老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

病床六尺、これが我世界である

2024-02-12 19:46:05 | 文学からみた介護
2032 『病牀六尺』と介護の在り方



正岡子規『病牀六尺』岩波文庫

●正岡子規著『病牀六尺』(びょうしょうろくしゃく・岩波文庫)を初めて読んだのは24年前のことであり、
書き出しは「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」(7㌻)
で始まる文章はいまも印象に残っている。

彼は23歳のとき、結核により喀血した。
子規と号したのも、血を吐いて死ぬ時鳥に我が身をなぞらえてのことであるという。
結核は脊椎を侵し、34歳の頃人力車で外出したのを最後に臥床生活に入る。

●子規は、『病牀六尺』の六十五のところで、介抱(看病、介護の言葉に置き換えてもよい)の問題について述べている。
「直接に病人の苦痛に関係する問題は・・・介抱の問題である。
病気が苦しくなった時、または衰弱のために心細くなった時などは、
看護の如何が病人の苦楽に大関係を及ぼすのである。
殊(こと)にただ物淋しく心細きやうの時には、傍の者が上手に看護してくれさへすれば、
即ち病人の気を迎へて巧みに慰めてくれさへすれば、病苦などは殆ど忘れてしまふのである」
(107㌻)。

更に六十九においては
「病気の介抱に精神的と形式的との二様がある。
精神的の介抱といふのは看護人が同情を持って病人を介抱する事である。
形式的の介抱といふのは病人をうまく取扱ふ事で、例へば薬を飲ませるとか、
繃帯(ほうたい)を取替へるとか、背をさするとか、足を按摩(あんま)するとか、
着物や蒲団の工合を善く直してやるとか、そのほか浣腸沐浴は言ふまでもなく、
終始病人の身体の心持よきやうに傍から注意してやる事である。

・・・・・・この二様の介抱の仕方が同時に得られるならば言分はないが、
もしいづれか一つを択ぶといふ事ならばむしろ精神的同情のある方を必要とする。

うまい飯を喰ふ事は勿論必要であるけれども、
その介抱人に同情がなかった時には甚だ不愉快に感ずる場合が多いのであらう。
介抱人に同情さへあれば少々物のやり方が悪くても腹の立つものでない」
(113㌻)。

「形式的看護と言ふてもやはり病人の心持を推し量っての上で、
これを慰めるやうな手段を取らねばならぬのであるから、
病床六尺、これが我世界である。」
(114㌻)。

●かなり引用が長くなってしまったが、子規は介護(介抱)の在り方を提起し、
その内容は現代の介護においても大切なことを示唆してくれている。

精神的介護は、看護人(介護者)が病人に対し「思いやり」や「想い」を持って接していくことが必要であると同時に、
形式的介護では、病人の苦痛や苦しみ、性格などを推し量り、如何に心配り[気配り]を行う事である。

病人の苦痛や苦しみ、性格などを推し量り、如何に心配り介護を行っていくか。
「思いやり」を持つという意味は、自分と対峙しているひとりの要介護老人に対し
自分はその人はいま何を欲しているのか(いま必要とされるケアは何か)、その「想い」を持ちながら介護にかかわっていく。
それが「心配り(気配り)」なのである。

介護者自身、自分の介護に満足するのではなく、相手が「満足」されたかどうか、そのことが介護の基本であり、
介護員もホテルマンと同じくサービス業に位置付けられる。

勿論常に介護技術を磨き、終始病人に苦痛を与えず、身体の心持よきように安楽、安全な介護を提供する事も大切であると、
子規は、明治35年に「病床六尺の世界」から訴えていたのである。

介護の世界も金次第

2023-06-14 15:58:58 | 文学からみた介護
1959 ロストケア {3} 必要な介護が受けられない


     葉真中 顕『ロストケア』光文社文庫

「地獄の沙汰も金次第」という言葉がある。
介護も同じである。介護の世界も金次第。

『ロストケア』(54頁)
「残念ながら、介護保険は人助けのための制度じゃない。介護保険によって人は二種類に分けられた、
助かる者と助からない者だ」


老人福祉をビジネスとして民間にアウトソーシング(外部委託)すること。それが介護保険の役割だ(54頁)
介護保険法が施行される前の老人福祉法では、老人福祉や介護の整備は行政の責任であった。
介護保険法施行以後、介護事業所の指定権限は県、市町村にあり、介護事業所の運営は民間業者に任せたことで、
行政の責任は免れ、民間の介護事業所を実施指導の名の下で締め付け、そして介護保険サービスが使いずらくなってきている。

教員の資格に比べケアマネジャーの資格は厳しく、5年毎に更新研修を受けなければケアプランの作成ができない。
訪問看護に比べ訪問介護の介護報酬は低いことも問題。そのことについては後日、記していきたい。

介護保険を使えば介護サービスを一割負担で利用できる、ということになっている。(56頁)
現在は高齢者の年金受給額や所得によって自己負担は1割、2割、3割負担と分けられている。
膨大に増え続けている介護保険費用に対し、高齢者自身の負担を増やすべきだとして自己負担の割合についても2割、3割の枠が作られた。
併せて介護保険料も年々増え続け、それは年金受給額から差し引かれ、年金額は目減りしており、
特に国民年金受給者にとっては厳しく医療費の支出も含めると生活厳しくやりくりが大変になってきている。

