鹿児島歴史みてあるき  ~ 外城・四季・フォト ~

     2007年から始まった薩摩藩・麓(外城)巡りの記録。各地を訪れた四季折々の風景。日々の暮らし。

2008 吉利郷・麓

2008-11-09 | 麓-串木野・日置

美山窯元祭りの帰り、日置市の吉利(よしとし)郷を訪れた。

吉利郷の遠景。奥方に小松家の菩提寺である清浄寺が見える

吉利郷は薩摩藩当時の小松家の領地。小松帯刀ゆかりの地として知られる

1年前に訪れた時よりも景観が綺麗になっていた。私達以外にも5~6組の観光客が吉利郷を訪れていた

小松家の菩提寺 清浄寺

 

境内内に吉利郷を望むように建てられた小松帯刀像

 

 

吉利郷の各地に幟が立てられている

 

近くに建つ武家門。門の奥にも階段がある。もとからこの地にあったのかこの地に移設されたのか

 

吉利小学校。吉利領主の御仮屋跡

(続く)


2008 美山窯元祭り 02

2008-11-07 | 麓-串木野・日置

美山窯元祭りのつづき

ここの武家門は美山を訪れる度に写真を撮る。とても好きな場所。手前の花もきれいだし

 

 

 

朝鮮の始祖とされる檀君を祀る玉山神社への参道入口。調所笑左右衛門の墓も途中にある

 

もと来た道を引き返す

 

この通りにはきれいな石垣と生垣が続いている。きもちよく散策できる

 

 

 

上の道を下ると沈寿官窯の正面に出る

(訪問記)

コーヒーカップを1脚購入

参考:最初の美山訪問(2007.11)春の訪問(2008.05)


2008 美山窯元祭り

2008-11-07 | 麓-串木野・日置

11月1日から3日まで日置市美山で窯元祭りがあった

沈寿官窯の武家門は美山のランドマークになっている。主屋根と袖の瓦が新しくなったようだ

紅白の幕が垂れる左右の壁にも瓦屋根が付けられている。昔の姿に戻したのだろうか

 

門を入ると日韓の国旗が掲げられている

 

 

昼に出掛けたため人出が多く、車も混雑していた

 

隣りの店も賑わっている。骨董品や手作りの布製品を販売

 

 

 

さらにその向こうのお店では苗木や盆栽を販売していた

 

苗代川黒陶器産業組合之跡の碑。美山は苗代川と呼ばれていた

 

外城第九十四郷校並びに下伊集院村役場跡の碑があった。現在は保育園

外城第九十四郷校は現在の美山小学校の前身

 

左に上がると美山陶遊館。「こけけ王国」の名前はいかがなものか

 

美山陶遊館

 

 

共同登り窯。四百年窯。日韓友好の炎

 

「1598年、文禄・慶長の駅(韓国では壬辰倭乱といわれています。)で、薩摩藩の島津義弘は、朝鮮半島から多くの陶芸技術者を連れ帰りました。そのうち、串木野市の島平浜に上陸した陶工たち43名は、当初、串木野での厳しい生活に耐えながら、生きるための焼物作りをはじめました。しかし、言葉や風土の違いなどで、土地の人との間に不都合が生じ、苗代川(現在の美山)に安住の地を求め、現在に至ったのです。以来、400年の間、陶工たちは朝鮮陶芸の技術を連綿と受け継ぎながら、祖国から持ってきた僅かばかりの陶土と釉薬で焼物を作りましたが、火だけは日本のものでした。そして、永い歳月の中で技が磨かれ、伝承されて「薩摩焼」として発展してきました。」(東市来町-現地解説板より引用)

(続く) 


2008 東市来麓 02

2008-09-08 | 麓-串木野・日置

東市来麓の続き。JAの前の通り

右は鶴丸城址前の道路にも面する広い屋敷。残念ながらブロック塀。かつては石垣だったと思うが

 

通りを進むと永山在兼生誕地という碑がある

大正時代に釧路土木事務所長として北海道東部の道路建設に情熱を傾け、美幌峠や屈斜路回遊の道を開いたそうだ。情熱家である

 

先に崩れかけた武家門の残る屋敷跡があった

奥には白壁の倉も残っている。主屋は既に撤去されている。財部麓や羽月麓にもこんな屋敷跡があった

 

 

 

なかなか立派な門である。残していく方法はないものだろうか

 

 

 

左右に石垣が続く。歩いてきた道を振り返る

 

石柱の門

 

先を進むと左にカーブし国道3号線に出る。この先にも広い屋敷が点在していた


2008 東市来麓へ

2008-09-07 | 麓-串木野・日置

旧東市来町は旧市来町とともに古くは市来院と呼ばれ、中世に市来氏が郡司となって支配していた

島津氏に支配が移り地頭が置かれるようになったが、地頭仮屋は旧市来町の湊町(現在の市来支所)に移された

鶴丸小学校の正門

 

