老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

家に帰りたい

2024-01-31 21:21:56 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
2022 戦争を知る老人たちの思い



冬の厳しさを知っているものほど、春を待ち焦がれている。

それと同じように、さまざまな事情で家族から離れて老人保健施設などで生活している老人ほど、
家庭復帰を待ち焦がれている者はない。

「家なき老人」にしてみれば、
「春」という言葉と「家族(家)」という言葉は同義語なのかもしれない。

平成2(1990)年4月に入所した関かねさん(86歳、頚椎症による歩行障害、脳血栓、糖尿病)も
いつ来るともしれない春に思いを寄せている一人である。

一度、こんなことがあった。
その年の12月、正月の外泊をひかえ、面会に来た長男(56歳)に対して、
1泊でもいいから外泊したいという強い気持ちがありながらも、
とうとう言えずじまいに終わった。

なぜ、率直に外泊したいと言わなかったのか。
家族に気兼ねしている理由はなんなのか。
わたしは、まだかねさんの気持ちをつかめないでいた。

それから2ヶ月が経った。
「かねさん、今日息子さんが見えますよ。家(うち)に帰りたいって、わたしから言ってあげましようか」、と
親切の押し売りをしたところ、
「家に帰りたくない」と力弱に返ってきた。

「どうして帰りたくないの?」と意地悪な質問をすると、
「2,3日間だけなら家に帰りたいけど・・・・、でも、またここにいられるようにしてほしい。
長男の嫁は、30年前に階段から落ちたことが原因で、そのときにきちんと治療しなかったこともあって
腰と両膝が悪く、やっとの思いで歩いている。とても面倒を看てもらうなんてできない。
だから、ここに置いてほしい」と心情をうちあけた。

「家に帰りたくない」という言葉には、
「帰りたいけど、帰ることができない」という
かねさんの思いが隠されていたのだ。

入所相談をしていて思うことは、言葉の表面だけをとらえていてのでは、
人間のもつ言葉の深さとその人の思いを理解することはできないということである。

かねさんは、自分自身の存在を家族から引き離し、否定することによって、
病弱な嫁の体を守り、家族の生活を保たなければという、辛い思いのなかで黙していたのである。

長男との面会を終えたあと、彼女は亡き夫の思い出や子育ての苦労話などをしみじみ語ってくれた。
「夫は13年前の12月20日に脳卒中で倒れ、一月後に亡くなった。
そのときは、自分は糖尿病で入院していたので、傍に居て看病してやれなかった。
そのことが辛く、心残り・・・・。
でも、夫と築きあげてきた味噌・醬油づくりの仕事は、いま、孫が跡を継いでいるので安心。(中略)

長い人生のなかでいちばん辛かったことといえば、戦争です。
30代後半のとき、夫が出征し、16歳から2歳までの4男2女の6人子どもを抱え、
3年間女手ひとつ、生活のやりくりと子育ては大変だった。
あのときはどこの家も貧しくて、いまの若い人たちにできるかどうか・・・・。

戦争が終わり、夫が突然家に帰ってきたときは、ほんとうに嬉しかった」。

作家の井上靖さんのふみ夫人も、かねさんと同じようなことを記していた。
「57年いっしょに居て、思い出はたくさんあるけれど、いちばん嬉しかったのは、戦争から無事に帰ってきてくれた」ことである。

かねさんもふみさんも、戦争の悲惨さ、戦争による肉親との別れや再会の体験をしているからこそ、
辛苦と歓喜の思いは、人一番強いのかもしれない。

明治・大正生まれの女性は、忍耐と犠牲の生活史であるがゆえに、
耐えていく、自分を抑えていく術を知っている。
戦前の家制度と度重ねる戦争によって、忍耐の精神とその生活を身にしみるほど知っているから、
かねさんは、人生の最終章に入っても「家に帰りたくない」と呟いたのかもしれない。

「ここに来たころは、わずかではあったが、なんとかつかまりながら歩けた。
いま、歩けなくなった。歩けなくても、せめて立つことができればと思う。
トイレで用足しができれば最高なのだが・・・・・」。

かねさんは、諦めと希望の交錯した思いを語って、その日の話を終えた。

かねさんの「家に帰りたい」という願いは、どうしたら実現できるのか。
K老人保健施設では、家庭復帰に向けての取り組みがはじまったところである。
「闇」のなかに「光」を求めるように、家庭に帰る希望を最後まで失わずにいたいものである。

1989(平成元)年1月に茨城県で最初にできた老人保健施設に生活相談員として、老人介護の世界に足を踏み入れた。
かねさんのことは1990(平成2)年に書いたもので、いま、読み返すと「何と大雑把な介護にたいするとらえ方で、恥ずかしくなってしまう」。
当時、老人保健施設は、病院から老人保健施設に移され、リハビリをして「家に帰る」といった中間施設であった。
しかし、現実的には「家に帰れる老人」はわずかであった。

