2022年3月後半の3連休に古市古墳群を探索してきました。昨年12月に応神天皇陵から北へ向かって仲津姫命陵までの探索に次いで2回目となります。
今回は、清寧陵(白髪山古墳)→小白髪山古墳→日本武尊白鳥陵(軽里大塚古墳)→峰ヶ塚古墳→小口山古墳→仁賢陵(ボケ山古墳)→青山古墳→浄元寺山古墳→墓山古墳→向墓山古墳、というルートを巡りました。駐車場をどうしようかと事前にいろいろと調べた結果、羽曳野市立生活文化情報センター「LICはびきの」の駐車場が2時間まで無料というのがわかったので、ここを起点に巡ることにしました。前半、後半の2回に分けて順に紹介します。
まず最初が河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)として第22代清寧天皇陵に治定される白髪山古墳です。
全長115メートルの前方後円墳。この古墳は前方部の幅が後円部直径の2倍もあって裾の広がったスカートのようなちょっと不思議な形の前方後円墳です。前方部が発達した形態は墳形の最終段階を示すものと考えられているそうですが、出土した埴輪などから6世紀前半の築造とされています。
白髪山古墳の名称は、清寧天皇が生まれながら白髪であったことから古事記で「白髪大倭根子命」、日本書紀では「白髪武広国押稚日本根子天皇」と名付けられたことに由来するそうです。白髪山古墳をぐるりと一周したあと、次は軽里大塚古墳へ行ったのですが、先に清寧陵(白髪山古墳)の陪塚とされている小白髪山古墳を紹介します。
白髪山古墳とは外環状線を挟んでいるのでわかりにくいですが、同一の軸線上に並んでいて同じ方向を向いている前方後円墳です。全長46mで幅10mほどの周濠がめぐり、墳丘には円筒埴輪が並べられていたそうなので、陪塚としては立派な古墳です。白髪山古墳とともに6世紀前半の築造と推定されています。
そして次に紹介するのが軽里大塚古墳。白鳥陵古墳とも呼ばれています。日本武尊の白鳥陵に治定されてる全長190mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されています。拝所までの参道の雰囲気がいい。
白鳥陵も一周しましたが、北側の周濠に沿って通っている道が竹内街道です。フェンス越しに周濠をのぞき込むとカモがびっくりしたのか一斉に飛び立ちました。
日本武尊の陵は全国に3カ所あって、伊勢の能褒野、大和の琴弾原、そしてここ河内の古市です。伊勢と大和は以前に行ったことがあるので、今回で日本武尊陵をコンプリートしたことになり、妙な達成感があります。
次が峯ケ塚古墳です。全長96m、出土した埴輪や横穴式石室の特徴から、5世紀末から6世紀初頃の築造とされる前方後円墳です。江戸時代には日本武尊白鳥陵に治定されていたこともあったそうで、また、允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあるそうです。
昨年12月に応神陵など古市古墳群の北部方面を探索した日、ここ峯ケ塚古墳では、造出し部の調査の様子が見れる現地説明会が開催されていたことをあとで知って少し残念に思ったことがあります。調査のあとに埋め戻して造出し部ふうに土が盛られています。
また、発掘調査により二重濠をもつ古墳であることが判明しています。古墳の規模が縮小していく古墳時代後期に二重濠を持つ古墳を築造できた被葬者は大王級の権力のある人物であったと推測されています。公園として整備されるにあたって周濠部分を水色の敷石、周堤部分を茶色の敷石にして頭の中で復元できるように配慮されているのが素晴らしいと思いました。写真右奥の方に見える水色の敷石が外濠を表しています。
羽曳野市のサイトによると、石室は盗掘を受けていたものの豊富な副葬品が見つかっています。銀や鹿角製などの装飾品を付けた大刀をはじめ、武器や武具、馬具など軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製の冠帽や帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類などがあり、総数は3,500 点以上にのぼるそうです。たしか発表されたときは古代史ファンの間で大騒ぎになった記憶があります。公園に隣接する「時とみどりの交流館」で魚佩のレプリカが観れます。ここでは百舌鳥・古市古墳群を紹介するビデオも観せていただきました。団体向けの貸し切り用のスペースとのことだったのですが、お客さんが誰もいなかったので無理をお願いしました。ありがとうございました。
峯ケ塚古墳の西側にある丘陵の尾根上に小口山古墳と小口山東古墳があります。小口山古墳は7世紀後半の小さな円墳で、巨石をくり抜いた横口式石槨が見つかって「河内軽里の堀抜石棺」として紹介された考古学史上著名な古墳です(知らなかった)。大きさは直径30mという情報と14mという情報が錯綜していますが、現況を見た感じでは30mもなさそうです。
小口山東古墳は目視ではその存在を確認できませんでしたが、おそらくここがそうだと思います。
古市古墳群は羽曳野丘陵の北端にあって、東側を北上する石川に向かって丘陵がなだらかに傾斜するところに立地していることを実感しました。この場所は大和川と石川が合流する地点でもあり、難波と大和や南河内を結ぶ要衝と言えます。大和から河内へ王権が移るに際しての墓域として相応しい場所でした。高台からはどんづる峯や二上山、遠くに葛城山が見えて眺めが良かったです。