立派な石垣をもっている

 

市来鶴丸城址は鶴丸小学校の脇を登った背後の山城を指す

フランシスコ・ザビエルが来訪し城内で島津貴久との会見が行なわれた

春日神社

 

 

東市来支所前。高い石垣が続く。石垣内の建物は東市来図書館

 

 

麓下。市来鶴丸城址に向かう旧道に沿って石垣が残る。宅地分譲中

 

麓上。かつての麓らしい風景が道沿いに残る

 

石垣の上に竹垣が植えられている

 

 

脇道を少し山側へ入ってみる。左右に石垣と竹垣が続いている

 

(続く)


2008 美山 02

2008-05-06 | 麓-串木野・日置

沈寿官窯の邸内

 

 

沈寿官窯邸の先の交差点を渡り道沿いに進む

右手の奥に武家門。隠れ里のような風景

 

風景に溶け込む武家門が素晴らしい

石を2段に敷いてゆるいスロープを上がった所に門がある。白い花は何の花だろう

 

道の左側に野石積みの石垣と生垣が続く。いずれも屋敷は現在残らず

 

その先に武家門の残る屋敷があった

石垣の角を左に曲がると朝鮮神話の始祖「壇君」を祀る玉山神社への道につながる

 

美山にはキンチク竹の生垣も残る


2008 美山

2008-05-06 | 麓-串木野・日置

薩摩焼の郷・美山は、旧苗代川と呼ばれていたが、いつしか美山と呼ばれるようになった

美山の入口付近

薩摩焼の歴史、美山の歴史は、島津義弘が朝鮮半島から多くの朝鮮陶工を連れてきた事から始まる。旧苗代川は司馬遼太郎の「故郷忘じがたき候」の舞台として知られる。薩摩藩の庇護の下、陶工の村が作られ、郷士格が与えられた。彼らの作り出す白薩摩は芸術品として欧州に輸出され、藩に多くの富をもたらした。

美山案内図

 

桜馬場。道幅がゆったりしている

 

桜馬場の今にも崩れそうな武家門

前後に支えあり。美山の馬場を歩くと、残念ながら屋敷の崩れた石垣だけの敷地があちこち見られる。

上の写真の左側の樹木もよく見ると屋敷跡

隣の屋敷も武家門構え。四~五段積の石垣の上に生垣。

かつてはこのような武家門構えの屋敷が通り沿いにずらっと並んでいたのかもしれない。奥に白壁の倉。

 

沈寿官窯

御仮屋門とも見間違うべき立派な門構え。左に潜り戸を備える。柱は後方に控え柱を備え、梁および桁も太い材を用いている。突き当りを右に曲がって中庭に入る

 

桜馬場。沈寿官邸の石垣は3~4段積でその上に生垣


2008 伊集院麓

2008-05-06 | 麓-串木野・日置

日置市伊集院へ

伊集院小学校にある地頭仮屋の門

伊集院郷は薩摩藩の外城の一つ。地頭仮屋は現在の伊集院小学校に置かれた(「伊集院町誌」)。一宇治城(現在の城山)のふもとから伊集院小学校に至る一帯、さらには、その先の大光寺から光林寺一帯の地区に郷士集落が形成されたと思われる。一帯に天神馬場、麓東、麓西の地名が残る。線路を越えた猪鹿倉にも武家門が残る。

 

一宇治城(現在の城山)のふもとに残る武家屋敷

 

門の手前にシラスの盛土が見える。正月の名残りか

 

美山や日吉へ向かう幹線道路に沿って建つ武家門。背後は城山

 

大光寺の裏の小路に麓地区の雰囲気が残る

 

武家門

 

猪鹿倉地区に残る武家門

門は道路から奥まったところにある。道路から門まで両側に石塀が続く

猪鹿倉地区は市街地から線路を越えて少し高台にある

伊集院は「妙円寺詣り」で有名

「妙円寺詣り」は関が原の戦いの「島津の退き口」で有名な島津義弘の労苦を偲び、鹿児島の城下士が伊集院郷の妙円寺(現在の徳重神社)まで詣でたのが始まりとされる。妙円寺は義弘公の菩提寺。


2007 市来麓

2007-12-12 | 麓-串木野・日置

市来郷の地頭仮屋は旧市来町の湊町(旧市来町役場)に置かれ、津口番所も設置された。

旧市来町役場。現市来総合支所

 

 

 

 

市来支所近くの風景。天候は曇り。

 

西村寺

 

 

市来庁舎の近くにある菅原神社

 

市来港。市来を流れる八房川の河口にあたる

薩摩藩時代、市来港は九州各地から船が出入りする栄えた港。川口番所を置き密貿易を取り締まった

町門の跡。湊町に出入りする門で出入りを厳しく取りしまった

 

湊町には石柱や石垣が多く残っている