2017年8月18日、一泊旅行の2日目。和歌山市和田にある竈山(かまやま)神社を参拝。祭神は神武天皇の長兄である彦五瀬命。
記紀によると、日向を出て瀬戸内海を東征してきた神武軍は難波に上陸、孔舎衛坂での長髄彦の軍と一戦を交えることになったが、この戦いで五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。その後、一時退却した一行が雄水門(男之水門)を経て紀国に進軍中に五瀬命は崩御したため、この竈山の地に葬られたという。
彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定(じじょう)されている。紀伊続風土記ではこの地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。
竈山墓は神社裏手の高さ9メートルの丘の上に設けられた直径6メートル、高さ1メートルの円墳とされる。また、神社は明治初期までは小さな社であったが、戦前の国家神道の発展に伴って最高の社格である官幣大社に位置づけられ、さらに社殿等が整備されて現在に至っているという。
参道から神門。
本当に立派な拝殿。
拝殿右側にならぶ境内摂社と拝殿裏手の本殿。この本殿はよく見ると二棟が縦に並んでいるようだ。
拝殿左側には本殿に通じる通路が。左手に見える階段は竈山墓に通じているように思える。
竈山神社の神職は明治まで代々鵜飼家(うがいけ)が世襲した。鵜飼家は記紀において吉野川で漁をしていたとされる贄持之子(苞苴擔之子)、すなわち阿陀之鵜飼の祖(阿太養鸕部の祖)に始まるとされる。五瀬命の話だけでは記紀神話のテーマパークとも言えなくもないが、神職の家が記紀の記述との強い関連が想定される鵜飼家であったということで、より信憑性が高まる。
ただ、配祀されている神々を列挙すると、稲飯命、御毛入沼命、神日本磐余彦命(神武天皇)、可美眞手命、天日方竒日方命、天種子命、天富命、道臣命、椎根津彦命、頭八咫烏命、となっており、さながら神武東征御一行様の様相である。ここまで並べれらると、これらの神々が配祀されたのは記紀編纂後のことであることは明らかだ。
また、古墳と神社が一体になっているのは出雲の神原神社でも見た。やはり古墳の被葬者と神社の祭神は同一人物と考えるのが妥当であるとの思いを強くした。それにしても、想像していた以上に立派な神社だった。
記紀によると、日向を出て瀬戸内海を東征してきた神武軍は難波に上陸、孔舎衛坂での長髄彦の軍と一戦を交えることになったが、この戦いで五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。その後、一時退却した一行が雄水門(男之水門)を経て紀国に進軍中に五瀬命は崩御したため、この竈山の地に葬られたという。
彦五瀬命の墓は、現在は宮内庁によって竈山神社後背にある古墳「竈山墓(かまやまのはか)」に治定(じじょう)されている。紀伊続風土記ではこの地が「竈山墓」にあたるとし、墓の造営後直ちに神霊を奉斎したがために墓と祠が一所にあるとしている。
竈山墓は神社裏手の高さ9メートルの丘の上に設けられた直径6メートル、高さ1メートルの円墳とされる。また、神社は明治初期までは小さな社であったが、戦前の国家神道の発展に伴って最高の社格である官幣大社に位置づけられ、さらに社殿等が整備されて現在に至っているという。
参道から神門。
本当に立派な拝殿。
拝殿右側にならぶ境内摂社と拝殿裏手の本殿。この本殿はよく見ると二棟が縦に並んでいるようだ。
拝殿左側には本殿に通じる通路が。左手に見える階段は竈山墓に通じているように思える。
竈山神社の神職は明治まで代々鵜飼家(うがいけ)が世襲した。鵜飼家は記紀において吉野川で漁をしていたとされる贄持之子(苞苴擔之子)、すなわち阿陀之鵜飼の祖(阿太養鸕部の祖)に始まるとされる。五瀬命の話だけでは記紀神話のテーマパークとも言えなくもないが、神職の家が記紀の記述との強い関連が想定される鵜飼家であったということで、より信憑性が高まる。
ただ、配祀されている神々を列挙すると、稲飯命、御毛入沼命、神日本磐余彦命(神武天皇)、可美眞手命、天日方竒日方命、天種子命、天富命、道臣命、椎根津彦命、頭八咫烏命、となっており、さながら神武東征御一行様の様相である。ここまで並べれらると、これらの神々が配祀されたのは記紀編纂後のことであることは明らかだ。
また、古墳と神社が一体になっているのは出雲の神原神社でも見た。やはり古墳の被葬者と神社の祭神は同一人物と考えるのが妥当であるとの思いを強くした。それにしても、想像していた以上に立派な神社だった。