2017年4月、初夏を彷彿とさせる日差しの強い日、福岡県福岡市西区吉武にある吉武高木遺跡を訪ねました。西に飯盛山、東に室見川を望む地に営まれた弥生時代の大規模な遺跡で、弥生時代中期のクニの成立と展開を知る上で特に重要な遺跡とされています。遺跡の中心部が「やよいの風公園」として整備され、前週にオープンしたばかりのタイミングでした。福岡平野の西端にあたる場所ですが、遺跡の範囲を考えると脊振山から流れ出る室見川が形成した扇状地にあると考えるとわかりやすい。
バスを降りて遺跡に向かって歩いていくと飯盛山が見えます。
豊富な水量の室見川。
室見川を渡って遺跡に近づくにつれて、この地に弥生人が集団で生活した理由が何となくわかる気がしてきました。すぐ近くに山や森があり、周囲の山々から幾筋もの川が流れ出る広々とした平地。海にも近く、狩猟、採集、漁撈、稲作と食に困ることなく、水も豊富に手に入る。そして何よりも神奈備山の麓である。
公園入口を入ると飯盛山を背景にシカのオブジェが並ぶ。このオブジェは出土した甕棺に刻まれた線刻画をもとに作られたとのこと。
飯盛山の向こうは平原遺跡や三雲南小路遺跡など伊都国とされる一帯です。伊都国はまた別の機会に紹介します。
ここには吉武高木遺跡のほかに吉武大石遺跡、吉武樋渡遺跡があり、あわせて吉武遺跡群と呼ばれています。そしてこの遺跡群からは実に1200基にものぼる甕棺墓が見つかりました。特にこの吉武高木遺跡における1984年度の調査で見つかった弥生時代前期末~中期初頭の甕棺墓・木棺墓等あわせて11基は、一般の墓からは区別された場所に墓域が定められて、主軸を北東方向にそろえ平面長方形の大きな墓穴を持っており、加えて棺の中には多数の青銅製の武器や鏡、腕飾り、ヒスイ製の玉類などが副葬されていました。そのため、これらの墓は一般の人々とは異なる特定の有力者たちが葬られた墓と考えられ、特定集団墓と呼ばれています。
この11基のうち3号木棺墓には、銅鏡(多鈕細文鏡)1・銅剣2・銅矛1・銅戈1・ヒスイ製勾玉1・碧玉製管玉95という、質・量ともに優れた副葬品が納められていました。「三種の神器」を彷彿とさせる銅鏡・銅剣・勾玉がそろって副葬された墓は日本で初めてであったので「最古の王墓」と呼ばれています。
特定集団墓の北側には谷川の痕跡があり、その先には北東方向にのびるなだらかな丘陵状の高まりがあり、このあたりは弥生時代前期の終わりから中期後半までの200年の間に甕棺墓を中心とした多数の墓がつくられた場所です。ここから南西に向かって幅30~40m、長さ約500mにわたって甕棺墓群が存在し、その総数は2,000基にも及ぶと推定され、甕棺墓が道のように続いていることから「甕棺ロード」と呼ばれています。
甕棺が出土した地点にはこのように出土時の状況を記したプレートが貼られています。
一部の甕棺墓が地上に復元されているが、この復元はいただけない。出土時のままを残す、あるいはレプリカで地中に復元する方がリアリティがあるのになあ。
遺跡の南東の角からは弥生時代中期後半の大型建物跡が出土。当時としては国内最大級とのこと。
この遺跡は室見川が形成した扇状地の上にあると書きましたが、ここを福岡平野ではなく早良平野と呼ぶこともあるそうです。西の山を越えると魏志倭人伝に記された伊都国、平野を東へ行けば奴国。伊都国と奴国に挟まれた早良の地で栄えたこの一帯を早良王国と呼ぶ人もいます。早良王国は弥生前期後葉に起こり、中期に発展、拡大し、後期の初めには早くも衰退期を迎えることとなりました。魏志倭人伝が書かれた後期後半には既に伊都国もしくは奴国によって滅ぼされていたのでしょうか。