実際に介護の現場に身を置くものとして
どの要介護老人も必要なだけ介護サービスを使えたら、と思うことがある。
月5万円未満の国民年金受給者がおられ、同居している息子、娘がいて、働いていると
掃除、洗濯、調理などの生活援助(訪問介護)のサービスが容易に受けられない。
子どもと要介護老人の二人暮らしで収入が10万円以上あると生活保護が利用できない。

自分がいま抱えている要介護老人は要介護2、週3回の透析治療を受けている。
同居している息子は夜間専従のコンビニで働いている。
老父は自営業を64歳まで行ってきた。
高度経済成長のときは羽振りもよく、老後のことは考えておらず国民年金の納付はおざなりになっていた。
所得税や市民税をたくさん納めてきたこともあったのに、いまは月額2万円の年金生活になり、情けない、とある老人は話す。

息子の収入をあてにすることはできない。
2万円のなかから使える介護サービス費用は福祉用具(介護用ベッド)と週3回の通院費は併せて1万円が限度。
週1回の入浴サービス(デイサービス)を利用することが難しい(週1回だと月額6,000円余りになる)
お風呂だけ入れる半日のデイサービス事業所をみつけなければならない。
せめて週1回の生活援助を進めたが、「使わない」、と本人は言う。

最近、格差なんて言葉やたらと聞くが、この世で一番えげつない格差は老人の格差だ
要介護老人になった老人の格差は冷酷だ。安全地帯の高級老人ホームで至れり尽くせりの生活をする老人がいる一方で、
重すぎる介護の負担で家族を押しつぶす老人がいる。・・・・(中略)・・・・
未だに多くの家庭で介護原因のノイローゼや鬱(うつ)が生まれ続けているー」(56~57頁)

介護と両立できる仕事は限られ、家の近くで時間の融通が利く仕事はアルバイトしかない。
それでは介護や生活が成り立たない。あった貯金も底がついた。

福祉事務所の窓口で「働けるんですね? 大変かもしれませんが頑張って」、と言われるだけで
介護地獄から逃れることはできないし、本人も残された家族に負担をかけ申し訳ない、と思い「殺してくれ」と家族に訴える。

せめてあと10,000円のお金があれば、週1回のデイサービス、週2回の身体介護(30分)の介護サービスが利用できる。
そうすれば本当に助かる。現実は介護サービスが使いたくとも使えない。
介護の世界も金次第なのです。

42人の老人を殺した斯波宗典は、「社会の穴」がある(社会の歪がある)、と大友検事に切々と話す。
(自分は年金受給額は10万円足らず。この先妻が大病や事故に遭遇すると、「穴の淵」にいる自分は、もれなく「社会の穴」に落ちてしまう)
社会の穴に落ちたら、なかなかそこから這い上がり抜けだすことができず、孤独のなかに置かれる。

生活保護受給者は介護保険や医療などのサービスは自由に使える。
介護保険料、健康保険料は免除され、介護や医療の費用もかからない。

自宅で看取りをする。
それは本人にとり幸せことだが、在宅で看取るには金がかかる。
往診診療代、訪問看護、訪問介護(身体介護)、福祉用具の費用など
月額にして25,000円~35,000円はかかる(1割負担)。

老人介護は他人事ではなく死のテーマと同様、避けては通れない路なのかもしれない。

介護の影を書き連ね、介護の大変さと暗いイメージを与えてしまったけれど
一方では介護保険サービスにより、数多くの要介護老人や家族も助かっている人もおられる。
貧富の格差、老後の格差に関係なく、誰人も安心して老いて逝ける社会を望んでいる。

コロナ禍や少子化「対策」ということで、現金給付しても、それは焼石の水でしかない。

少子化と老人介護は表裏一体の関係にあり
表現は相矛盾した言葉だが、急ぎかつ時間をかけきめ細かな施策こそが大切だと思う。



介護殺人で救われた人がいた

2023-06-10 16:00:37 | 文学からみた介護
1955 ロストケア {2} 喪失の介護


路端に咲いていた花たち

離婚した羽田洋子(38歳)は生まれたばかりの颯太を連れ、
年金暮らしの母(71歳)が住む家に戻ってきた。
あれから6年が経ち、母は駅の階段から転げ落ち、腰と両足の骨を複雑骨折した。
それがきっかけで母は歩けなくなり寝たきりになり、いま思えばあれが(介護)地獄の始まりだった。

洋子は仕事の他に子育ての他に母の介護まで背負うことになった。
離婚したとき、乳飲み子を抱えた娘を受け入れてくれた母。
今度は私が寝たきりになった老母を受け入れる番だと思い、献身的に(介護を)尽くした。

認知症を患った母は、心を尽くして介護をしてくれている娘の名前も顔もわからなくなっていた。
認知症は母の人格そのものを変え、母が母でなくなっても、「家族だから、面倒をみなくてはいけない」。
そんな義務感だけが残り、空しさと疲労だけが残った。