かねさんの思いをどうとらえ、かねさんの思いを深め希望につなげていくことができなかった。

かねさんは、戦争で辛い体験をし耐えてきたことを思うと、
自分は「家に帰りたい」けれど施設で生活することの寂しさは耐えることができる。
自分が家に帰ると、自分たち夫婦が築いてきた味噌・醤油の製造業ができなくなる。
家に帰らないで施設で生活するしかない。


歩けなくても、せめて立つことができればと思う。トイレで用足しができれば最高なのだが・・・・
いまならば、歩けなくても、ひとりで立ちトイレで用を足すことができる、介護実践を身につけているので、
かねさんの願いを叶えることができる。
当時は未熟で、トイレで排泄をする、という考えも及ばず、布おむつ全盛期で、ベッド上で定時交換であった。

あれから36年が経ち、施設介護から、いまは在宅介護の現場にいる。成長が余りないまま時間だけが流れていった。
最後の最後に来ても、まだ老いとは、生きるとは、死とは、未だに問い続けている。
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美味しい~水が飲めて、満面の笑顔

2023-06-13 17:43:16 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1957 何も混じっていない「ただ」の水が飲みたい


小雨に濡れた花 冷たい水を浴び喜んでいる紫色の花(路端で)


96歳の文乃婆さんが2週間ぶりに家に帰ってきた。
「家に帰り~たい」と叫んでいた。

ご主人の写真が飾られている仏壇の前にベッドを置き、起きあがるとご主人の顔を見える。
彼女の隣に息子の簡易ベッドが置かれていた。

最近、誤嚥性肺炎で入院したことから、病院ではトロミを混ぜた水を出されても口を閉じ、飲むことを拒否していた。
病室では、「ただ」の水(トロミが混じっていない水)が飲みたい、と訴えても駄目だった。
喉の渇きを感じ、冷たい水をどれほど飲みたかったか。
体力もかなり落ち、いつ心臓が止まってもおかしくない状態にある。
在宅酸素機器も置き、0.5の酸素を流している。
家族は、本人の願いを聴き、口から水やお粥ではないご飯を食べた。
口から食べると生命力がでてくる。

誤嚥性の防止や栄養バランスも大事だけれど、いまは「本人が欲している(望んでいいる)こと」を叶えてあげたい。
長男夫婦はそう思い、少しでも口から水を飲ませたり、好きな(缶詰の)ミカンを食べさせている。

退院した日には訪問看護師とヘルパーが同じ時間に訪れ
日常のケアや急変時の対応について細かい打ち合わせをした。
翌日には訪問診療の医師が訪れ、声をかけ聴診器を通し本人の状態を診てくれた。

14日間かもしれない。命はいつ途絶えるかわからない。
病院とは違い24時間、最期まで自宅で看取ることを家族は決心してくれたのは
「家で死にたい」、という老母の強いねがい。そのねがいを叶えてあげたい、ただそれだけであった。
呼吸が止まっても慌てず、訪問看護師やケアマネジャーに電話をかけてください、と何度も話をした。

5年前、ご主人を自宅で看取りをした経験があっても、長男嫁にとっては不安は大きい。
帰り際、「何かあったら夜中でも夜明け前であってもいいから、気兼ねなく電話をかけていいですよ」、と
ケアマネやヘルパーは長男夫婦に言葉をかけた。。

文乃さんはご主人とともに終戦後、3人の息子を育ててきた。
「いまの生活があるのは父母が必死に働いてきたお陰」、と長男は話す。
だから、最期まで親の面倒(介護)をするのは当然、妻(嫁)にだけ介護をまかせず
夜は自分が世話をする、といって老母が眠る隣の部屋で仮眠してきた(2年位続いている)。

家族が頑張っている姿をみると、こちらも頑張らねばと思い、ヘルパーや訪問看護師にも言葉をかける。

手までも痩せ細った文乃婆さんの手を握ると、弱い力であるけれども握り返してくれ、手のぬくもりが伝わってくる。
耳が遠くなり、話しかけても聞こえにくいので、A4サイズを半分にした画用紙に言葉を書いたものを文乃さんに見せ、
文乃さんと言葉のやりとりをする。

寝たきりの状態にあっても、彼女は懸命に生きておられる姿に、勇気づけられる。

文字は読めるし、声をだし聴こえる声で話す文乃さん。
そのときの笑顔がなんとも言えない。
1日、1時間、10分、1分でもいいから長男や孫、ひ孫に囲まれ、生きて欲しいと願うのは、みんなの思いである。

病室にはなかった風の流れや光、眼にする風景を感じている文乃さん。





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老母親の想い、子の想い

2023-06-05 13:09:01 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1949 老母親の想い、子の想い 



.齢(よわい)を重ねるにつれ、土田光代さん(仮名86歳)は、息子との二人暮らし。
物忘れや家事の一つひとつを最後まで成し遂げることが怪しくなってきた
 
長男の不二雄さんは、
新幹線が停車するK市駅の近くにあるデパートに勤めているため、
日中は一人 家で過ごす。
数年前から認知症が進み、
息子宛てに電話がかかり、息子が家に居ても、「家には居ない」と受話器を手にしながら話している。
紳士服売場での仕事は時間通りに終えることができないため、
家路に着くのは21時を過ぎてしまうことも多い。

