古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

景行天皇(その1 丹波勢力の影響力)

2017年08月25日 | 古代日本国成立の物語(第二部)
 今回より第12代景行天皇を考える。景行天皇は第11代垂仁天皇の第三皇子で母親は日葉酢媛命である。この日葉酢媛は丹波道主命の子であり狭穂彦の反乱で命を落とした狭穂姫のあと、垂仁天皇の二番目の后となった。つまり丹波の勢力が崇神王朝の外戚に入ったことになり、その日葉酢媛が生んだのが景行天皇である。また、古事記によれば前后の狭穂姫は彦坐王の子とされてり、丹波道主命は彦坐王の子であるから、狭穂姫と日葉酢媛は叔母・姪の関係となり、垂仁天皇は2人の后をいずれも丹波から迎えたことになる。さらに日葉酢媛の曽祖父、すなわち狭穂姫の祖父は神武王朝最後の天皇である第9代開化天皇であり、この開化天皇は丹波竹野媛を妃とし、第一皇子として彦湯産隅命を設けている。書紀の一書では彦湯産隅命の子が丹波道主命であるとしている。いずれにしても垂仁天皇および景行天皇は丹波勢力の影響を強く受けた天皇であることが言え、その丹波勢力は開化天皇を通じて神武王朝と強い関係があったことが伺えるのだ。

 垂仁天皇のところで見たように、倭姫命によって天照大神が大和から伊勢に遷座したことは、天照を祖神と仰ぐ天孫族である神武王朝の終焉を意味すると考えたのであるが、景行天皇の治世においては前述の関係性によって丹波勢力がそれに替わって影響力を及ぼすことになったのではないだろうか。天日槍の考察で見たように、丹波勢力は大丹波王国として天皇家に匹敵する力を持っていたと考えられる。崇神天皇は四道将軍を丹波に派遣しているが、書紀の記述を見る限り、丹波を支配下に置いたとまでは書かれていない。また、垂仁天皇においても天日槍に手を焼いた様子が窺える。天日槍は天皇の命令に背いて丹波に自らの領地を獲得し、さらに神宝を献上させたものの出石小刀は最後までモノにできなかった。播磨国風土記では出雲の大己貴神と領地争いを演じている。景行天皇、さらには次の成務天皇の治世においても丹波の勢力は大きな影響力を発揮した。そういう視点で景行天皇や次の成務天皇の事績を見ていきたい。


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