古代日本国成立の物語

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◆神武東征最終決戦

2016年12月07日 | 古代日本国成立の物語(第一部)
 八咫烏の話から鴨氏、葛城氏、蘇我氏の考察で大きく回り道をしたが、話を神武東征に戻そう。八咫烏の道案内で無事に大和に入った神武は宇陀で兄猾・弟猾と対峙した。神武は弟猾を味方に引き込んで道臣命を遣わして兄猾を討った。その後、吉野へ出向いて吉野首の先祖である井光(いひか)、吉野国栖の始祖である磐押別(いわおしわく)の子、阿太の養鵜部(うかいら)の始祖である苞苴担(にえもつ)の子など吉野の先住民達と出会った。再び宇陀に戻った神武はいよいよ饒速日命率いる大和軍との全面戦争に挑む。神武軍は神武を総大将として道臣命(大伴氏)、多来目部(久米氏)、椎根津彦(紀氏)、高倉下・兄倉下・弟倉下(いずれも尾張氏)、八咫烏(鴨氏)に加え、味方にした弟猾、さらに磯城で味方に引き込んだ弟磯城らの軍勢である。対する大和軍は饒速日命のもと、長髄彦を総大将に各地の族長(八十梟帥)が要所要所を守備していた。神武軍はあの手この手で勝利を重ね、ついには総大将の長髄彦と向き合うことになった。

 長髄彦は大和に土着する一族の長であったと考える。神武が難波から大和に入ろうしたときに生駒西麓の孔舍衞坂で待ち伏せをして五瀬命に致命傷を与えた人物である。書紀には「長髄はもともと邑の名であり、それで人の名とした」とある。「ナガスネ」あるいは「ナカスネ」という地名を奈良盆地周辺に見つけることはできないが、書紀には神武がまさに孔舍衞坂で長髄彦と初戦を交える直前の記述に「乃還更欲東踰膽駒山而入中洲(そこで引き返して東の生駒山から中洲に入ろうとした)」とある。この「中洲(ナカス)」を充て、「長髄=中洲根」とする地名研究家である池田末則氏の考えに賛同する。「根」は敬称あるいは発音しやすくするための接尾語ということらしい。長髄彦は饒速日命がやってくる前は中洲、すなわち内つ国である大和の長であった。古事記では登美能那賀須泥毘古あるいは登美毘古と記されることから、その拠点は生駒東麓、矢田丘陵北端の鳥見の地であったと思われる。西の生駒山を越えれば孔舍衞坂である。

 神武軍と大和軍との最終決戦の地はこれまでの流れから考えると宇陀から西へ進んだ奈良盆地の入り口にあたる現在の桜井市あたりであろう。太陽を背にして戦うためにわざわざ熊野へ迂回し、宇陀で兄猾をち、吉野の先住民を探索し、宇陀の高倉山から磐余の邑を眺めたときにあふれるほどいた敵軍勢を打ち負かし、ようやく迎える決戦である。書紀にはなかなか決着がつかない状況になった時に金色に光り輝く鵄が飛んできて大和軍を幻惑させたとある。これがもとでこの地を鵄の邑と呼ぶようになり、それが訛って鳥見になったとある。現在の桜井市外山(トビ)、あるいは付近の鳥見山を指すと思われ、長髄彦が拠点とした鳥見とはまた別の場所になる。しかし、奈良盆地北西部を拠点とする長髄彦が神武軍との決戦において対極の場所にあたる盆地南東部に陣形を敷くということは、やはり長髄彦は中洲すなわち大和の国の長であったと言える。

 さて、大和に先住する長髄彦を従えた饒速日命とはいったい何者だったのだろうか。饒速日命を詳しくみたあと、魏志倭人伝と記紀神話の関係を解いていきたい。



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