薩摩川内市大小路(おおしょうじ)町に武家門が残っている
国道3号線沿いのコンビニに立ち寄ったら偶然上の武家門をみつけた。付近に古い石垣も残っている
大小路町には秀吉と島津義久が和睦の会見を行った泰平寺がある
薩摩川内市大小路(おおしょうじ)町に武家門が残っている
国道3号線沿いのコンビニに立ち寄ったら偶然上の武家門をみつけた。付近に古い石垣も残っている
大小路町には秀吉と島津義久が和睦の会見を行った泰平寺がある
鹿屋市の北部、高隈山のふもとに高隈麓がある
高隈麓の表示のあるバス停付近
道路沿いに建つ武家門。ブロック塀が目立つのは道路拡張のためか
表門の内側に笠木石を載せた石垣が見える
道路の反対側に建つ武家門。綺麗な門だ
付近は玉石垣が残る。いかにも古そう
この付近の玉石垣は新しく見える
参考:高隈麓の風景(2007.12訪問)
高江麓は石垣等に当時の面影をよく伝えている。落ち着いた佇まいがある
内場馬場の風景。手前から奥にかけて連続する三軒の門構えが見える
門構えはどれも同じような造作である。同時代に作られたからか。まとまって残っているのがいい
内場馬場を引き返し、武家屋敷跡の表示板を先に進む
高江法隆寺の石垣
岩永三五郎作の江之口橋
当時この一帯は洪水で多大な被害を受けていたため薩摩藩は1848年からこの八間川の治水工事に取り掛かりました。江之口橋は1849年、肥後の石工岩永三五郎によって架設されました。岩永三五郎は甲突川五石橋の架設など薩摩藩内で多くの工事を手がけ、江之口橋架設を最後に肥後に帰ったと言われています(現地案内より)
石橋を引き返す
田圃の向こうに最初に見た武家門が見える
田圃の向こうに峰山小を望む
帰る途中、水路用?の古い石橋を見付ける
(訪問記)
高江麓は、峰山小付近や内場馬場に残る古い石垣や生垣に当時の武家屋敷や麓の面影をよく残している。武家屋敷跡の表示板や高江麓の歴史を伝える案内板が地区内に設置されている。散策しながら当時の歴史に思いをはせることができる。
水引麓の対岸を川内川河口へ向けて少し下ったところに高江という麓集落がある
高江麓の表示のあるバス停付近の風景
県道から集落内にある峰山小へ向けて歩きました
麓内の風景。玉石垣が無造作に積み上げられその上に竹等で垣根をつくっている
案内によると1845、6年の川内川氾濫、白浜堤防決壊により白浜堤防沿いの48戸の武家屋敷は大方が今の内場・峰下方面へ転居し、今に残る内場・峰下の武家屋敷が形成された。そうすると、今に残る武家門や石垣は当時のものということになる
高江地区内で唯一確認した武家門
武家屋敷跡という表示板が角に立つ。案内板があると散策するのにいい
切石が三段に積まれた当時の石垣が生垣とともに残る。高江には石垣が実によく残っている
入来麓でみた犬槇の門が高江麓にもある
現在の峰山小学校の敷地から後方の高台にかけて、峰ヶ城があった。案内によると、南北朝時代、川南地域を支配する島津氏と川北地域を支配する渋谷氏一族との間で陣取り合戦が繰り広げられた。その後、三州統一を果たした義久へ峰ヶ城を献上したとある
峰山小付近の風景
切石を綺麗に積み上げた低い石垣の上に見事な生垣が続く
(続く)
垂水から鹿屋へ向かう国道220号線沿いに新城麓がある
新城麓の旧道らしき道を通ってみた
旧道は新城麓の中心をとおり、そのまま山間を進むと花岡麓へと繋がる。
麓中心の公民館近くに武家門があった
地頭仮屋の跡と武家門の存在がかつてそこに武家集落があったことを物語る。
参考:新城麓の風景(2008.2訪問)