老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

1264;死んだ男の 残したものは

2019-10-31 06:39:06 | 歌は世につれ・・・・
死んだ男の 残したものは


作詞:谷川俊太郎、作曲:武満 徹

  死んだ男の 残したものは
  ひとりの妻と ひとりの子ども
  他には何も 残さなかった
  墓石ひとつ 残さなかった

  死んだ女の 残したものは
  しおれた花と ひとりの子ども
  他には何も 残さなかった
  着もの一枚 残さなかった

  死んだ子どもの 残したものは
  ねじれた脚と 乾いた涙
  他には何も 残さなかった
  思い出ひとつ 残さなかった

  死んだ兵士の 残したものは
  こわれた銃と ゆがんだ地球
  他には何も 残せなかった
  平和ひとつ 残せなかった

  死んだかれらの 残したものは
  生きてるわたし 生きてるあなた
  他には誰も 残っていない
  他には誰も 残っていない

  死んだ歴史の 残したものは
  輝く今日と また来るあした
  他には何も 残っていない
  他には何も 残っていない


小さな国のベトナムが
大きな国のアメリカに勝利した
南北のベトナムはひとつになった
ベトナム戦争は終結した

沖縄にはまだ米軍基地が残っている

ベトナム戦争で
死んだ兵士の 残したものは
墓石ひとつ 着もの一枚 残っていない

死んだかれらが 残したものは
生きているわたし 生きているあなた


こうして自分が
いま 生きていることに
感謝し 残された時間
できることを行う

にんげんは必ず死ぬ
死ぬからこそ
こうして生きている
いまを大切に

自分は 残していくものは
なにもない

老いた自分
後悔しても 時間は戻らない

蝸牛の如く 他者とは関係なく わが路を歩く
蝉 の如く 残された時間(とき)いのちの限り鳴く

枯葉の如く 腐葉土となり 春の訪れをじっと待つ

こうして生きていると
輝く今日と また来るあした

この美しい青い惑星(地球)には77億のにんげんが生きている、という
そのなかで ひとりのにんげんに出会い そしてかかわりあいをもつ
それは、海底から真珠を探すほど稀少な”縁”にある

だれもが
老いを迎え
病を抱え
死を迎える

ヒトは
死を怖れ 死を見つめず
死を嫌い避ける

死は隣人であり
死はいつ来るかわからない

それだからこそ
「今日 在宅訪問しなかったことを 悔やむような」ことだけは
と、思う 

こうして いま
生きているあなた
生きているわたし
そのことに感謝する

顔も名前も知らない
死んだ兵士の 残したものは
生きることの大切さ
生きることの素晴らしさ
生命の尊さを教えてくれた






 



 







1263;長男が味噌汁を作ってくれたことが 一番うれしかった

2019-10-30 06:35:31 | 老いの光影 第5章
長男が味噌汁を作ってくれたことが 一番うれしかった


サタおばちゃんが話してくれたこと

 私は、108歳の頃まで
汗が流れるほど暑い夏の季節であっても、木枯らしが吹く寒い冬の季節であっても、
毎日欠かさずシルバーカーを押しながら1時間余り散歩することを楽しみにしてきた。

私は、明治41年10月22日、茨城県(旧)下館市五所村に生まれました。
子どもの頃は、弟たちを背負い、着物と下駄で尋常小学校に通ったこともありました。
尋常小学校4年の2学期まで通いました。
その後17歳まで家事手伝い、18歳から農業を行ってきました。

19歳のときに安達善一のもとに嫁ぎ、農業に従事しました。
結婚後、1男5女の子宝に恵まれ幸せでした。

夫にも赤紙(召集令状)が届き、戦地に赴き(おもむき)ました。
留守を任されていた私の心は、いつも夫のことが心配であり無事を祈っていました。
しかし、南シナ海で敵の攻撃に遭い、昭和18年1月14日還らぬ人となり、目が真っ暗になりました。