これで古市古墳群探索の前半が終了です。
今回は、清寧陵(白髪山古墳)→小白髪山古墳→日本武尊白鳥陵(軽里大塚古墳)→峰ヶ塚古墳→小口山古墳→仁賢陵(ボケ山古墳)→青山古墳→浄元寺山古墳→墓山古墳→向墓山古墳、というルートを巡りました。駐車場をどうしようかと事前にいろいろと調べた結果、羽曳野市立生活文化情報センター「LICはびきの」の駐車場が2時間まで無料というのがわかったので、ここを起点に巡ることにしました。前半、後半の2回に分けて順に紹介します。
まず最初が河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)として第22代清寧天皇陵に治定される白髪山古墳です。
全長115メートルの前方後円墳。この古墳は前方部の幅が後円部直径の2倍もあって裾の広がったスカートのようなちょっと不思議な形の前方後円墳です。前方部が発達した形態は墳形の最終段階を示すものと考えられているそうですが、出土した埴輪などから6世紀前半の築造とされています。
白髪山古墳の名称は、清寧天皇が生まれながら白髪であったことから古事記で「白髪大倭根子命」、日本書紀では「白髪武広国押稚日本根子天皇」と名付けられたことに由来するそうです。白髪山古墳をぐるりと一周したあと、次は軽里大塚古墳へ行ったのですが、先に清寧陵(白髪山古墳)の陪塚とされている小白髪山古墳を紹介します。
白髪山古墳とは外環状線を挟んでいるのでわかりにくいですが、同一の軸線上に並んでいて同じ方向を向いている前方後円墳です。全長46mで幅10mほどの周濠がめぐり、墳丘には円筒埴輪が並べられていたそうなので、陪塚としては立派な古墳です。白髪山古墳とともに6世紀前半の築造と推定されています。
そして次に紹介するのが軽里大塚古墳。白鳥陵古墳とも呼ばれています。日本武尊の白鳥陵に治定されてる全長190mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されています。拝所までの参道の雰囲気がいい。
白鳥陵も一周しましたが、北側の周濠に沿って通っている道が竹内街道です。フェンス越しに周濠をのぞき込むとカモがびっくりしたのか一斉に飛び立ちました。
日本武尊の陵は全国に3カ所あって、伊勢の能褒野、大和の琴弾原、そしてここ河内の古市です。伊勢と大和は以前に行ったことがあるので、今回で日本武尊陵をコンプリートしたことになり、妙な達成感があります。
次が峯ケ塚古墳です。全長96m、出土した埴輪や横穴式石室の特徴から、5世紀末から6世紀初頃の築造とされる前方後円墳です。江戸時代には日本武尊白鳥陵に治定されていたこともあったそうで、また、允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあるそうです。
昨年12月に応神陵など古市古墳群の北部方面を探索した日、ここ峯ケ塚古墳では、造出し部の調査の様子が見れる現地説明会が開催されていたことをあとで知って少し残念に思ったことがあります。調査のあとに埋め戻して造出し部ふうに土が盛られています。
また、発掘調査により二重濠をもつ古墳であることが判明しています。古墳の規模が縮小していく古墳時代後期に二重濠を持つ古墳を築造できた被葬者は大王級の権力のある人物であったと推測されています。公園として整備されるにあたって周濠部分を水色の敷石、周堤部分を茶色の敷石にして頭の中で復元できるように配慮されているのが素晴らしいと思いました。写真右奥の方に見える水色の敷石が外濠を表しています。
羽曳野市のサイトによると、石室は盗掘を受けていたものの豊富な副葬品が見つかっています。銀や鹿角製などの装飾品を付けた大刀をはじめ、武器や武具、馬具など軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製の冠帽や帯金具、魚佩、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類などがあり、総数は3,500 点以上にのぼるそうです。たしか発表されたときは古代史ファンの間で大騒ぎになった記憶があります。公園に隣接する「時とみどりの交流館」で魚佩のレプリカが観れます。ここでは百舌鳥・古市古墳群を紹介するビデオも観せていただきました。団体向けの貸し切り用のスペースとのことだったのですが、お客さんが誰もいなかったので無理をお願いしました。ありがとうございました。
峯ケ塚古墳の西側にある丘陵の尾根上に小口山古墳と小口山東古墳があります。小口山古墳は7世紀後半の小さな円墳で、巨石をくり抜いた横口式石槨が見つかって「河内軽里の堀抜石棺」として紹介された考古学史上著名な古墳です(知らなかった)。大きさは直径30mという情報と14mという情報が錯綜していますが、現況を見た感じでは30mもなさそうです。
小口山東古墳は目視ではその存在を確認できませんでしたが、おそらくここがそうだと思います。
古市古墳群は羽曳野丘陵の北端にあって、東側を北上する石川に向かって丘陵がなだらかに傾斜するところに立地していることを実感しました。この場所は大和川と石川が合流する地点でもあり、難波と大和や南河内を結ぶ要衝と言えます。大和から河内へ王権が移るに際しての墓域として相応しい場所でした。高台からはどんづる峯や二上山、遠くに葛城山が見えて眺めが良かったです。
これで古市古墳群探索の前半が終了です。