書紀における景行天皇の最大の事績は、天皇自らが出向いた九州平定と日本武尊を派遣した熊襲征伐および東国平定である。まずは九州平定を見ていこう。なお、古事記では天皇による九州平定の話は記載されていない。
景行12年、熊襲が反抗して朝貢してこないことを理由に天皇は九州に向けて出発した。これまで何度も述べてきたように、熊襲あるいは隼人は神武天皇のお膝元である九州中南部を支配する一族である。崇神天皇から垂仁天皇を経て、ようやく大和で神武王朝を制圧して畿内での主導権を握った景行天皇は神武の故郷である九州の制圧に乗り出したのだ。その西征ルートを順に追いかけてみる。
西征部隊はまず周芳(すわのくに)の娑麼(さば)に到着した。現在の山口県防府市佐波である。天皇は南の空に煙がたくさん上がるのを見て必ず賊がいると思い、多臣の祖の武諸木(たけもろき)、国前臣(くにさきのおみ)の祖の菟名手(うなて)、物部君の祖の夏花(なつはな)の3人を派遣して状況を偵察させた。すると神夏磯媛(かむなつひめ)という女首領が降参を申し出て、鼻垂(はなたり)・耳垂(みみたり)・麻剥(あさはぎ)・土折猪折(つちおちいおり)という4人の賊の拠点を教えてくれたため、偵察隊は4人を誅殺することに成功した。その後、天皇は豊前国長峡県(ながおのあがた)に到着して行宮(かりみや)を設けた。それでこの地を京(みやこ)と呼ぶようになった。長峡県は現在の福岡県行橋市長尾に比定されており、一方の京は現在の福岡県京都(みやこ)郡に比定されるが、行橋市は市制施行前は京都郡に属していた。
次に碩田国(おおきたのくに)、現在の大分県に到着し、さらに速見邑、現在の大分県速見郡に進んだ。速津媛という女首領がやって来て、青・白・打猿・八田・国摩侶という5人の土蜘蛛の存在を告げたので、天皇は来田見邑(くたみむら)に宮を設けて滞在した。大分県竹田市にある宮処野(みやこの)神社がその跡地とされる。天皇と群臣は後顧の憂いを絶つために土蜘蛛を討つことを決め、激戦の末に勝利した。天皇は柏峡(かしわお)の大野、現在の大分県豊後大野市に留まり、土蜘蛛を滅ぼせるよう、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なおいりのもののべのかみ)、直入中臣神(なおいりのなかとみのかみ)の三神に祈って誓約をしたところ、結果は吉と出た。
一行は日向国で高屋宮を設けて滞在した。宮崎市にある高屋神社が跡地とされる。天皇はここで厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)という二人の熊襲八十梟帥(くまそやそたける)を討った。そして滞在すること6年にわたり、襲の国を完全に平定することができた。そしてこの国の御刀媛(ひはかしひめ)を妃とし、日向国造の始祖である豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ。
景行17年、子湯県(こゆのあがた)へ行き、丹裳小野(にものおの)で遊んだときに「この国は真っ直ぐに日の出る方を向いている」と言ったことから、この地を日向と呼ぶようになった。子湯県は現在の宮崎県児湯郡である。
景行18年、日向国の夷守に着いた。現在の宮崎県小林市である。石瀬河のほとりに人が集まっていたので兄夷守(えひなもり)・弟夷守(おとひなもり)を派遣したところ、諸県君(もろあがたのきみ)の泉媛が大御食(おおみあえ)を奉ろうとして集まっているということだった。諸県君は書紀の応神紀および古事記の応神天皇の段にも登場する。美貌の噂が高い諸県君牛諸井(もろあがたのうしもろい)の娘である髪長媛を応神天皇が娶ろうとしたが、媛が皇子の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、のちの仁徳天皇に恋心を抱いていたので天皇は皇子に媛を譲ったという話である。諸県君は宮崎県南部にあった諸県郡(もろかたぐん)を拠点にした土着の豪族であろう。