これから女手一つで、上は13歳、下は父親の顔を見たこともない乳飲み子まで、
6人の子どもを育てなくてはならなかったのです。

それこそ毎日、朝から晩まで脇目もふらず必死に畑仕事をしてきました。
それでも何とか食べていける程度でした。
何より毎日畑に出なくてはならなかった私は、
子どもたちと出かけることは一度もできず、
本当に申し訳なく悔しかったことを覚えています。

ある冬の日のことです。
公用でどうしても役場に行かなくてはならず、用を済ませて家に帰ってきた私に、
長男が「母ちゃん、寒かったろう~」と、普段したこともない料理をして、お汁を作ってくれていたのです。
本当にうれしく泪(なみだ)がこぼれました。

日頃どんなに疲れていても子どもたちの笑顔をみると、
疲れは一瞬で吹き飛んでしまい、
長年頑張ることができました。
本当に子どもたちは私の大切な宝です。

生きてきたなかで一番思い悩んだのは、5人の娘たちのことでした。
恋愛結婚ならば、娘が自分で「良い男性(ひと)だと思って嫁ぐからよいのだが、
見合い結婚した娘の方が心配でした。
夫が傍にいれば相談もできたのだが、「あれでよかったかどうか悩んだ」こともありました。

どの娘の夫もアル中でもなく、夫婦円満に暮らしてきたので本当によかった、と思います。

現在、一番頭の長女は89歳、末っ子の五女(妻の母親)は76歳になります。
夫の月命日14日には、子どもたちそれぞれが、思い思いの手料理を持ち寄りながら実家に里帰りをしてくれます。
私を囲みながら賑やかに話をしたり食事をしたりなど楽しく過ごしてきました。
どの子どもも親孝行で、本当にありがたく思います。

長生きの秘訣は、腹八分ではなく腹七分、
のん気な気持ちで、いつまでもくよくよしないこと、
早寝早起きの生活(規則正しい生活)をしてきたことかな。 

昭和20年代後半の自転車は、現代でいうならば自動車のかわりでありました。
自転車があると実用性があって便利だったけれども、ケガをしたら大変だから乗りませんでした。

父親の役目もあり大黒柱だから、人生 自分の足で歩いてきたことが良かったのかな。
事故にも遭遇せず、今日まで生きて来れたことに「感謝」の一言です。
孫13人、曾孫23人、玄孫(やしゃご)11人います。      