家のなかは静寂であり、老いた母親はもう寝床で眠りについていた。
キッチンに行き電気釜の蓋(ふた)を開けてみると、
手つかずのご飯が残されており、
夕食を食べていないことがわかる。

「長男がお腹を空かし、そろそろ帰って来るだろう」からと
光代さんは台所に立ち肉や人参、ジャガ芋を鍋に入れガスコンロにかけ火をつける。
思いとは裏腹に、鍋は真っ黒に焦げ、
その鍋はキッチン下の収納庫に置かれてあった。
その後も、味噌汁を温めようとして、
鍋を焦がすことがときどきあり、
家が燃えてはいないかと心配しながら仕事している・・・・。

また浴槽の湯はりをしようと、湯を入れ始めるが、
「お湯をだしていること」を忘れてしまい、
浴槽から溢れ、流れ出していることが週に1、2回ほどあった。

昨年までは便所での用足しを出来ていたが、
今年に入り便所での「用足の仕方」を忘れできなくなってきた。
紙パンツと尿とりパットを着けるようにした。
濡れたパットを枕下や敷布団の下に、紙おむつは箪笥のなかに隠したりした。
それを注意すると「私ではない」と哀しい声を上げて泣くこともあった。

同居している息子、娘や息子夫婦、娘夫婦たちは、
認知症を患っている親に対し、
「何もせずに“じっと”座って居て欲しい」と懇願する。

何もしないで居てくれることの方が子ども夫婦にしてみれば「助かる」のだが・・・・。
子どもから世話を受けるような身になっても、
老いた母親は「わが子を心配」し、

煮物や味噌汁を作ったり温めたり、
浴槽の湯をはったりするのである。

物忘れなど惚けていても「家族の役に立ちたい(誰かの役に立ちたい)」という気持ちを持っている
しかし、ガスコンロに鍋をかけたことや
浴槽にお湯を出していることを忘れてしまい、
反対に息子や息子嫁などに手を煩わせてしまう結果に陥ってしまう。

認知症の特徴の一つは、
鍋をかけたことや浴槽にお湯を張っていたことを忘れただけでなく、
忘れてしまった、そのことさえも忘れてしまうのである。
「出来ていた」ことが「出来なくなった」り、
ひどい物忘れにより生活に支障がでることで、
親子関係や家族関係のなかに葛藤や軋轢が生じてくる。

認知症になってしまった母に対し上手く対応できるのは難しく、
問い詰めたり怒ったりしてしまいがちである。

これが「他人の関係」ならば案外上手くいくけれども、
それはいくら「他人の関係」であっても、
認知症を抱えた人は、「命令」や「指示」、「怒ったり」するような介護者には寄りつかなくなり,
その人から離れて行ってしまい、
「家に帰る」と言って落ち着かなくなることさえある。

訪問介護サービスの一つに「生活援助」がある。
同居家族が居ると簡単に「生活援助」のサービスは利用できない。
(特例給付サービスで利用できる場合もある。ケアマネジャーに相談してみる)

同居家族の有無にかかわらずその家にヘルパーが来て、
認知症のお年寄りと一緒になって
調理や掃除、洗濯などの家事を行うサービスができたらどんなにいいか、と思う。

誰のための介護保険サービスなのか。

認知症があり、調理の手順や仕方を忘れてしまい「出来なくなった」けれど、
ヘルパー傍に居て手助けし一緒に行うことで、「出来ない」ことも「出来る」ようになることもある。
また「できる」「できない」のことだけに眼を奪われるのではなく
誰かと(ヘルパーと)一緒にかかわり、話したり、共同作業をすることで、
その人は、満足感や喜びを感じていくことで、
認知症のことを忘れ、穏かになり心までが落ち着く。


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介護者が脳梗塞を発病

2022-04-26 08:19:34 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」




1878. 介護者の健康

老いに入り義父母や連れ合いの介護は
躰を酷使しながらだけに大変である。

自分が大病に患い入院でもしたら、と大変
その間、誰が介護をするのか。

国民年金の受給額だけでは
長いショートステイを利用することもできない。

「地獄の沙汰も金次第」と言うが
介護のサービスも金次第である。

義母と長男嫁の年金を足しても10万円にも満たず
月8万5千円にしかならない。

夫は三年前突然の脳梗塞を患い、21日後他界された。
夫の命日のとき、妻も脳梗塞の診断を受けたが、
入院に躊躇いを感じ、迷っている。

右半身軽い痺れがあり、右足の歩行もおかしい。

一刻も早く入院を勧めている。

96才(要介護3)の義母の介護に疲れ果て、眠れずストレスも溜まっていた。
食事も水分も余りとれていなかった。

特養老人ホームに入所できるだけの年金はなく
介護扶助や医療扶助(生活保護)の検討もしたが

生活保護は保護の補足性の原理があり
20万円から30万円以上の貯金があれば生活保護は受けられません。
また、同居している息子の収入があれば、介護費や入院費に回すことを求められる。

