に頼みもしよう
 わたしの胸のほころびを
 誰が 誰が 縫ってくれる
(『蜜蜂』137頁)
と書き、嫂の死の悲しみを乗り越えるには時間がかかった。

火葬の様子は、『蜜蜂』87頁~88頁に書かれている。
親しい人、大切な人を骨にしたときの思いは、だれも同じである。
四十年苦楽を共にしてきた嫂に対し、
勘助は「記憶」ではなく「体温」として生き残っているのだ」、と
日記に感動的な言葉を綴っていた。

末子は、夫である金一は脳溢血で倒れて以後、33年間夫の介護を続け、
その長年の労苦は心身ともに病みつかれた彼女は、昭和15年、クモ膜
下出血で倒れた。

そのときの勘助の看病日記『氷を割る』を読むと、嫂末子さんの蜜蜂
のような苦労が伝わってくる。

    氷を割る

 宿命か
 げに宿命か
 三十年の月日を
 半痴半狂の人のみとりに
 心身ともに病み疲れて
 朽木のごとく倒れし人
 その比いなき善良さを思い
 いいようもない不幸の一生をおもい
 わが更生の恩をおもい
 ながしにぽとぽと涙を落としながら
 夜ふけの厨に
 かちかちと氷をわる

勘助は、家人が寝静まった夜ふけの台所で、錐で氷を割り
嫂の水枕と氷嚢を取り替えるのが日毎夜毎の仕事であった。
兄の看病で疲れた嫂の身の上を思いながら、「かちかち」
と氷を割れば、その氷の上に「ぽとぽと」と勘助の涙が落
ちる情景が浮かび、自分も切なくなってくる。

勘助は、「このつぎに出す本は『蜜蜂』という表題にしようと
思っています。あなたのことですよ、蜜蜂が働き死にに死ぬよ
うにあなたは死んだから。かわいそうな蜜蜂!(『蜜蜂』52頁)


戦前は、いまと違い介護サービスもなく、在宅医療も皆無に近かった。
紙おむつはなく、冬であっても手が凍えちぎれそうになる川の水で
布おむつや下着を洗っていた。末子だけでなく90歳を超えた老人
たちも同じような辛い労苦を乗り越えてきた過去の時代があった。




 




1471;スプーン一杯の蜂蜜

2020-03-27 04:32:23 | 空蝉
スプーン一杯の蜂蜜



春から夏にかけ 色々な花が咲き
ミツバチは、スプーン一杯の蜜を求め
花の上を飛び交う。

ミツバチは働くためにこの世に生まれてきた。
ミツバチの世界は階級社会である。
一匹の王女蜂と数万の働きバチ(すべてメスのハチ)がいる。

この数万の働きバチは、子どもを産む機能はなく
ただひたすら働きづめに働いて死んでゆくのである。
卵を産み子孫を残していけるのは女王蜂だけ。

女王蜂は、ロイヤルゼリーを餌として与えられ、数年生きるのに対し
働きバチの命はわずかひと月余りでしかない。

成虫になった働きバチの最初の仕事は、巣のなかで働く(内勤)。
巣の中の清掃、幼虫の子守、巣を作る、蜜の管理などを行う。

そして働き盛りを過ぎて命の終わりが近づくと
巣の外で蜜を守る護衛係であり、外敵と闘う危険な仕事に就く。

そして、最後の最後に与えられる仕事は
花を回って蜜を集める。その期間は2週間。

密を集める仕事は、常に死と隣り合わせの仕事にあり
クモやカエルはミツバチを狙う天敵であり、いち命を落とすかわからない。
雨風に打ちつけられ死ぬこともある。(志賀直哉『城崎にて』参照)

老いたミツバチは、花から花へと飛び回り、蜜を集め巣に持ち帰る。
これを2週間、働き続けどこかで命尽き死んでゆく。
一匹のミツバチは、働きづめに働いて、やっとスプーン一杯の蜂蜜を集める
(稲垣栄洋『生き物の死にざま』草思社 149頁)