景行17年および18年の記事から景行天皇一行は日向国の子湯県や諸県を行幸したことがわかる。ここには日本最大の規模を誇る西都原古墳群がある。現在までの発掘調査によって、3世紀前半あるいは半ばから7世紀前半に築造された311基の様々な古墳が存在し、その内訳は前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基となっており、ほかにこの地域に特徴的に見られる地下式横穴墓が多数見られる。その中の100号墳は全長が約57m、後円部の径が約33mの前方後円墳であり、調査の結果、4世紀前半の築造であることがわかっている。前方後円墳の原型を大和纒向の帆立貝式古墳(纒向型前方後円墳)に求める考えからすると、4世紀前半にはこの日向の地に大和の影響が及んでいたことになる。私は古事記で崇神天皇崩御年とされる戌寅を西暦258年と考えているので、そうすると次の垂仁天皇の治世が3世紀後半となり、さらに次の景行天皇は3世紀末から4世紀前半の天皇と考えることができる。すると、景行天皇による九州平定の時期と西都原100号分の築造の時期がいずれも4世紀前半と整合してくる。景行天皇の西征によって大和の崇神王朝の墓制が西都原に伝えられたと考えることができる。西都原古墳群は九州中南部を支配していた熊襲族あるいは隼人族の首長、すなわち狗奴国の王家の墓域であることは以前に書いた。そして、日向から大和へ東征した神日本磐余彦、すなわち神武天皇は狗奴国王であった。神武の故郷である狗奴国は敵国である崇神王朝すなわち邪馬台国によって爪痕を残されることになったのだ。邪馬台国である崇神王朝側から見ると、初代の崇神天皇のときに大和において東征してきた神武王朝と敵対し(3世紀中頃)、二代目の垂仁天皇のときに神武王朝を退けて畿内周辺での支配権を確立(3世紀後半)、三代目の景行天皇のときに神武王朝の本拠地である九州中南部を影響下においた(4世紀前半)、ということになる。これら大和政権成立の過程については私の仮説の一部訂正も含めて改めて整理したい。
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景行12年、熊襲が反抗して朝貢してこないことを理由に天皇は九州に向けて出発した。これまで何度も述べてきたように、熊襲あるいは隼人は神武天皇のお膝元である九州中南部を支配する一族である。崇神天皇から垂仁天皇を経て、ようやく大和で神武王朝を制圧して畿内での主導権を握った景行天皇は神武の故郷である九州の制圧に乗り出したのだ。その西征ルートを順に追いかけてみる。
西征部隊はまず周芳(すわのくに)の娑麼(さば)に到着した。現在の山口県防府市佐波である。天皇は南の空に煙がたくさん上がるのを見て必ず賊がいると思い、多臣の祖の武諸木(たけもろき)、国前臣(くにさきのおみ)の祖の菟名手(うなて)、物部君の祖の夏花(なつはな)の3人を派遣して状況を偵察させた。すると神夏磯媛(かむなつひめ)という女首領が降参を申し出て、鼻垂(はなたり)・耳垂(みみたり)・麻剥(あさはぎ)・土折猪折(つちおちいおり)という4人の賊の拠点を教えてくれたため、偵察隊は4人を誅殺することに成功した。その後、天皇は豊前国長峡県(ながおのあがた)に到着して行宮(かりみや)を設けた。それでこの地を京(みやこ)と呼ぶようになった。長峡県は現在の福岡県行橋市長尾に比定されており、一方の京は現在の福岡県京都(みやこ)郡に比定されるが、行橋市は市制施行前は京都郡に属していた。
次に碩田国(おおきたのくに)、現在の大分県に到着し、さらに速見邑、現在の大分県速見郡に進んだ。速津媛という女首領がやって来て、青・白・打猿・八田・国摩侶という5人の土蜘蛛の存在を告げたので、天皇は来田見邑(くたみむら)に宮を設けて滞在した。大分県竹田市にある宮処野(みやこの)神社がその跡地とされる。天皇と群臣は後顧の憂いを絶つために土蜘蛛を討つことを決め、激戦の末に勝利した。天皇は柏峡(かしわお)の大野、現在の大分県豊後大野市に留まり、土蜘蛛を滅ぼせるよう、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なおいりのもののべのかみ)、直入中臣神(なおいりのなかとみのかみ)の三神に祈って誓約をしたところ、結果は吉と出た。