軽自動車を所有することもできない。
1日バスは一往復しか走らない。
軽自動車がなければ病院や買い物ができない陸の孤島にある。

介護者の健康を願わずにはいられない。







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要介護老人の自立支援とは

2022-04-16 14:44:53 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」

枯木を通し桜の花を見る

1876 要介護認定調査「特記事項」の記載は、要介護認定審査に大きな影響を与える

短期入所生活介護(特別養護老人ホーム併設)の生活相談員から「要介護4でないと特別養護老人ホームに入所できない」と、
さらに追い打ちをかけるように「〇△様は、要介護3ではなく要介護4の状態にあるから
ケアマネジャーに要介護認定区分変更の申請書をだしてもらった方がよい」、と家族は言われた。

〇△様の家族は、ケアマネジャーに電話をかけてきた。
「うちの婆ちゃんは、要介護4の状態にあるから要介護の変更(区分変更の意味)をだして欲しい」。

ご家族の希望でもあり、再度区分変更の申請を令和4年2月15日付けで出した。
区分変更の申請書を提出する際に、短期入所生活介護の事業所(ショートステイの事業所)だけでなく、
デイサービス事業所の意見も聴き取りして頂きたい、とお願いした。

認定調査員は、短期入所生活介護を利用されている期間中に、短期入所生活介護事業だけを訪れ、
デイサービスの聴き取りはなかった(せめて電話だけでも聴き取りして欲しかった)

結果 要介護3から要介護4への認定が決定された。

要介護認定調査に係る認定情報の写しを請求した。
認定調査をみると

短期入所生活介護事業所の意見が反映された特記事項の記載内容であった。
例えば 立ち上がり 「できない」 → デイサービス事業所では、テーブルの上に両手をつき加重をかけると立ち上がりは「できる」
    歩行    「できない」 → デイサービス事業所では、杖も使用しないで「歩けている」
    入浴    「全介助」 施設では機械浴を使い入浴、洗身は全介助 → デイサービスでは、介助により普通浴槽(ひとり浴槽)に入れる。頭髪と背中はデイ職員により洗身介助

これでは要介護4になる。と思った。何だか釈然としない

要介護3でも特別養護老人ホーム入所に該当するのだが、
特養老人ホームの相談員から「要介護4でないと割にあわないから」、と話されていた。
結果、〇△様は、今月の25日付けで特別養護老人ホーム入所に決まった。

たまたまこの短期入所生活介護事業所であったが、
真摯に短期入所生活介護のサービスをされている事業所もあります。

愚痴を書き、すいません。
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長いこと、お疲れ様です

2022-04-11 08:36:28 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」




1874 「98才」万歳!

蝉の命よりも短く、7日間の関わりで、逝かれた老い人もおられた。

二海キヨ子さん(98才)
桜が咲いている4月8日20時12分に永眠された。(合掌)
彼女とは出会ってから14年のおつきあいをさせて頂いた。

ちょうど一年前に床に伏し、生命の危機を迎え
「危ないかな」、と思ったこともあった。

亡くなる前日まで訪問リハビリのサービスを利用。
両足は「く」の字に曲がることもなく
両手の指も曲がることなかった。
お陰様で「真っ直ぐな脚で棺に眠ることができました」、と
彼女は話されているようでした。

床に伏す前は、ピックアップ(歩行器)を自由に操り
30cm余りの段差を昇り降りしていた。

14年間在宅介護をやり遂げた長男嫁の齢は70才を超えていた。
自分自身、胆嚢炎の病を抱え
入院しても数日で退院され、在宅介護をし続けてきた。

夫から「特養」に入れてもいいよ、と話された。
妻(長男嫁)は、ここまで面倒をみてきたから最後まで自宅でみていきたい。

本当に脱帽しました。
最後は2泊3日のショートステイを利用されても月に1回のみだった。

永眠された電話を長男から頂き
即訪問し、長男嫁に労いの言葉を贈った。
「キヨ子さんの生命力、生き抜いた姿と佳恵さんが最後まで尽くされ、長いこと本当にお疲れ様でした」。

キヨ子さんは眠るような表情、穏やかに逝かれた。
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仲の良い老夫婦

2022-03-28 20:51:21 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1861 小銭が転がった



今日は早朝5時30分前に車で家を出た
自治医科大学附属病院の受診日
7時30分に病院正面玄関が開く。

診察券を予約機に通し
採血室に向かう。
8時50分 皮膚科
9時10分には循環器内科
9時30分 感染症科

9時45分 皮膚科に戻り看護師から
右側頭部腫瘤の組織を切除し
何の細菌かを調べるための手術の流れについて説明を受けた。
4月18日14時に行うことになった。

皮膚科の待合室で診察を待っていたときのことです。
飲料水自動販売機の前に老夫婦が立っていました。

夫は鞄から財布を出した。
小銭を取り出したまでは良かったが、
コイン入れに上手く入らず小銭を床にばらまいてしまった。

意地悪く幾つかの小銭は転げた。
傍らに妻は怒り口調で大きな声を出す。
「なにやってんの」
「いつもこうなんだから」
「もたもたしないで早く拾ってー」

お父ちゃんはあたふたして小銭を拾い
自動販売機に小銭を入れる。
目当てのお茶がガシャンと落ち
一つは妻に渡す

「手は汚いから洗ってきな」、と
夫に対し次の行動を促していた。

隣にwifeは
「何年したら私達もあの老夫婦のようになるのかしら」
、と聞こえるように話す。






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トイレに行く!