志賀直哉『城崎にて』の短編小説のなかで、蜂の死が描かれている。

或朝の事、自分は一疋蜂が玄関の屋根で死んで居るのを見つけた。
足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がって
いた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這
いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は
如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼
も夕も、見るたびに一つ所に全く動かずに俯向きに転がっているの
を見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。
それは三日程その儘になっていた。それは見ていて、如何にも静か
な感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入って仕舞った日暮、
冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それ
は如何にも静かだった。



1470; 咲いた 咲いた 桜が 咲いた

2020-03-26 08:23:53 | 老いの光影
咲いた 咲いた 桜が 咲いた

きょうは、28日ぶりに
自治医科大学附属病院の外来受診。
腎臓外科と感染症科での診察。

感染症科と聞くと
コロナウイルスを連想してしまう。
きょうの外来予約患者は2400人を超えている。

マスク不足が続いているが
病院のなかは、マスク星人だらけ。

マスクは息苦しく眼鏡が曇るので
マスクはできればしたくないのだが
病院内や人混みのなかはマスク星人に変身

話は変わり
自治医科大学附属病院の駐車場付近には
桜が咲いていた
自分の眼(まなこ)で桜を見るのは
ことしははじめて

咲いた 咲いた 桜が 咲いた
桜の花はマスクをすることもない



1469;死に寄り添う(中)~母の見送り 中勘助~

2020-03-25 18:28:16 | 生老病死
死に寄り添う(中)~母の見送り 中勘助~



「臨死のまなざし」から教えられたこと(4)

妹を見送った中勘助は、23年後の昭和9年(数え50歳)に母(86歳)の死にあう。
「妹の死から二十幾年を経て・・・・私は母を失う悲しみに
くずれおれてしまいそう」になりながら、最後の息をつく母に語りかける勘助。(『脳のまなざし』60頁)

「夜。冷っこくなった母はこの世につくべき息の残りをしずかについている」(前掲書60頁)
臨終の前日「冷たい手を自分の温い手のあいだに挟んでたらなにかいいたい様子なので
耳をよせる。あした というだけがやっとききとれた。あした死ぬというのかもしれない」
ーのであった。(前掲書60頁)

勘助は、母の最後の言葉を聴き取るだけでなく
母の最後の「ひと息」を引き取るさまをしっかりとみつめていた。

勘助自身、「生まれつき虚弱」で「病身者」であったからこそ、
妹そして母の死に寄り添い、弱い生き物をひたすらみつめてきた。

母は老衰して命を終え、「母を失う悲しみくずれおれてしまいそう」と表現する
彼の言葉は胸に迫り、死に寄り添う姿に涙腺が緩んでしまった。

1468; 「臨死のまなざし」から教えられたこと(3)

2020-03-25 05:09:33 | 生老病死
「臨死のまなざし」から教えられたこと(3)



死に寄り添う(上)

最近書店で、中勘助の『銀の匙』が積本にされ
静かなブームをよんでいる。

中勘助が生まれたのは明治18(1885)年
彼は生まれつき虚弱で、病身者であった。
腎臓病、神経症、脚気、胆石症などを患っていた。

病身者でありながら彼は80年の生涯において、
親しい人たちの死に寄り添ってきた(介護、看取りをしてきた)。

最初に死に寄り添ったのは、5つ違いの妹だった。
妹は22歳、勘助は27歳のとき

{幼い子を残して死んでいった妹の最期を、『妹の死』のなかで勘助は書き留めている。
 妹はは目をとじたままでそのせつない、頼りない・・・・・
「いくら息をしようと思ってもできなくなってしまう。・・・・・」
 そういううちに幾度も息がとまりかける、・・・・。
「誰か息をこしらえてちょうだい」といった。}『臨死のまなざし』57頁~58頁