母の介護が辛く、この介護地獄から抜け出したいと思いながら、
あとどれくらい(介護地獄が)続くのだろう?
いつまで耐えなければならないのか? 先の見えない介護。

老いて寝たきりになり認知症になり「生ける屍」になっても、
母は死なないなんて、こんなに絶望的なことはない!(『ロストケア』光文社文庫 45頁)
そんなふうに考えてしまう自分が心底嫌になった。

裁判の中で検事から質問されても、洋子は心のなかでは
母が毒殺された事実に対しても「くやしさ」も「無念」もなかった。
母の死をきっかけに、介護地獄から解放された。

洋子は、思った。
「母の死によって洋子が救われたのは間違いはない。
そして身も心も自由を失い、尊厳を剝ぎ取られたまま生きていた母にとっても、
やはり救いだったのではないだろうか」
(『ロストケア』光文社文庫 329頁)

42人の要介護老人を殺した斯波宗典は、
「殺すことで彼らと彼らの家族を救いました。僕がやっていたことは介護です。喪失の介護、
『ロスト・ケア』です」
(『ロストケア』光文社文庫 316頁)。

人を殺すことは許されるのか?

介護地獄であり、もう限界、特別養護老人ホームにお願いするしかない!、と老親を棄てた訳ではない。
それでも老いた実親や義父義母の介護を終え振り返ったとき、自分も生かされてきた、ことに
気づかされ、自身の老いの生き方や死に方を考えるきっかけになったことに感謝する家族もおられる。

孤独のなかで介護し続け、その愚痴やストレスのはけ口があるかないかで、気持ちの負担が違ってくる。
介護の重荷から解放されたわけではないけれど、話を聴いてくれる、相談に乗ってくれる人がいる、
それは家族だけでなく老いた人にとっても大きな心の支えとなる。





介護現場に溢れる悲鳴、介護殺人

2023-06-09 20:07:15 | 文学からみた介護
1954 ロストケア {1}




映画『ロストケア』あらすじ
早朝の民家で老⼈と介護センター所長の死体が発⾒された。
犯⼈として捜査線上に浮かんだのは死んだ所長が務める訪問介護センターに勤める斯波宗典(松山ケンイチ)。
彼は献身的な介護士として介護家族に慕われる⼼優しい青年だった。
検事の大友秀美(長澤まさみ)は斯波が務める訪問介護センターで老⼈の死亡率が異常に高いことを突き止める。
この介護センターでいったい何が起きているのか?
大友は真実を明らかにするべく取り調べ室で斯波と対峙する。
「私は救いました」。斯波は犯行を認めたものの、⾃分がした行為は「殺⼈」ではなく「救い」だと主張する。
斯波の⾔う「救い」とは⼀体何を意味するのか。
なぜ、⼼優しい青年が未曽有の連続殺⼈犯となったのか。
斯波の揺るぎない信念に向き合い、事件の真相に迫る時、大友の⼼は激しく揺さぶられる。
「救いとは?」、「正義とは?」、「家族の幸せとは?」、
現在の⽇本が抱える社会と家族の問題に正面から切り込む、社会派エンターテインメント映画。

映画を見逃したので、光文社文庫 葉真中 顕『ロストケア』を読んだ。
介護に従事する一人として、衝撃的な小説だった。
彼はなぜ43人もの人間を殺害したのか?

介護における光と影。
介護現場に溢れる悲鳴、現代社会の歪など考えさせられた。

次回( ロストケア {2} )は子どもを育てながら認知症の母を介護している羽田洋子の苦悩、葛藤を紹介していきたい。
家族介護者が抱えている葛藤などを見つめていきたい。



老いた人の叫び 「もう生かさないでくれ」

2022-03-24 12:59:17 | 文学からみた介護
1857 高見順 「老いたヒトデ」(『死の淵より』講談社文庫)



文庫本『死の淵より』のなかでラストに掲載されている詩である
33年前に「老いたヒトデ」を読み、寝たきり老人や認知症老人のことが頭に浮かんだ


長くなるかもしれませんが
最後までお付き合いいただければ幸いである


真夏の海水に裸足で入ったとき
裸足(あし)にヒトデが触れようものなら
若い娘は大変!