2022-03-27 07:36:19 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


1869 オムツはしたくない

93才のおばあちゃんが腰椎圧迫骨折をした。
4週間の入院予定だったが、
「病院に長く居ると歩けなくなる」、と息子に話し
20日間で退院した。

家(隠居宅)の玄関を入ると
「家はいいなぁ」、と呟いた。
入院中は紙オムツをさせなかった。
「オムツは嫌だ」、と頑なに拒んだ。

看護師は車いすに乗せ、トイレまで連れて行った。
用足しを終えると「ありがとう」、と看護師に礼の言葉を告げる。

家に帰っても床から手すりにつかまり自分で立ち上がる。
炬燵のある居間からトイレまで
息子は手すりをつけた。
手すりを伝いながらトイレまで行く。

「夜は、トイレまで行くのは大変だからオムツにしたら」、と息子夫婦は話すも
「オムツはしたくない、トイレに行く」、と言い張る。
介護用ベッドを降りたら2mほどの平行棒があり
両手で平行棒につかまり寝室の出口まで歩く。

介護用ベッドから襖までは畳であり、手すりがつけられない。
そこで浮かんだのがリハビリで使う平行棒を置いた。
福祉用具貸与により手すり(平行棒)を利用


寝室の先の廊下を渡りトイレのドアに辿り着く。
夜は足元が薄暗く、転んでは大変ということで、
息子は母屋では寝ず、おばあちゃんが寝る隣の部屋で寝ている。
深夜から明け方までの間に5回起きだし、トイレに向かう。
息子はその都度起き、後ろから見守りをしている。

なかなかできないことである。
「夜は大変だから、転んだりして寝たきりになったら、それこそ大変」、と
心配した言葉で紙オムツをさせようとするのが普通である。

頑として「歩けるうちは、トイレに行く」、というおばあちゃんの生きる姿勢に脱帽してしまう。
老母の思いを受け止め、夜トイレにつきあう息子は、そうはいない。




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父ちゃん 今日亡くなった

2022-03-22 04:17:27 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」

          那須連山はまだ雪が降っている

1854 妻に見送られ・・・

数日前に書いた「1851 寝た要介護老人を起こす」の
相津 芳雄さんが永眠された(84歳)
ご冥福をお祈りします。

彼岸の日だった昨日 朝7時2分 携帯電話が鳴った。
うめ子さんは泣きながら「今日 亡くなった・・・。どうしたらいいのかわからないので、電話しました。朝早くにすいません」
「大変でしたね。何時ごろお亡くなりになりました?」
「朝5時頃起き、ベッドでまだ寝ていたので、『お父さん、おはよう』と、言葉をかけた。
返事がなかったので、額に手を当てたら冷たく、顔が白かった」
「その後どうされました」
「救急車を呼んだら、そのうち警察署の人が来て、連れて行った」
「いまから、お伺いします・・・」
「お待ちしています」

真っ赤なアルトを運転し、相津さん宅に到着。
3月19日借りたばかりの介護用ベッドには芳雄さんはいなく、なんだか寂しく感じた。
「これからどうしてよいのかわからない、いろいろと話を聞いてくれますか」、と妻は元気ない声で話される。
「うっ血性心不全になられ、6年間の介護、本当に大変でしたね」
「お父さん(夫のこと)は、最後にうんちを一杯おむつのなかにしていた。お尻をきれいにしたのが最後でした」
「芳雄さんは、うんちやオシッコを全部出して、身体をきれいにして逝ったのですね」

「この後どうしたらいいのか」
「ご主人の兄弟姉妹はいらっしゃるのですか」
「もう亡くなって誰もいない。親戚付き合いも遠くなってしまった」
「子どもたちは、いま向かっています」

芳雄さんの寝ている部屋には或る新興宗教団体の仏壇が置かれていた、のを思い出し
「ご主人は元気なとき、どのような葬式を希望されていたのですか」、と尋ねた。
(ケアマネジャーの為す範囲を越えてしまった)
「『新興宗教団体の葬式にしてくれよ』、と次男(同居)に話されていた」
傍らにいた次男も頷いていた。