一行は日向国で高屋宮を設けて滞在した。宮崎市にある高屋神社が跡地とされる。天皇はここで厚鹿文(あつかや)と迮鹿文(さかや)という二人の熊襲八十梟帥(くまそやそたける)を討った。そして滞在すること6年にわたり、襲の国を完全に平定することができた。そしてこの国の御刀媛(ひはかしひめ)を妃とし、日向国造の始祖である豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生んだ。
景行17年、子湯県(こゆのあがた)へ行き、丹裳小野(にものおの)で遊んだときに「この国は真っ直ぐに日の出る方を向いている」と言ったことから、この地を日向と呼ぶようになった。子湯県は現在の宮崎県児湯郡である。
景行18年、日向国の夷守に着いた。現在の宮崎県小林市である。石瀬河のほとりに人が集まっていたので兄夷守(えひなもり)・弟夷守(おとひなもり)を派遣したところ、諸県君(もろあがたのきみ)の泉媛が大御食(おおみあえ)を奉ろうとして集まっているということだった。諸県君は書紀の応神紀および古事記の応神天皇の段にも登場する。美貌の噂が高い諸県君牛諸井(もろあがたのうしもろい)の娘である髪長媛を応神天皇が娶ろうとしたが、媛が皇子の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、のちの仁徳天皇に恋心を抱いていたので天皇は皇子に媛を譲ったという話である。諸県君は宮崎県南部にあった諸県郡(もろかたぐん)を拠点にした土着の豪族であろう。
景行17年および18年の記事から景行天皇一行は日向国の子湯県や諸県を行幸したことがわかる。ここには日本最大の規模を誇る西都原古墳群がある。現在までの発掘調査によって、3世紀前半あるいは半ばから7世紀前半に築造された311基の様々な古墳が存在し、その内訳は前方後円墳31基、円墳279基、方墳1基となっており、ほかにこの地域に特徴的に見られる地下式横穴墓が多数見られる。その中の100号墳は全長が約57m、後円部の径が約33mの前方後円墳であり、調査の結果、4世紀前半の築造であることがわかっている。前方後円墳の原型を大和纒向の帆立貝式古墳(纒向型前方後円墳)に求める考えからすると、4世紀前半にはこの日向の地に大和の影響が及んでいたことになる。私は古事記で崇神天皇崩御年とされる戌寅を西暦258年と考えているので、そうすると次の垂仁天皇の治世が3世紀後半となり、さらに次の景行天皇は3世紀末から4世紀前半の天皇と考えることができる。すると、景行天皇による九州平定の時期と西都原100号分の築造の時期がいずれも4世紀前半と整合してくる。景行天皇の西征によって大和の崇神王朝の墓制が西都原に伝えられたと考えることができる。西都原古墳群は九州中南部を支配していた熊襲族あるいは隼人族の首長、すなわち狗奴国の王家の墓域であることは以前に書いた。そして、日向から大和へ東征した神日本磐余彦、すなわち神武天皇は狗奴国王であった。神武の故郷である狗奴国は敵国である崇神王朝すなわち邪馬台国によって爪痕を残されることになったのだ。邪馬台国である崇神王朝側から見ると、初代の崇神天皇のときに大和において東征してきた神武王朝と敵対し(3世紀中頃)、二代目の垂仁天皇のときに神武王朝を退けて畿内周辺での支配権を確立(3世紀後半)、三代目の景行天皇のときに神武王朝の本拠地である九州中南部を影響下においた(4世紀前半)、ということになる。これら大和政権成立の過程については私の仮説の一部訂正も含めて改めて整理したい。
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