時刻は午後3時。あと3時間ほどで神奈備である飯盛山に陽が沈む。飯森山は大和でいうと二上山とおんなじだ。
バスを降りて遺跡に向かって歩いていくと飯盛山が見えます。
豊富な水量の室見川。
室見川を渡って遺跡に近づくにつれて、この地に弥生人が集団で生活した理由が何となくわかる気がしてきました。すぐ近くに山や森があり、周囲の山々から幾筋もの川が流れ出る広々とした平地。海にも近く、狩猟、採集、漁撈、稲作と食に困ることなく、水も豊富に手に入る。そして何よりも神奈備山の麓である。
公園入口を入ると飯盛山を背景にシカのオブジェが並ぶ。このオブジェは出土した甕棺に刻まれた線刻画をもとに作られたとのこと。
飯盛山の向こうは平原遺跡や三雲南小路遺跡など伊都国とされる一帯です。伊都国はまた別の機会に紹介します。
ここには吉武高木遺跡のほかに吉武大石遺跡、吉武樋渡遺跡があり、あわせて吉武遺跡群と呼ばれています。そしてこの遺跡群からは実に1200基にものぼる甕棺墓が見つかりました。特にこの吉武高木遺跡における1984年度の調査で見つかった弥生時代前期末~中期初頭の甕棺墓・木棺墓等あわせて11基は、一般の墓からは区別された場所に墓域が定められて、主軸を北東方向にそろえ平面長方形の大きな墓穴を持っており、加えて棺の中には多数の青銅製の武器や鏡、腕飾り、ヒスイ製の玉類などが副葬されていました。そのため、これらの墓は一般の人々とは異なる特定の有力者たちが葬られた墓と考えられ、特定集団墓と呼ばれています。
この11基のうち3号木棺墓には、銅鏡(多鈕細文鏡)1・銅剣2・銅矛1・銅戈1・ヒスイ製勾玉1・碧玉製管玉95という、質・量ともに優れた副葬品が納められていました。「三種の神器」を彷彿とさせる銅鏡・銅剣・勾玉がそろって副葬された墓は日本で初めてであったので「最古の王墓」と呼ばれています。
特定集団墓の北側には谷川の痕跡があり、その先には北東方向にのびるなだらかな丘陵状の高まりがあり、このあたりは弥生時代前期の終わりから中期後半までの200年の間に甕棺墓を中心とした多数の墓がつくられた場所です。ここから南西に向かって幅30~40m、長さ約500mにわたって甕棺墓群が存在し、その総数は2,000基にも及ぶと推定され、甕棺墓が道のように続いていることから「甕棺ロード」と呼ばれています。
甕棺が出土した地点にはこのように出土時の状況を記したプレートが貼られています。
一部の甕棺墓が地上に復元されているが、この復元はいただけない。出土時のままを残す、あるいはレプリカで地中に復元する方がリアリティがあるのになあ。
遺跡の南東の角からは弥生時代中期後半の大型建物跡が出土。当時としては国内最大級とのこと。
この遺跡は室見川が形成した扇状地の上にあると書きましたが、ここを福岡平野ではなく早良平野と呼ぶこともあるそうです。西の山を越えると魏志倭人伝に記された伊都国、平野を東へ行けば奴国。伊都国と奴国に挟まれた早良の地で栄えたこの一帯を早良王国と呼ぶ人もいます。早良王国は弥生前期後葉に起こり、中期に発展、拡大し、後期の初めには早くも衰退期を迎えることとなりました。魏志倭人伝が書かれた後期後半には既に伊都国もしくは奴国によって滅ぼされていたのでしょうか。
時刻は午後3時。あと3時間ほどで神奈備である飯盛山に陽が沈む。飯森山は大和でいうと二上山とおんなじだ。