夕方、再び訪問した。
線香をあげ合掌し、一番短い関わりだったけれども
芳雄さんに出会えことに感謝とご冥福を祈った。

その後、芳雄さんと対面した。
穏やかな表情で眠っておられ、苦しまずに静かに逝かれたのかな
「自宅で死にたい」と話されていたので、これで良かったのかな、と。

芳雄さんの妻 うめ子さんは「人間死ぬことはわかっていたが、いざ死なれるとどうしていいかわからなくなってしまった」
「生まれるときも大変、死ぬのはもっと大変で辛いですね」
(生まれるときは、喜び溢れる、死ぬときは、悲哀〔かなしく〕、辛い)
「昨日奥さん83才の誕生日を迎え、ご主人はホッとして逝かれたかもしれませんね」
「思いもしない別れだったけど、昨年は四度も入退院の繰り返し、そして六年余りの介護、本当に頑張られ芳雄さんは感謝されてますよ。我が家で最期を迎えれたことも、良かった」、と言葉をかけた。

人間「生まれるときも大変、死ぬのはもっと大変で辛いです」、という老妻の言葉、
帰り路車を運転しながら、生まれ死ぬまでの83年間、芳雄さんにとり様々な景色が折り重なり
命の限り生きてこられたことを思った。







 ウクライナ 戦争終結と平和を願う(画像拝借) 




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昔は若かった

2022-03-20 08:40:12 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1852 小さい春見つけた





日曜の朝も beagle元気と散歩
路端に小さい春を見つけた
小さい小さい蕗のとうが顔を出し
「おはよう」、と聲をかけてくれた

老いても男は我儘で
病や寝たきりになると
元気が失せ妻に甘えてしまう

老妻が老夫の介護をする方が多いのかもしれない
振り返って見て
老夫が老妻の介護をされた家族を
思い出そうとするが思い浮かばない
献身的に妻を介護されている夫の話(ブログ)を目にする

三十年も昔の話です
特別養護老人ホーム開設の準備をしているときで
暇な時間がありました。

自分の他に福祉専門学校の教え子が2人いた。
3人で老夫婦のお宅を週2回訪れていた。
その家は75歳の夫が72歳の妻の介護をされていた。
妻は脳梗塞後遺症で歩けず左半身麻痺(要介護3の状態にあった)
まだ介護保険サービスはなく、花婆さんは、家で三毛猫と過ごしていた。

夫は測量の仕事をしていた。
時々、ライトバンに乗せたまま 測量しながら妻の様子を見たりする。
夏など暑く、脱水症になりはぐったこともあった。
車椅子に座り、食卓にはおにぎりやおかずがならんでいた。

花さんの手におにぎりを持っていたものの
飼い猫 三毛に食べられいた。

ご主人の了解を得て
自分達3人は花さんの家をおじゃました
いつも午後3時過ぎ頃
「花さ〜ん」と声をかけ家に入る

オンボロ車(30万円の中古車)の助手席に花さんを乗せ
地元のスーパーマーケットまで夕食の食材を買い出しに行った。
外に出た時の話さんの表情は恵比寿顔。
花さんは顔じゅうにソフトクリームをつけ、手鏡で映った顔を見て笑っていた。

女の子二人は夕食作り
自分は話し相手。
勿論オムツ交換もした。

6時半過ぎ夫が仕事から帰ってくる。
5人でワイワイしながら夕食を食べた。
自分たちは夕食をご馳走になった。

8時過ぎになると、自分と若い 昌枝さんと
花さんをお風呂に入れた
ご主人にお風呂の入れ方を見ていただき
「こうするといいよ」、と押し売りの介護をした。

ご主人は、我流で妻をお風呂に入れていた。
(週に5日ご主人は妻をお風呂に入れていた)

夫の方が痩せていたが、腕力があったので
力まかせに浴槽に入れる。
タイヤ中に入っているゴムチューブを切り
それを妻の片腕に通し、浴槽のなかに入れていた。

体は洗わない、お湯に浸かるだけ。
お風呂に入っている間は(4分位)
居間で夫は一服している。
見に行ったら体が傾いていたこともあった。

乱暴なお風呂の入れ方ではあったが
自分たちは夫の入浴の仕方を認めた。
仕事をしながらオムツを取り替え、お風呂にいれ
食事もつくる
なかなかできるものではない
愛情があるんだな、と傍目で感じた。

お風呂が終わったら、花さんは蒲団の中。
その後十時頃まで、ご主人といろんな話をした。
食事をご馳走になってしまったが、
貴重な体験をさせてもらった。

ふと、昔若かった頃の在宅介護の風景を思い出した。

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両膝折れするほど立てなくなった男老人

2022-03-19 19:37:36 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


1851 寝た要介護老人を起こす

梅の花が咲き始め
春は目の前まで来ている、と思った矢先
昨日はみぞれと大雨が降り
春が遠くなったような気がした

それでも春は訪れる

梅の花をひとつ一つ見て見ると
同じようで違う
花びらの大きさや形、色あいなど
それぞれの花は微妙に異なる

老い方も人それぞれ違う
老いた夫婦の関係も人それぞれ
元気なとき、妻に対し優しい言葉や態度を示してきたか
それでも大正、終戦前の昭和に生まれた人たち
老いても夫に従う妻が多い