1262;聴こえる 其の弐

2019-10-30 05:35:33 | 阿呆者
聴こえる 其の弐

令和元年10月29日 7時23分
安達サタさん 111歳と7日 生きた!
息子 娘 孫たちに見送られ逝った

ほんとうにほんとうにお疲れさま
ありがとう の気持ちでいっぱいです

自分にとり
最後に手を握ったのは
亡くなる前日の朝です

ほんとうかそうでないかは
体験したことがないので
わからないけれど

にんげんは
最後は目が見えなくなっても
耳は聴こえている、と
ドクターは話されていた

きっと眼を閉じ眠っている状態であっても
聴こえている

そう思って自分も
白髪を撫でたり
手を握りながら
「ありがとう}を呟いた

wifeの呟きは長かった
「おばちゃんが、一番先に、わたしたち二人の結婚を認めてくれた。
あのときはほんとうに嬉しかった。ありがとう~」

1261; 昨夜は爆睡

2019-10-29 22:16:20 | 阿呆者
昨夜は爆睡

昨夜は爆睡した
朝五時に目が覚め
寝室の電気が”こうこう”と点いていた

大地震、火災があっても
気が付かずにいたかもしれないほど
爆睡した

朝 目が覚めなけれなば
あの世にいたかもしれない

昨日130km余り
キャンバスで走り
デイサービスや訪問介護などの事業所を28個所訪問
それでも2個所訪問できずに終わった

とりとめもないことを書いた

1260;聴こえる 其の壱

2019-10-29 04:18:29 | 阿呆者
「馬」に代わり 牛の耳に念仏


聴こえる

齢(とし)を重ね 老人になると
耳が遠くなり 人の聲が聞こえない

高額な補聴器を買わせられるも
物忘れが始まると 
何処に補聴器を置いたか忘れてしまう

耳の聞こえ(聴こえ)が悪くなったら
耳鼻科に受診することをお勧めしたい

「最近、耳が聞こえなくなった 診て頂けますか」と
耳鼻科の医師に話すことがポイント

優しい先生は診てくれます
なかにはコルク栓のような大きな耳垢が出てくる老人(患者)もいます

コルク栓耳垢が取れると、耳の中は風通しがよくなり
大切な人(家族)の聲も聴こえてくると
老人は元気になります

聴力が低下し 人間の言葉が聴こえないと
ひとりぼっちにおかれたような
仲間外れにされたような
自分の悪口を話しているのでは、と被害妄想が風船のように膨らむ

耳かきを耳の奥まで入れ過ぎ ほじりすぎないよう 注意したいものです


1259;枯  葉

2019-10-28 04:30:50 | 歌は世につれ・・・・

枯  葉

童話絵本 葉っぱのフレディ ~いのちの旅~ を思い出す

”枯葉” を聴きながら

わたしたちはどこから来て どこへ行くのだろう
生きることはどういうことだろう 死とはなんだろう


いのちは枯葉のように朽ち落ちる
でも いのちに終わりはない

いのちの旅は続く

いま 111歳を越えたサタさんは
”死”に向かい生きている

老いた息子、娘たちは
ベッドに寄り添い
言葉をかけ
手を握っている

死に臨んでいるサタさん
悲しくてやりきれないけれど
ほんとうに生き抜いてこられた

明治に生れ
夫は赤紙で戦地へ招集され
帰らぬ人となった
戦争の犠牲者でもあった

戦中、戦後
サタさんは女手ひとつで
六人の子どもを育てあげ 生き抜いてきた

ほんとうに ”ありがとう” ”お疲れさま” と
あなたの耳もとに 近寄り聲をかけた











1258; 男三「人」で一晩を過ごす

2019-10-27 09:41:02 | 阿呆者
男三「 人」で一晩を過ごす

療養病棟の看護師から
「会わせたい人がいれば連絡してください・・・・」と、

サタおばちゃんの状態が厳しくなってきた
昨夜は 四女、五女(wifeの母親)、(わたしの)wifeの三人が
病室で見守りをすることになった

自分はwifeの家に戻り
要介護1(要介護2に近い要介護1)の義父とbeagleげんきの「世話」をすることになった
男三「人」の暮らしとなった

いま、げんきは、右前足を捻挫したのか
歩き方がおかしく 見ていて痛々しい
(7日前に受診し痛み止めの粉薬を処方してもらった)

げんきと飼い主(自分)、ともに
不自由な歩行状態にある

老子曰く
背伸びをしても、長く立ってはいられない。大股で歩いても、長くは歩けない。

いまの自分は
snoopyの図柄が記された白杖を頼りに歩き
あるがままの状態を受け入れ
いまできることを為す


療養病棟の老人から感じること想うこと


サタおばちゃんの病室を訪れるたび
療養病棟で療養されている老人の姿を眼にし
生きることの意味を考えさせられる

というのは、
掛布を被っていても
ほとんどの老人は

躰が「まるく」なり、両脚は「く」の字になり
胎児のように両膝を抱えながら臥床している
またある老人の両脚は
「X」字に交差し、バレリーナのように足先が伸びている

言葉を発することもない
天井か壁を見つめるだけの時空間
生命の綱は点滴と医療スッタフの看護(care)

長〜い間、介護施設や療養病棟の世界から離れていた自分
暫くぶりで療養病棟に生きる老人たちの光景を眼にし
「生きる」とは
病を抱え老い生きていくこと
それは自分も同じであり
この先自分もどうなるかは
曇り硝子の如く不透明である