「踏みつぶすのも気持ちが悪い」と蔑まれるほど
人間様に嫌われてしまう老いたヒトデ
老いた人も同じく疎まれ嫌われている

「一時は海の星と謳われたあたしだ」
老いたヒトデもかつては海のスターと謳われていた

人間は、「ハマグリを食い荒らす憎い奴」とヒトデを嫌い
更に「食用にもならぬ」と蔑んでいた
ヒトデは呟く「海を荒らし、汚くしているのは人間である」

老いた人のなかには「福徳円満」な人もおり
穏やかな気持ちで老後を過ごされている人もいる
齢を重ね(嵩ね)るにつれ
「腕も足も体もボロボロ」になり転んだこともあった 
物忘れも目立ち ひどくなると自分が誰だかわからなくなる

食事中うっかり誤嚥してしまった
むせや咳がひどく発熱もでてきた
「しまったと思ったが」
入院せずこのまま死んでしまった方がいいと
思ったこともあった

年老いて
歯はなく好きな食べ物も食えず
自分の手で食べることもできず
全粥、超キザミを食べさせてもらい
「生き恥をさらしていた」

炎天の真夏
喉が渇き水を欲しても
水を飲むことがわからぬあたし
せん妄になり熱発しても気づく人は多くはなかった

過去においてあたしにも
「往年の栄光」があり
夜空の星のように輝いて時代もあった
結婚したとき
子どもが生れたとき
仕事で輝いていたこともあった
いまは死を待つだけの老いた身となり
尿で沁みついたベッドに臥せている

昔は不便だったが暮らしやすかった
「海にかえさないでくれ」という老いたヒトデの叫びは
老いた人にとっては「もう生かさないでくれ」と
こだまとなって返ってくる
延命治療は望まないけれど
死に際のとき
傍らに居て手を握ってくれるだけでいい


 老いたヒトデ
            高見順

踏みつぶすのも気持が悪い
海へ投げかえそうとおっしゃる
その慈悲深い侮蔑がたまらない
一時は海の星と謳うたわれたあたしだ

ハマグリを食い荒す憎い奴と
あなた方から嫌われ
食用にもならぬとうとまれたあたしが
今は憎まれも怨まれもしない

あたしも福徳円満
性格も丸くなって
すっかりカドが取れ
星形の五本の腕もボロボロだ

だのにうっかりアミにひっかかった
しまったと思ったが
いや待て これでいいのだ
このほうがいいと思い直したところだ

年老いて
歯がかけて好きな貝も食えず
重油くさい海藻などしゃぶって
生き恥をさらしていた

炎天の砂浜で
のたうち廻る苦しみのなかで
往年の栄光を思い出しながら
あたしはあたしの瀕死を迎えたい

宝石のような星が
夜空に輝いていたのも昔のことだ
今は白いシラミのような星が
きたない空にとっついている

海の星の尊厳も昔のことだ
海にかえさないでくれ
老いたヒトデに
泥まみれの死を与えてほしい


2017年11月15日 掲載










城の崎にて

2022-02-20 09:07:19 | 文学からみた介護


1814 静かな死

深夜に目が覚め なかなか寝付かれずにいた
豆球だけが灯る薄暗さのなかで
ふと、現代国語で習った志賀直哉の『城の崎にて』を思い出した。

短編小説『城の崎にて』は、死というものについて書かれている。
若かった時とは違い、老いに入った自分は、死は他人事ではなくなった。

物忘れが増え、記憶は不確かさにあるけれど
思い出しながら『城の崎にて』のことを書いていきたい。

筆者は青年のとき、山の手線の電車に跳ねられ、顔と背中に傷を負い
医者からは脊椎カリエスが発症しなければ大丈夫だ、と言われた。

3〜5週間、養生のために城崎温泉に来た筆者。

城崎温泉に療養しているときに生き物、蜂、鼠、いもりの死に遭遇する。

蜂は日々朝から晩まで忙しく働き、雨上がりの朝、ひっそりと死んだ。
路上の上に濡れた蜂の死骸は、静かに葬られる。
残された者は、日々の忙しさのなかで、
時間とともに死者をやがて忘れていく、静かな死である。

蜂の死に方に対し、鼠の悲惨な死に直面した。
川の土手で鼠は七寸の魚串が刺し通され、
子どもや大人までもが石を投げる。
鼠はそこから逃れようと苦しみもがくがつい果ててしまう。

筆者が投げた小石が、偶然にもいもりにあたり、いもりは死ぬ。
思いがけない、不慮の死。

筆者は、一歩間違えば電車に跳ねられ突然死に遭ったかもしれない。
でも、自分は死を免れた。
生と死は紙一重にある。

いままでは死は遠いところにある、と思っていた。
死はいつ訪れるかは、神のみぞ知る。

できるものなら蜂のように
静かな死を臨みたい、と願う。





藤沢周平 静かな木 新潮文庫

2022-02-16 21:25:09 | 文学からみた介護
1809 静かな木

古びれた寺の境内は、森閑と人の気配もなか薄暗い
大きな欅に夕映えが射しかけていた

五年前に妻を急病で喪った孫左衛門は、いま隠居の身であり老いを迎えた。
妻を失ってから、孫左衛門は殊更、老いを感じた。

目の前に立ちはだかる欅は老木であった。
幹は根本の近くで大人が三人も手をつなぐほどの大木であった。

大木の樹皮は無数の鱗(うろこ)のように
半ば剥がれて垂れ下がっていた
そして、太い枝の一本は、枯死している。

老いた欅は、自分の姿のようでもある、と彼は深く感じた。
老いた欅は、桜咲く春を迎え
桜散る頃には老木の欅は 青葉となり風が通り抜けていった。

※ 一部 藤沢周平 静かな木 から文章を引用しました




好きな人を産んでくれた人だから、大切にしてあげたい

2020-09-03 05:17:49 | 文学からみた介護
 1657 好きな人を産んでくれた人だから、大切にしてあげたい

丸福デパートに勤務している芝田由美は
上司との不倫を続けるかどうか
悩みながら妙高山の頂上をめざしていた

由美は「年配の男性社員からのウケがよい。
時間にルーズだし、仕事のペースも遅いので、
先輩女子社員からはきつくしかられることが多い」
(湊かなえ『山女日記』幻冬舎文庫 29頁)