息することも本当に苦しく「誰か息をこしらえてちょうだい」の言葉がせつなく胸に詰まる。

妹の最後の息は「それでもなにかいうらしく唇をうごかして
自分の顔のまえにかきさぐるような手つきをした。が、間もなく
息をひきとった。最後の息というものはいくたび見ても最後らし
く、そしてよそ目にはせつなそうなものである。」『臨死のまなざし』58頁

妹は病院のベッドで、肺結核で亡くなった。
大正元年の頃の病院は、こんにちのような医療機器はなく延命処置が施されるような
ことはなかった。

本当に勘助の妹のように最後家族の人たちに見送られ、「息をひきとる」さまは、
こんにちの病室で見られることは稀である。

自分も含め、大切な家族とどのような死に方(息をひきとるさま)をしてゆくのか
勘助の妹の死を通し、あらためて考えさせられた。



1467; 「臨死のまなざし」から教えられたこと(2)

2020-03-24 16:53:14 | 生老病死
「臨死のまなざし」から教えられたこと(2)

「老い」と「病い」

筆者(立川昭二さん)は、『臨死のまなざし』39頁に
「老いには本来、病いと違って自覚症状がない。
人はふつう他人の目のなかで老いはじめる」

80歳後半や90歳を過ぎても、「老い」を認めていない人もいる。
法的には65歳の誕生日をむかえると「老人」になり、介護保険被保険者証が届く。
自分は67歳、老人とは思ってはいない。
ブログには自分のことを「老いびと」と表現することはあるが・・・・。

他の人も同じで、65歳を過ぎても、まだ自分はその年齢よりも
「若い年齢」と思い込み、老いを自覚することはない。

齢を嵩ね往き 親族や友人の葬式の機会が増え
従兄弟姉妹や友人の顔をみて、「老けたな」と思ったりし、
自宅に帰り、鏡の前に立ち、自分の顔をみて、老いを知る。

筆者は、{多くの人は、「老人」よりも「病人」になりたがる}(40頁)と述べ、
「病い」は、引き返す見込みのない不安であり
「老い」は進み、その先には「死」がある。

吉田兼好は『徒然草』第93段のなかで
「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし、存命の喜び、日々に楽しまざらんや」(48頁)

世阿弥は『風姿花伝』に
「一方の花を極めたらん人は、萎れたる所をも知る事あるべし。
しかれば、この萎れたのこそ、その萎れたると申すこと、
花よりも猶上の事に申しべつ」

「花の咲かない草木が萎れたところで、何の面白いこともない。
しかし、花の萎れたのこそ、その花の咲いている時よりも面白いのである」(50頁)

萎れた花を捨てることはあっても、
萎れた花のなかに面白みや美しさを楽しむ、というようことを考えもしなかった自分。

老いは、萎れた人であると表現するものではないけれど、
老い嵩ねゆくなかで、「花の咲いている時より」も、
存命していることに喜び、老いを楽しんでいく。

幸福の尺度(価値観)は人それぞれ違うけれども
ささやかな暮らしのなかで老いを楽しでいくことなのかもしれない。
よりよき死を迎えるために老い生きて往く、
そんなことを「臨死のまなざし」から教えられた。


1466; 「臨死のまなざし」から教えられたこと(1)

2020-03-23 21:11:09 | 生老病死
「臨死のまなざし」から教えられたこと(1)


先日、古本屋200円コーナーで立川昭二さんの『臨死のまなざし』を見つけた.
平成8年6月に出版され、22年前の古い本である。
目次を見て、興味をそそられ、200円を支払いmy bookとなった。

重い病いの床や死に臨んだ床に
自分を置いたとき、はじめて自分が見えてくる。

漱石、賢治、鷗外などの文学を通し、死の情景や臨死のまなざしから
生老病死を見つめていく

何回になるかわからないが、
著者の言葉を引用しながら、老いや病い、そして生死のことを
ふれていきたい。

99歳の登喜子婆さんは
肺炎を再々発し先週の土曜日に入院した。
今日、長男から電話が入り、脳梗塞を発症し意識不明となった。

夕方,病室を訪れた。
小脳梗塞の診断であり、酸素療法と点滴が施行されていた。
彼女の耳元に近づき「登喜子さん」、と大きな声で呼んだら、
「はい」と返事をしてくれた。

