1611 幸せだったと思えるような日に
『とんび』(重松清 角川文庫)の198頁に
「幸せになりんさい。金持ちにならんでもええ、偉いひとにならんでもええ、今日一日が
幸せじゃった思えるような毎日を送りんさい。明日が来るんを楽しみにできるような生き
方をしんさい。親が子どもに思うことは、みんな同じじゃ、それだけになんじゃ」
金持ちや偉いひとになることが幸せとは違う
幸せの反対側にある不幸
貧乏や病気になることが不幸とは違う
不幸とは
マザー・テレサが話されていたように
「不要な人間」「ダメな人間」なのだ、と差別されたり、差別に甘んじたりすることが
不幸なのだ、と。
人間にとり、自分にとっても「存在を否定される」ことほど辛く悲しいものはない。
物忘れが進み認知症が重くなっても老親は、わが子を心配する「感情」は残されている。
定年が近い息子(長男)のことを、小学生だと思い
「子どもがお腹を空かして学校から帰ってくる。何か作ってあげよう」、とガス台に鍋をかける。
(惚けていても「子どものために役に立ちたい」、という思い)
ガス台に鍋をかけた、そのことも忘れ、鍋を焦がし、仕事から帰ってきた息子に怒られる老母。
老母は息子からどうして怒られたのか、怒られた理由がわからない。
「今日一日、家族みんな無事故で、コロナウイルスに感染することもなく、夕食をとることができた」
平凡な日であっても、こうして生きていることに感謝する。
幸せは爽やかな風のように感じていくものなのかもしれない。
親は「病気や事故に遭うことなく、家族元気に暮らす」ことを願っている。
子どもは家庭をもってはじめて親のありがたみがわかる。
老親自身が子どもから世話を受ける身になっても、子どものことを心配している・・・・。