休日のとき由美は、元原部長のお母さんに、週に1回、一人で会いに行っている。
認知症の症状もあり、完全介護の老人ホームに入っていている。
部長から「様子を見に行って欲しい」、と頼まれていた。

部長は母親の老いていき、物忘れをしていく姿を見るのが辛く耐えられないから・・・・。
(老母は、息子のことも、子どもがいることも忘れている)
部長の妻は、チャリティー活動が忙しいから、面会に行く時間がないから・・・・。
ホームの職員には「お母さんの妹の子って自己紹介しているんだ」と話す由美。

同僚の江藤は、そんなことって、納得できているの?、と由美に尋ねる。
「わたしね、お母さんのこと好きなのよ。だって、好きな人を産んでくれた人でしょう。
それだけで大切にしてあげなきゃって思うじゃない」
(前掲書45頁)

愛人の老母の見舞いをする女
見返りもなく・・・・・。

どう思いますか?
愛人とは言え「好きな人を産んでくれた人だから、大切にしてあげたい」
なかなか言えない「言葉」であり、胸に詰まるものがあった。
それにしても好きな人かもしれないが、(私が)女だったら脛(あし)を蹴飛ばし別れるかな。
注;脛 「すね」と読むがここでは「あし」と読む






要介護老人と無職の孫

2020-06-01 05:00:08 | 文学からみた介護
1546;羽田圭介『スクラップ・アンド・ビルド』文藝春秋

小説のタイトルから
いろいろなことを考えさせられる。
5年前に出版された羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』を
今頃手にした自分。

スクラップアンドビルドとは、老朽化したり陳腐化した機能しなくなった古い建物を廃棄し、
新しく建て替え最新の施設に置き換えることをいう。

この小説に登場する健斗(28歳、無職)の祖父(87歳、要介護1)と健斗の母(60歳)の三人暮らし。
※祖父の要介護1は、自分が推定したもの。杖を使い歩行ができ、浴槽の跨ぎも軽介助によりできていることから
要介護1と判断した。

人間の「スクラップ・アンド・ビルド」と言葉で表現していいかどうか悩むところもあるが
小説のタイトルから言わんとしているのは
歩くことも覚束なくなり物忘れももでてきた要介護老人はスクラップであり
健斗はじいさん(祖父)とは違い、再び身体を鍛えこれから生きていくビルドである。

じいさんはことあるたびに「死にたい」「迎えに来てほしい」と口にする。
そうならば「死にたい」という祖父の願いをどう叶えていけばよいのか。
同じ屋根の下で暮らしていくなかで孫は考え実行していく。

介護には「足し算」と「引き算」がある。
「引き算」の介護は、要介護老人を自立させていくことにつながる
「足し算」の介護は、一見優しそうな介護に映る過剰な介護は、要介護老人をダメにしていく。

「足し算」の介護は、現実の介護施設や介護事業所、病院などで為され
要介護が悪化し、スクッラプ化していく老人。

 プロの過剰な足し算介護を目の当たりにした。健斗は不愉快さを覚える。被介護者
への優しさに見えるその介護も、おぼつかない足どりでうろつく年寄りに仕事の邪魔
をされないための、転倒されて責任追及されるリスクを減らすための行為であること
は明らかだ。手をさしのべず根気強く見守る介護は、手をさしのべる介護よりよほど
消耗する。(『スクラップ・アンド・ビルド』p41)


見守る介護は、「引き算」の介護であり、待つ介護でもある。
これは介護だけでなく子育てにも同じようなことが言える。


1379;愛されることはできても、愛することはできなくなっていく(再掲)

2020-01-29 05:30:57 | 文学からみた介護
愛されることはできても、愛することはできなくなっていく
木村元子 『私の頭の中の消しゴム』 小学館文庫


私の頭の中には、消しゴムがある。(84頁)

あの夜、光の洪水みたいに空高くから降り注いでいたオレンジ色の光が、なんだか少し頼りなくて寂しそうだった。
身体がどんどん冷えてきて。
でも、もう動きたくなくて。
このまま時間が止まってしまえばいい、それだけ願っていた。(86頁)

どんどん、記憶がなくなっていくんだよ。
自分のことも分かんなくなるんだよ。
浩介のことも忘れちゃうんだよ。
私、嫌だよ。(88頁)

俺がお前の記憶になる。
薫が忘れたら、これまでのことを何度でも話すよ。
2人がどうやって出会ったか。
どんなことで笑ったか。
どんなことで喧嘩をしたか。
何度でも繰り返すよ。