神様は意地悪なのか
それとも白寿の婆さんに試練を与えたのか
右肺炎だけでなく小脳梗塞の病気まで抱えてしまった彼女

奇跡的に快復することを祈るだけである

1465; 慣れぬ死

2020-03-22 21:04:26 | 読む 聞く 見る
慣れぬ死


昨日逝去された葭田克さん(69歳)に会って来た。
声をかけると、今にも目を覚ましそうな感じであり、
穏やかな表情で寝ておられた。

余りにも突然の死であっただけに
妻は死んだことが受け入れられない気持ちにあった。

佐久総合病院の内科の臨床医であり作家でもある
南木佳士さんは、『からだのままに』文春文庫 のなかで
「たくさんの亡くなる人たちを見送ってきたのに、いまだ死に
関する定まった視点を持ち得ないでいる」 152頁
「他者に起こること(死)はすべてわたしにも起こりえるのだと
肌身にしみた」 152頁

「みんな、きょう死ぬかもしれない朝にも、自分が死ぬとは
思っていない。なぜなら、死のそのときまでは生きているの
だから。」 154頁

老い齢を嵩ねて来ると
他者の死を意識するようになりながらも、
自分は今日死ぬとは思っていない。

人間は生きている限りいつか死ぬ、
「死のそのときまでは生きている」
只今臨終、の言葉が浮かんだ。
いまのいままで生きていたが、いま生を終えました。

死も含め、自然のままに、生きていくことを
南木佳士さんは『からだのままに』のなかで述べられている。

多くの人の死に立ちあっても
慣れぬ死
他人の死に慣れてはいけない



1464;突然の電話

2020-03-22 06:14:11 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」
突然の電話

昨日、蒲団に入り
時計の針は22時を回っていたたどうか
スマホが耳もとで鳴りだした。

葭田婆さんの息子嫁の名前が表示され
「どうしました?」と話しかけると
「夫が亡くなった・・・・」

思いがけない知らせに吃驚し
「ご愁傷様」の言葉もでなかった。
突然脳梗塞に襲われ、手術をしたが
回復に向かわず老母親より先に逝ってしまった。

彼女は「まだ信じられない、夫が死んだなんて・・・・」
「そうですよね。自分も信じられないです」
夫の死を受け入れることができない彼女。
姑には息子の死をまだ話せない、と。

人間の死はいつ訪れるかわからない。
人間は、「死」を前にすれば、無力な存在であり
ただ悲しむだけである。
死を悼み悲しみ
その悲しみ(喪失感)を乗り越えて欲しい、と
心密かに願うことしかできない。

その夜、なかなか眠りにつけなかった・・・・

1463;みんなで食べるから美味しい

2020-03-21 15:38:46 | 老いの光影 第6章 「老い」と「生い」


みんなで食べるから美味しい

さくらデイサービスセンターは10名定員の民家を借りた
小さな小さなデイサービス

ある日のお昼は、爺さん婆さんとスタッフと一緒になって
カレーライス作り
勿論手は消毒、薄ビニールの手袋をはきます
(北海道では手袋を「はめる」ではなく「はく」)


それぞれが「できる」ことをやります
包丁を使えなくても玉ねぎを手で剥く爺さんもあれば
鍋のなかの具材が焦げないようお玉でかき混ぜる婆さん
道具が思うように使えない婆さんは味見役
それぞれが何かしら「できる」ことをやってもらう

過去にも何回かカレーライスは作ったことがあり
手順は慣れてきた

ひとり暮らしやひとりで食べることが多い爺さん婆さんたち
「こうしてみんなと食べる昼食は美味しい」
「ひとりで食べる食事ほど味気なく美味しくない」

テーブルの下は、こぼれた米粒やイモやニンジンが転がっている
鶏がいればきれいにしてくれるのだが・・・・
と、思いながらカレーを食べる自分(何にもしなかった自分)