明日、自治医科大学附属病院循環器科の外来受診を終えたら
阿武隈川の辺りに帰り
9日間も休んだケアマネジャーの「仕事」に復帰せねば・・・・

時間が「ある」のか、「ない」のかは
この先わからない
人間はいずれ死ぬことはわかっているけれども
「明日死ぬかもしれない」

そう思いながら生きていると「疲れ」てしまう
ただ、言えることは
いま(今日)を生きることである

このことも、いまに生きる認知症老人から教えてもらった
その大切なことを忘れ
時間を無駄にしながら過ごしいる自分が「居る」

生きていることだけで丸儲け
湖のほとりに住む ある女性から教えてもらった

人生を陽気に生きる







1257; ぼくらはみんな生きている

2019-10-26 04:10:43 | 歌は世につれ・・・・
ぼくらはみんな生きている

手のひらを太陽に
作詞 やなせ たかし 作曲 いずみたく

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

※2番、3番は省略

地域の中のふつうの暮らし、ノーマライゼーション

『手のひらを太陽に』の歌は
19歳のときに知った

「ぼくらはみんな 生きている」
ぼくを含めたみんなとは
ミミズ、オケラ、アメンボ、トンボ、カエル、ミツバチ、スズメ、イナゴ、カゲロウたちは
ぼくの友だち(仲間)なんだ

これをにんげんに喩えると
赤ん坊、幼な子、子ども、若者、おとな、老人、障がい児者、認知症老人、ハンセン氏病患者、民たちも
みんな同じにんげんなんだ

生きているから
笑うし 嬉しいし 悲しいこともある
生きているから 愛するんだ

誰もが 生まれた家で
住み慣れた地域の中で
ふつうの暮らしをしていきたい、と願っている

高校生のとき
差別をうけた女子高校生の叫び
「手首をカッターナイフで切ったら、真っ赤な血が流れた。あなたと同じ赤い血です」
彼女の言葉を聴いたとき
躰が震え 眼が潤んだ

「手のひらを太陽に すかしてみれば まっかに流れる」血潮
みんな同じにんげんなんだ


この歌は
ノーマライゼーションのことを
わかりやすく伝えているのでは
そんな気がする







1256; 時計は回る

2019-10-26 03:02:42 | 阿呆者
晩秋の阿武隈川上流

時計は回る

昨日、大風雨の なか
東北自動車道をキャンバス(軽自動車)を運転し
自宅に向かった

水無川と勝ってに呼んでいた川は
泥水が勢いよく流れてていた

自宅に着くと
五日間分の新聞と回覧板で
郵便ポストは溢れ
いまにも郵便物が落ちそうであった

人が居ない家は
入ったとき
冷たさとわびしさを感じた

風呂に入ったあと
行きつけの床屋に行った
老いて 髪は伸びるが 背は伸びず縮む

最後に「これでよろしいですか」、と
両開き鏡で後頭部を写しだす
普段は眼にすることができない
薄くなった後ろ髪が気になる

日曜日(10月20日)から今日まで
仕事は手つかずのまま
来週の月曜日 循環器科を受診した後
溜まりに溜まった仕事をやろう、と
南陸奥に帰る

無情にも時計の針は回り
過ぎた時間は戻らない


サタおばちゃんの処へ 昨日も面会に行った
熱は下がりホッとしたが
呼びかけには反応せず 眠り「姫」にあった

1255; この先はわからない

2019-10-25 15:04:20 | 阿呆者
この先はわからない

遠い先のこと
明日のこと
この先のことは“わからない”

今週の日曜日に歩行困難となり
急遽自治医大附属病院救急外来受診した
その後
サタおばちゃんの111歳
自分の自治医大附属病院腎臓外科定期的受診
サタおばちゃんの熱発
等がありwifeの実家滞在が延びに延びた

処方薬を余分に持参しなかったため
昨日の朝から利尿剤を含めた処方薬を服用できずにいる
目の下(クマになりやすいところ)と左手の小指と薬指、左手背、右足首周辺に浮腫
小指と薬指は はぼったい 感じ
指を折ると痛い
それに歩くとき右足首が痛い

