景行3年、天皇は紀伊国へ行幸したが諸々の神々を祀ろうと占ったところ、よくない結果が出たので行幸を中止した。そして代わりに屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)を遣わした。この屋主忍男武雄心命は書紀では第8代孝元天皇の孫にあたる人物である。彼は阿備柏原(あびのかしはら)に滞在して神祇を祀ったが、それが9年間にも及んだという。そしてその間に影媛を娶って武内宿禰が生まれた。
この影媛であるが、書紀では紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ)の娘とあり、私はこの菟道彦を神武が東征した際に速吸之門で一行に加わった珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦であると考えている。難波に上陸した直後の長髄彦との一戦で不利な戦況に陥った神武一行はいったん退却して伊勢に向かおうと大阪湾を南下、紀ノ川河口近くの名草邑で地元の女首長である名草戸畔を討った。神武は椎根津彦を紀伊国に残し、名草戸畔の後継としてこの地を治めさせた。さらにその後、熊野を経由して吉野へ入った神武一行と合流して大和平定に尽力した。その結果、椎根津彦は東征の論功行賞として倭国造に任じられることになった。一方、紀伊国に残った彼の後継たちは紀直、紀伊国造へとつながっていった。つまり、紀伊国は神武王朝の息のかかった一族によって治められていたのだ。これが景行天皇による紀伊国行幸が中止になった本当の理由ではないだろうか。
なお、古事記では屋主忍男武雄心命は登場せず、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)と宇豆比古(うづひこ)の妹である山下影日売の間にできたのが建内宿禰であるとしている。比古布都押之信命は書紀で第8代孝元天皇の皇子であり武内宿禰の祖父として記される彦太忍信忍と同一人物である。つまり、書紀では孝元天皇の三世孫の武内宿禰が古事記では一世代省かれて孫として記されている。加えて、母親の影媛は古事記では宇豆比古(=珍彦=椎根津彦)の娘ではなく妹となっており、ここでも一世代分の短縮が見られる。いずれが正しいのかは定かではないが、重要なことは武内宿禰が孝元天皇の直系であること、母方が神武天皇の腹心の部下であった椎根津彦の娘、あるいは妹であること、要するに武内宿禰は神武王朝にゆかりある人物ということだ。
書紀によれば、武内宿禰は景行天皇のときに「棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)」に、成務天皇のときに「大臣」に任じられ、その後も仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と計5人の天皇に仕え、360余歳を生きたとされる。古事記では7男2女の子とその後裔氏族が以下の通りに示される。
波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)・・・波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部臣の祖
許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)・・・許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖
蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)・・蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣の祖
平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)・・・平群臣・佐和良臣・馬御樴連の祖
木角宿禰(きのつののすくね)・・・・・・・木臣・都奴臣・坂本臣の祖
久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
奴能伊呂比売(ののいろひめ)
葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ)・・・玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖
若子宿禰(わくごのすくね)・・・・・・・・江野財臣の祖
その後の大和政権の成立に大きく関わる氏族の多くが武内宿禰を祖としている。Wikipediaには「『日本書紀』『古事記』の記す武内宿禰の伝承には歴代の大王に仕えた忠臣像、長寿の人物像、神託も行う人物像が特徴として指摘される。特に、大臣を輩出した有力豪族の葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏ら4氏が共通の祖とすることから、武内宿禰には大臣の理想像が描かれているとされる」と書かれているが、記紀伝承の中でも特に仲哀天皇のときに神功皇后のもとで暗躍し、その後の応神天皇即位、すなわち応神王朝の開祖に強い影響力を発揮したことが重要であろう。武内宿禰が何者であるのかはこのあと、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇と論証を進める中で考えていきたい。
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この影媛であるが、書紀では紀直の遠祖である菟道彦(うじひこ)の娘とあり、私はこの菟道彦を神武が東征した際に速吸之門で一行に加わった珍彦(うずひこ)、すなわち椎根津彦であると考えている。難波に上陸した直後の長髄彦との一戦で不利な戦況に陥った神武一行はいったん退却して伊勢に向かおうと大阪湾を南下、紀ノ川河口近くの名草邑で地元の女首長である名草戸畔を討った。神武は椎根津彦を紀伊国に残し、名草戸畔の後継としてこの地を治めさせた。さらにその後、熊野を経由して吉野へ入った神武一行と合流して大和平定に尽力した。その結果、椎根津彦は東征の論功行賞として倭国造に任じられることになった。一方、紀伊国に残った彼の後継たちは紀直、紀伊国造へとつながっていった。つまり、紀伊国は神武王朝の息のかかった一族によって治められていたのだ。これが景行天皇による紀伊国行幸が中止になった本当の理由ではないだろうか。
なお、古事記では屋主忍男武雄心命は登場せず、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)と宇豆比古(うづひこ)の妹である山下影日売の間にできたのが建内宿禰であるとしている。比古布都押之信命は書紀で第8代孝元天皇の皇子であり武内宿禰の祖父として記される彦太忍信忍と同一人物である。つまり、書紀では孝元天皇の三世孫の武内宿禰が古事記では一世代省かれて孫として記されている。加えて、母親の影媛は古事記では宇豆比古(=珍彦=椎根津彦)の娘ではなく妹となっており、ここでも一世代分の短縮が見られる。いずれが正しいのかは定かではないが、重要なことは武内宿禰が孝元天皇の直系であること、母方が神武天皇の腹心の部下であった椎根津彦の娘、あるいは妹であること、要するに武内宿禰は神武王朝にゆかりある人物ということだ。
書紀によれば、武内宿禰は景行天皇のときに「棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)」に、成務天皇のときに「大臣」に任じられ、その後も仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇と計5人の天皇に仕え、360余歳を生きたとされる。古事記では7男2女の子とその後裔氏族が以下の通りに示される。
波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)・・・波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部臣の祖
許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)・・・許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖
蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)・・蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣の祖
平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)・・・平群臣・佐和良臣・馬御樴連の祖
木角宿禰(きのつののすくね)・・・・・・・木臣・都奴臣・坂本臣の祖
久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
奴能伊呂比売(ののいろひめ)
葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ)・・・玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖
若子宿禰(わくごのすくね)・・・・・・・・江野財臣の祖
その後の大和政権の成立に大きく関わる氏族の多くが武内宿禰を祖としている。Wikipediaには「『日本書紀』『古事記』の記す武内宿禰の伝承には歴代の大王に仕えた忠臣像、長寿の人物像、神託も行う人物像が特徴として指摘される。特に、大臣を輩出した有力豪族の葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏ら4氏が共通の祖とすることから、武内宿禰には大臣の理想像が描かれているとされる」と書かれているが、記紀伝承の中でも特に仲哀天皇のときに神功皇后のもとで暗躍し、その後の応神天皇即位、すなわち応神王朝の開祖に強い影響力を発揮したことが重要であろう。武内宿禰が何者であるのかはこのあと、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、応神天皇と論証を進める中で考えていきたい。
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