その度に薫は俺に新しく恋をするんだ。
別れるなんて絶対に言うな。
薫は俺を信じさせてくれたんじゃないか。
何も信じられなかった俺に。
変わらないものがあるって。
信じられるモンがこの世にはあるって。
いまさら、逃げんなよ。(89~90頁)

でも、会社を辞めると、病気で失うものが現実に見えるようで怖い。(134頁)

僕の目の前に君はいる。
僕のことを知らない君が。
こんなに近くにいるのに。
手を伸ばせばこうやって触れられる、すぐそこに君はいるのに。
僕には、君をこの世に呼び戻すことができない。(164頁)

愛されることはできても、愛することはできなくなっていくのです。

心がすべて失っても、私の体は生き続けます。(168頁)
この手紙を書いている今も、次の瞬間には、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。そう思うと怖い。(169頁)


28歳という若さでアルツハイマーの告知を受け、
私の頭の中は消しゴムになり、
記憶を失っていく主人公の切なさ、
愛おしさが伝わってくる。

「自分が自分でなくなってしまう」怖さに対峙しながらも、
記憶が残されたわずかな時間に、
自分の思いを彼に綴った最後の手紙に託す彼女。


「心がすべてを失っても、私の体は生き続けます」
「愛されることはできても、愛することはできなくなっていくのです」(168頁)。
「でも、会社を辞めると、病気で失うものが現実に見えるようで怖い」(134頁)。

「この病気が残酷なのは、肉体的な死よりも精神的な死が先にくることだ。
私の身体は残っても、私の精神はなくなってしまうのだ」(123頁)。


介護の世界に身をおいている自分、
アルツハイマーになった薫の気持ち、
頭の中が消しゴム状態となり、
精神(心)を失っていく怖さ、不安、苦悩、葛藤など、
あらためて認知症者が抱えている想いや不安をどれだけ理解していたのか、
自問自答していかねばならない。

愛した人、思い出が一杯つまった時空間さえも喪失していく。
記憶があるうちに彼にさよならを無言で去り、館山の介護施設に入居した彼女。

特別養護老人ホームやグループホームに入居してきた高齢者も同じ想いで家族に「さ・よ・な・ら」し、
人生の最後をそこで過ごす。

介護者は、特別養護老人ホームやグループホームはどんな場所として位置づけ、
日々認知症者にかかわっていくのか。

私が私でなくなっていくとしても、私で私であることに変わりはない。
ひとり一人違う私に対し、
介護者は“にんげん”のもつ優しさや想いを
どう特別養護老人ホームやグループホームのなかで実現していくのか。

介護者は、浩介と同じ気持ちになり入居者に話しかけることだ。
「俺がお前の記憶になる。薫が忘れたら、これまでのことを何度でも話すよ」

入居者が生きてきた人生(記憶)を呼び揺り動かしながら、
「お前の記憶」になり寄り添っていく介護。
そのためには、どれだけひとり一人が生きてきた人生や大切な人(家族)のことを知っていくことが求められる。




1192;老いのかたち

2019-07-07 01:39:10 | 文学からみた介護
黒井千次著『老いのかたち』中公新書


昭和一桁生まれの作家が、自らの日常を通して、〈現代の老いの姿〉を綴るエッセイ集(カバー書きより)
老いをどうかたちつくっていくかは、ひとそれぞれなのかもしれない。
自分の眼に映る「老いの光影」は、光の部分と影の部分がある。

老いて往くと、物忘れや記憶が抜け落ちて往く。
流石作家の表現だなと感じてしまった。
手から落ちた物は、幾度でも拾えばいいが、記憶の指先から消えたものは取り戻すのが難しい。(47頁)

老いてからの齢を重ねていく一年は、時間の中に命の影を覗き込もうとするような静けさが孕んでいる(113頁)
老いの齢を重ねていく一年は、樹木で言えば年輪であり、
顔に刻み込まれた深い皺は、年輪のようでもある。

90の齢を越え、また一つ齢を重ねるたびに、「お迎えはまだ来ないのか」、と死を言葉にしながらも
歩行器につかまり家の近くに在る内科クリニックを受診している98歳の婆さんがいる。

他者の老いの光影を通し、また感じながら、
自分自身の《老いのかたち》をどう創っていくのか
考えさせられた新書であった。

1184;介護殺人

2019-07-01 04:31:36 | 文学からみた介護
他人事ではない介護殺人

自分が介護にかかわり始めた平成一桁の時代にも
介護殺人は起きていた。
介護保険制度がスタートしても介護殺人は起き続けている。

『介護殺人』のサブタイトルにも記されているように
「追いつめられた家族の告白」の書でもある。

社会の隅で、ひっそりと人知れず
介護を続けてきた家族

「ごめんな、ごめんな」
心の中でこう叫びながら。(55~56頁)

首にタオルを巻いた。

追いつめられた家族
すべてを抱え込んで孤立してしまった
昼も真夜中も介護に追われ、眠れない介護、つまり眠れない家族を介護している現実

追いつめられ、先が見えない介護ほど辛く、不安だけが増してくる。

自分のことだが、透析を続けていたとき
死ぬまで透析を続けなければならない
その不安は夜間透析を行うたびにその不安は増していった。
先の見えない透析治療に悩み
自分は妹に腎臓移植の話をした