自業自得であった

これからは
この先どうなるか
何が起きるか
わからないのだから
家を出るときには
余分に処方薬を持参することだ

wifeにそう言われていたのだが
耳を傾けなかった自分が悪い

「わたし(wife)の言うことに間違いはないのだから・・・・」

1254; 続 また明日・・・

2019-10-25 01:14:37 | 老いの光影 第5章
自治医大附属病院正面入口


続 また明日・・・

秋風が啼いている
時計は0時を過ぎ日捲りが破られた
昨日の事となった

自治医大附属病院外来受診のあと
サタおばちゃんの病室に寄った
額に手を当てると熱く
39.5℃の超高熱であった

食事摂取量の記録をみても
昨日の朝からほとんど摂っていなく
手指に浮腫や踵に鬱血の症状が見られてきた
心配になってきた・・・・

頑張って生きてきたサタおばちゃん
もうこれ以上頑張ってとは言えない

“また明日”ね、と呟きながら・・・・

1253; また明日・・・・

2019-10-24 08:26:11 | 老いの光影 第5章
ひと月前の那須高原の風景 在宅訪問の帰途


また明日・・・・

“また明日”ね、と交わす言葉

ランドセルを背負った子どもの頃
昔は、寄り路が多く遊び歩いていた
秋になると
路端にランドセルを放り投げ

雑木林に足を踏み入れ
山葡萄、山栗、こくわの実等を食べ 遊び呆けた
別れ路に来ると
“また明日”ね、と手を振り
夕暮れのなか家路に向かった


東京で暮らしていたときのこと
渋谷、新宿、池袋などで
同僚と酒を飲んだ後
わびしく終電車に乗る

電車のドアが開くたびに
“また明日”ね、と
恋人たちが手を振る


111歳を迎えた翌日
サタおばちゃんの病室を訪れた
体調が悪く38.3℃の熱発
肩で呼吸していて苦しそうな表情

“おばちゃん”と呼びかけるwifeの言葉に反応してくれた
細い眼をあけ見渡し
誰の聲なのか、と様子を探る
末娘(五女、wifeの母親)とwifeは近寄り
痩せ細ったおばちゃんの手指を握る

できることなら熱が下がるまで傍に居たいけど
帰り際、“また明日来るね”、と聲をかける

サタさんは、また明日来るねの言葉に深く頷く

サタさんにとって
明日を迎える時間は
長〜く 暗闇のトンネルのなかで待つような気持ちなのかな、と
想ってしまう自分にも

サタさんは、何かを伝えようと
聲ならぬ言葉を発してくれた
彼女の言葉の意味を聴き取ることはできなかった
腎臓外科外来受診を終えたあと
サタおばちゃんの病室に寄り路をしよう、と思っている

(自治医科大学附属病院腎臓外科外来待合室で記す)



1252; 橋の向こう側

2019-10-24 02:55:02 | 阿呆者
橋の向こう側

この橋を渡ると
違う風景が見られ
幸福(しあわせ)な気持ちになる
そんな妄想を描いていた

この橋は
いま一方通行
この橋を渡ることはできるが
戻ることはできない

昔は
往来できた橋だった
大型貨物自動車がすれちがう時
サイドミラーを閉じて渡っていた

長い橋を渡るとき
空に浮いているような
錯覚した気持ちになる

橋の上からみる紅葉は素敵

1251; お詫び

2019-10-24 02:38:10 | 阿呆者
お詫び

blog 1250 秋空に映える柿 を読み返し
正岡子規の俳句を冒瀆し、不快な気持ちにさせたのではないか
そのことに気づき自己批判、猛省をしています

面白く可笑しく
正岡子規の俳句を書き直したこと
やってはいけない

お詫び申し上げ
不快な不適切な文は削除しました
削除したとしても
その不快な気持ちにさせたことは消えない


自分が病気で入院している幼児を虐待した、と
同僚の看護師から訴えられ
病院内で裁かれている夢を見た

事実無根で自分を弁護してくれた同僚もいたが
嫌な夢で目が覚めた

このような嫌な夢を見たのは
昨日のblogに書いた内容に問題があったのでは、と・・・・・