一週間前まで歩いていたのに
蒲団に臥せてしまい
自分で食べることもしないほど意欲低下
来月で83歳になる妻は お粥を食べさせている。
両手は動くのに、どっぷり妻に依存している。

痩せこけても男の躰を動かし、紙オムツを取り替えるのは大変
濡れても紙オムツを取り替えずとも大丈夫、と言う夫
1日一回しか取り替えないから、濡れた紙オムツはズシリと重く
尿臭とともに重さが鼻に手に伝わる

介護に使えるお金はどのくらいか
まだ、決めかねている妻

急いで介護用ベッドを入れ
来週には循環器内科受診の予定をしていることから
通院等乗降介助(介護タクシー)の予約をとった。
自分も同席することをお願いした。

寝たきりになった夫をどう起こしていくか。
立たせようとしたが、両膝が折れてしまい二人がかりでベッドに乗せた。
(この時は、福祉用具専門相談員の手を借りた)

かなり脚の筋力と生きる意欲の低下なのか
あれもこれもとサービスを導入しても妻が混乱してしまう。
急ぎながらも階段を昇るように取り組んでいくしかない。



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プーチン大統領が ウクライナに残した戦争犯罪

2022-03-17 05:59:01 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」
1848 死んだ男の 残したものは



作詞:谷川俊太郎、作曲:武満 徹

  死んだ男の 残したものは
  ひとりの妻と ひとりの子ども
  他には何も 残さなかった
  墓石ひとつ 残さなかった

  死んだ女の 残したものは
  しおれた花と ひとりの子ども
  他には何も 残さなかった
  着もの一枚 残さなかった

  死んだ子どもの 残したものは
  ねじれた脚と 乾いた涙
  他には何も 残さなかった
  思い出ひとつ 残さなかった

  死んだ兵士の 残したものは
  こわれた銃と ゆがんだ地球
  他には何も 残せなかった
  平和ひとつ 残せなかった

  死んだかれらの 残したものは
  生きてるわたし 生きてるあなた
  他には誰も 残っていない
  他には誰も 残っていない

  死んだ歴史の 残したものは
  輝く今日と また来るあした
  他には何も 残っていない
  他には何も 残っていない


小さな国のベトナムが
大きな国のアメリカに勝利した
南北のベトナムはひとつになった
ベトナム戦争は終結した

プーチン大統領は、ベトナム戦争の教訓を学ばず
ウクライナ人を分断し 侵略戦争を起こした

プーチン大統領はウクライナに
容赦ないミサイルや爆弾を撃ち落とし
無数の家族を散り散りばらばらにした

死んだ夫(父親)は
ひとりの妻と ひとりの子どもを残した。
妻と子だけで、廃墟となった街で生きていけるだろうか。

死んだ母親は
しおれた花とひとりの子どもを残した。
自分が身代わりになれず、心が引き裂かれる思い、亡骸を抱き慟哭した。

死んだ子どもは
ねじれた脚と 乾いた涙を残した。
これからもっともっと 父さん母さんと いい思い出がつくれたのに
ほんとうに悔しくて 可能性も夢も奪われてしまった。

死んだ兵士は
戦争の無残さ悲嘆さ、そして家族の名を叫んだ。
にんげんが人間を殺し合うなんて
殺す理由もないのに・・・。
相手の兵士にも家族があるのに・・・。

死んだかれらが 残したものは
生きているわたし 生きているあなた


こうして自分が
いま 生きていることに感謝し
ウクライナ支援を 
小さなことで できることから行動を起こすことだ。

にんげんは必ず死ぬ
でも戦争で死ぬのは「嫌だ」

死ぬからこそ
こうして生きている
いまを大切にしたい
にんげんを大切にしたい
家族を大切にしたい

と、誰もが願う
にんげんである限り


こうして生きていると
輝く今日と また来るあした

詩の最後の言葉は 希望、勇気を感じる

この美しい青い惑星(地球)には77億のにんげんが生きている、という
そのなかで ひとりのにんげんに出会い そしてかかわりあいをもつ
それは、海底から真珠を探すほど稀少な”縁”にある

だれもが
老いを迎え
病を抱え
死を迎える

ヒトは
死を怖れ 死を見つめず
死を嫌い避ける

死は隣人であり
死はいつ来るかわからない

だからこそ 遠い国で起きているウクライナの出来事は
どこかで老人介護とつながっている 

こうして いま
生きているあなた
生きているわたし
そのことに感謝する

顔も名前も知らない
死んだ兵士の 残したものは
生きることの大切さ
生きることの素晴らしさ
生命の尊さを教えてくれた

ベッドでジッと生きている
老人も同じく
生きることの大切さ
生きることの素晴らしさ
生命の尊さを教えてくれた

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要支援の認定を受けたら、予防介護サービスを利用しよう

2022-03-13 19:35:25 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


1844 要支援の認定結果が出たら、要介護にならないためにも、予防介護サービスを積極的に利用する

年金受給額の多い少ないで
老後の生活、医療費、介護保険サービスは大きく影響されます

国民年金だけの受給額は厳しく
寝たきりになった場合
十分に介護サービスを使えることができず
要介護老人とその家族の肉体的精神的負担は大きいものがあります

誰もが介護保険料を納めています(年金から徴収されています)が、
平等に介護サービスが受けられるとは限りません。
年金受給額のなかから、介護サービスに使えるお金はいくらまで可能ですか、と
初めての訪問のとき必ず尋ねます(聞きずらいことですが、ケアプランを作成する上で必要です)