介護を抱えた家族もそうでない家族も同じく感じることは
ぎりぎりの生活を強いられている老人家族が多い。

介護になった場合、国民年金だけでは必要な介護サービスを利用することができない
医療保険料や介護保険料は年々上がり、手元に残る年金額が目減りしていくだけ

恥ずかしいながら自分も月額手にする年金は十万円程度
寝たきり、認知症にはならないように、と思ってはいるのだが
認知症はわからない。
どんなきっかけで、認知症が発生するかは、わからない。


自分はケアマネジャーとして
在宅に住む要介護老人や家族と向かいあっているが
それぞれの心の内、切なさややるせなさ、不安を拾い上げ
それをケアプランに反映しているかどうか
本当に他人事ではなく、自分の事として捉えているか

介護者が休息できる介護サービス
緊急時や夜間に利用できるサービスはない
ショートを利用することも有効な手だての一つだが

ショートのサービス内容は十分ではない
それでもショートは必要なのだが
ショートの夜勤は、介護職員一人で20人の老人を介護している
昼間は椅子に坐ったままのサービス状態に置かれている
ショートを利用すると認知症老人は不穏になったり、歩けなくなったりするから
もうショートは利用したくない、という家族もいる。

介護が始まったら、一人で抱え込まず、ケアマネジャーに相談すること
ケアマネジャーもいろいろな人がいる
親身に話を聴いてくれ、行動を起してくれる人
自分の波長に合うというか、相談しやすいケアマネジャー
合わないないケアマネジャーは他のケアマネジャーに替えることはできる
そのときは地域包括支援センターに相談するとよい

本書の262頁を読み、いまも反省と後悔をさせられる
「一番辛い思いをしているのは母なのに、なぜ、優しい言葉をかけることができないのか・・・・・と自分が情けなく。
気付いたら無意識に泣いていることがあります」

自分も認知症の母に優しい言葉をかけることもできず、怒ったことがあった。

介護が原因で、大切な人を自分の手で殺してしまう哀しい人たちが(264頁)、社会の隅にひっそりと生きていることを、
受けとめ、老いや介護、そして死も含め
それらは、すべて自分の事として
一人の老人や家族から
ふと、思えるような刻(とき)を持てること

生きるとは、老いや死が背後からひたひたと迫りくることであり
どのような老いや死を迎えるかは・・・・

まとまらないブログになってしまった



1047;木村元子 『私の頭の中の消しゴム』 小学館文庫 “愛されることはできても、愛することはできなくなっていく”

2019-04-09 05:06:51 | 文学からみた介護
愛されることはできても、愛することはできなくなっていく
木村元子 『私の頭の中の消しゴム』 小学館文庫


私の頭の中には、消しゴムがある。(84頁)

あの夜、光の洪水みたいに空高くから降り注いでいたオレンジ色の光が、なんだか少し頼りなくて寂しそうだった。
身体がどんどん冷えてきて。
でも、もう動きたくなくて。
このまま時間が止まってしまえばいい、それだけ願っていた。(86頁)

どんどん、記憶がなくなっていくんだよ。
自分のことも分かんなくなるんだよ。
浩介のことも忘れちゃうんだよ。
私、嫌だよ。(88頁)

俺がお前の記憶になる。
薫が忘れたら、これまでのことを何度でも話すよ。
2人がどうやって出会ったか。
どんなことで笑ったか。
どんなことで喧嘩をしたか。
何度でも繰り返すよ。

その度に薫は俺に新しく恋をするんだ。
別れるなんて絶対に言うな。
薫は俺を信じさせてくれたんじゃないか。
何も信じられなかった俺に。
変わらないものがあるって。
信じられるモンがこの世にはあるって。
いまさら、逃げんなよ。(89~90頁)

でも、会社を辞めると、病気で失うものが現実に見えるようで怖い。(134頁)

僕の目の前に君はいる。
僕のことを知らない君が。
こんなに近くにいるのに。
手を伸ばせばこうやって触れられる、すぐそこに君はいるのに。
僕には、君をこの世に呼び戻すことができない。(164頁)

愛されることはできても、愛することはできなくなっていくのです。

心がすべて失っても、私の体は生き続けます。(168頁)
この手紙を書いている今も、次の瞬間には、自分が自分でなくなってしまうかもしれない。そう思うと怖い。(169頁)


28歳という若さでアルツハイマーの告知を受け、
私の頭の中は消しゴムになり、
記憶を失っていく主人公の切なさ、
愛おしさが伝わってくる。

「自分が自分でなくなってしまう」怖さに対峙しながらも、
記憶が残されたわずかな時間に、
自分の思いを彼に綴った最後の手紙に託す彼女。


「心がすべてを失っても、私の体は生き続けます」
「愛されることはできても、愛することはできなくなっていくのです」(168頁)。
「でも、会社を辞めると、病気で失うものが現実に見えるようで怖い」(134頁)。