勿論介護サービスだけでなく、高齢者福祉サービス、難病に対する制度や障害者手帳の発行などの
支援も検討していきます。


要介護・要支援介護認定の申請を行い
要支援1または要支援2の認定結果通知書を受けたら
管轄の地域包括支援センターに電話をかけます

管轄の地域包括支援センターがわからないときは
市町村の介護保険係に問い合わせください

地域包括支援センターのスタッフと電話連絡がとれましたら
「予防介護サービスのことについて直接相談したい」、と話しをします。
地域包括支援センターは、「いつ地域包括支援センターに相談に来られますか」
地域包括支援センターを訪れてもよいのですが、
自宅に来ていただき、相談をされた方がいいと思います。

それは、自宅の玄関周辺、玄関上がり框、トイレ、脱衣室(洗面所)、浴室などを見てもらうことです。
要支援1、要支援2の認定を受けた老人のなかで
歩行が不安定で玄関上がり框など段差がある住環境のとき
手すりを置いたり(介護予防福祉用具貸与)、或いは手すりを取り付けたり(住宅改修)したがよいのでは、と
包括支援センターのスタッフからアドバイスがあります。

要支援の認定は要介護に比べ、まだ軽いから介護サービスを受ける必要はない、と誤解されている場合が多々見受けられます。
不安定な歩行は、転倒のリスクが高い状態にあります。
転ばぬ先の杖、という諺があります。
不安定な歩行で杖が歩行補助具が必要な要支援者もいます。

玄関上がり框に手すりを置いたりつけたりすることで
段差のある所の昇り降りは、安全かつ容易に一人でできるようになります。
玄関上がり框の段差を気にすることなく、億劫になることもなく
買い物や散歩、外食など外へ出る機会も増えます。

杖や歩行補助具(いろんな歩行補助具があります)を使うことで
歩行は安定し、要介護にならないよう、その防止にもなります。

要支援者であっても、転び大腿骨や上腕骨などの骨折、腰椎圧迫骨折などに遭遇すると
たちまち要介護者になります。

上手に介護保険サービスを使いましょう
そのためには地域包括支援センターや居宅介護支援事業所のケアマネジャーに相談することです
相談料も介護予防サービス計画表の作成も無料です
(介護保険から10割の給付を受けます。つまり自己負担額はなし)

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男は弱い生き物?

2022-03-13 09:09:09 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」


1843 寝た夫を起こす

半世紀以上も連れ添った老夫婦
「妻は夫をいたわりつつ、夫は妻に慕いつつ」
夫婦愛を表したもの

心不全と前立腺肥大の病を抱え
この半年で入退院を4回も繰り返した
一番最後に入退院をしたのはひと月前

その時はつかまりながらも歩けた
食べなくなり、十数kg以上も体重が減った。
畳みの上に敷いた蒲団に寝る日が続いている。
卵入りのお粥も少しだけしか食べない
両手は使えるのに、妻に食べさせてもらっている。

ひと月前は要介護2の認定を受けた
いまは自力で寝返りする意欲さえ失せた老夫
要介護5のレベル まで下がった

「どうしていいかわからなくなってしまった」老妻
「元気になって欲しい」「食べて欲しい」などと言葉をつなぐ。

蒲団(畳み)から立ち上がるのは難しい
畳みの上で紙おむつを取り換えるのは大変です
介護用ベッドならば柵(サイドレール)につかまれば
自分で寝返りができるようになる
座って食事もできるようになります

そう老妻に話した自分だが
隣の部屋で寝ている老夫の顔は髭が伸び
下唇はかさぶたがあり、風呂にも入れていない
(蒲団の上でゴソゴソ動く気力も失せている)
深い眠りに陥っている

ベッドに座り食事を摂る
どう離床していくか
これから試さられる自分

寝た子を起こすな、と言われるが
ここでは、寝た老夫を起こす、と心に決め
介護力を高めていきたい




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お世辞かもしれない

2022-03-12 21:32:41 | 老いの光影 第7章 「老人のねがい」

春の川

1842 単純バカ

今日、初めて訪問した家の奥様から
わたしの間抜けた顔をみて
「年若いでしょう。まだ、60才になっていないでしょ〜」、と話され
顔が綻びながらも「お世辞半分以上混じってるよ」、と思い直し
自分の年を言わずに「昭和27年生まれだから、年はとっています」、と答えた。

素直に「69歳」、と話せばいいのに
バカだな、と気持ちのなかで反復した。

老けたな、疲れている顔だな、と
相手からそのような印象を受けないよう
元気、気力で行くとしよう〜
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