「この病気が残酷なのは、肉体的な死よりも精神的な死が先にくることだ。
私の身体は残っても、私の精神はなくなってしまうのだ」(123頁)。


介護の世界に身をおいている自分、
アルツハイマーになった薫の気持ち、
頭の中が消しゴム状態となり、
精神(心)を失っていく怖さ、不安、苦悩、葛藤など、
あらためて認知症者が抱えている想いや不安をどれだけ理解していたのか、
自問自答していかねばならない。

愛した人、思い出が一杯つまった時空間さえも喪失していく。
記憶があるうちに彼にさよならを無言で去り、館山の介護施設に入居した彼女。

特別養護老人ホームやグループホームに入居してきた高齢者も同じ想いで家族に「さ・よ・な・ら」し、
人生の最後をそこで過ごす。

介護者は、特別養護老人ホームやグループホームはどんな場所として位置づけ、
日々認知症者にかかわっていくのか。

私が私でなくなっていくとしても、私で私であることに変わりはない。
ひとり一人違う私に対し、
介護者は“にんげん”のもつ優しさや想いを
どう特別養護老人ホームやグループホームのなかで実現していくのか。

介護者は、浩介と同じ気持ちになり入居者に話しかけることだ。
「俺がお前の記憶になる。薫が忘れたら、これまでのことを何度でも話すよ」

入居者が生きてきた人生(記憶)を呼び揺り動かしながら、
「お前の記憶」になり寄り添っていく介護。
そのためには、どれだけひとり一人が生きてきた人生や大切な人(家族)のことを知っていくことが求められる。

『私の頭の中の消しゴム』はビデオショップの棚に並んでいる。


1020 生ける屍の聲

2019-03-23 14:12:41 | 文学からみた介護


 生ける屍の聲

5編の短編小説
ときは昭和時代
ところは貧しい農村

『屍の聲』は
惚けてしまったおばあちゃんは
孫の布由子(ふゆこ)の名を遠くから呼ぶ
布由子は高校生

おばあちゃんは部屋に火をつけ
仏壇のあった一角は
天井だけでなく畳や蒲団まで黒々と焦げた。

 焦げた蒲団の布が引き裂かれ
 その間から白い綿がむわりとこぼれ出ていた。
 おばあちゃんの脳もこんなになってしまったのだ。
 腐ってどろどろになって、頭蓋骨から流れ出した脳・・・・・・。
 
 (19頁)

糞便の臭いが染みついたおばあちゃん

 おばあちゃんの内側は腐りつつある。
 この臭いは、死んで腐っていこうとする精神から出て来ていた。
 生ける屍。

 (19頁)

そのおばあちゃんに正気に戻る時間(とき)がある。
 「また、わからんようになるのが恐い。
  怖うてたまらんになる。けんど、どうしようもない。
  知らんうちに頭がおかしゅうなる。自分が何しゆうか、わからんようになる。
  こんなんやったら、もう二度と頭がはっきりせんほうがええ。
  自分のしたことを考えるにと、恥ずかしゅうて嫌になる・・・・・・」
 
 (26頁)

 「惚けるやったら、死んだほうがましじゃ」と皺のよった目尻に涙が滲んでいたおばあちゃん。

おばあちゃんの後ろを追っていった布由子
おばちゃんは急斜面になっていた雑木林から転げ、深い碧色の川に落ちた
溺れ死んでいく様を見ていた布由子

正気になったり惚けたりするおばあちゃんは
死にたがっている、とそう信じた布由子は
溺れるおばあちゃんを見殺しにした。

通夜の席で一瞬
おばあちゃんの青くなった唇がわずかに開き、
息の漏れる聲で「布由子ぉ、布由子ぉ」と呼ぶ。

幻聴、幻視なのか
死者の聲なのか
生ける屍になりながらも
孫を想うおばあちゃん

一風変わった惚け老人の物語であった。


もうひとつの短編小説『残り火』のラストも呻ってしまった
事故死なのか
未必の殺意なのか
『残り火』を手にすることをお勧めします



925 穏やかな死

2018-09-12 04:45:44 | 文学からみた介護
 穏やかな死

いま、まだ読みかけ
訪問診療の話 
在宅で死を看取る
「サイレント・ブレス」という言葉に遭遇

1話は45才で亡くなった乳癌の患者
死ぬためにではなく
生きるために
家に戻った


「平和な治療だけしてるとね、
 人が死ぬということを忘れがちなんだよ。
 でもね、治らない患者から目をそらしてはいけない。
 人間は、いつか必ず亡くなるのだから」


全部で6話 
毎日1話 読みながら
死とは何か、を
見つめていけたら、と思う



老人介護においても同様
頭を抱え込むような難ケースもある

仕事を終え19時過ぎに
私と同じ齢の息子から怒りの電話
焼酎を飲まないと文句や愚痴を言えない次男

寝たきりの母親の介護を
5年間し続けている
(ヘルパーやデイサービス、介護用ベッドなどの福祉用具貸与を利用)
翌日 訪問

寂しい、孤独を感じている次男
話し相手を自分に欲している