徐福に関する伝承は、私が書籍やWebサイト(できるだけ公的な機関によるもの)で伝承の内容まで確認できたものだけでも、以下の通り、北は青森県から南は鹿児島県まで、日本海側、太平洋側を問わず日本全国で30か所以上になります。★印は徐福一行が上陸したという言い伝えが残るところです。(これを調べるだけで結構な時間がかかりました。)
・青森県 北津軽郡中泊町★
・秋田県 男鹿市
・東京都 八丈島★
・山梨県 富士吉田市、南都留郡山中湖村、南都留郡富士河口湖町
・神奈川県 藤沢市、秦野市
・愛知県 名古屋市熱田区、豊川市
・三重県 熊野市★
・和歌山県 新宮市★
・京都府 与謝郡伊根町★
・広島県 佐伯郡宮島町
・高知県 高岡郡佐川町、土佐市、須崎市★
・山口県 豊浦郡豊北町★、熊毛郡上関市
・福岡県 筑紫野市、八女市★
・佐賀県 佐賀市、佐賀郡諸富町★、武雄市、伊万里市★
・長崎県 松浦市
・宮崎県 宮崎市、延岡市★
・鹿児島県 いちき串木野市★、南さつま市
徐福は秦の時代の方士で、本名は徐市(じょふつ)といいます。中国にあっても伝説の人物とされていましたが、1982年に江蘇省で徐福生誕の地とされる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、現在では実在した人物とされています。また、徐福村の発見がきっかけとなって中国各地から徐福の末裔が名乗りを上げ、いくつもの徐氏一族の系図の存在が明らかになりました。
司馬遷の「史記」には徐福が4カ所に登場しますが、それによるとどうやら徐福は日本に2回やってきています。一度目は神薬を得ることができずに帰国して始皇帝の怒りを買います。それでも懲りずに二度目の派遣を認めさせて日本を再訪し、そのまま日本に住むことになったということです。日本各地の伝承はおそらくこの2回目の来訪が下地になっていると思われます。(そもそも1回目は費用だけせしめて出航しなかったという説もあります。)
また、徐福の時代から約500年後に書かれた「三国志」呉書の呉王伝・黄龍2年(230年)には、秦の時代に徐福が渡海した話とともに、このときに徐福と一緒に海を渡った人々の子孫のことが記されています。
以上のことから、日本における徐福伝説もまったくの作り話ではなく、何らかの史実や根拠に基づいて生まれたものと考えることができそうです。つまり、徐福は日本へ来たということです。ただし、すべての伝承地に徐福が来たわけではなく、船団からはぐれた船が漂着したとか、別動隊として派遣されたというケースもあったと思われます。なかには徐福と関係のない中国船が漂着したこともあったかも知れません。徐福一行の渡航ルートを上記伝承地の上陸地点(★印)から想定してみると、メインつまり本隊のルートは「佐賀→鹿児島→宮崎→高知→和歌山→三重→愛知→神奈川」という九州を西から回り込んで太平洋を進むルートが浮かび上がり、別動隊は「山口→京都→秋田→青森」という日本海ルートが見えてきます。
数千人の童男童女を上陸した各地で下船させて、その地で住まわせたことでしょう。前述の呉書には「代々続いて数万家になっていた」と書いてあります。つまり、西暦230年の時点で彼らの子孫が数万家の世帯を構成するまでに増えていたということです。彼らが様々な知識や技術を伝えたことが各地の伝承からわかっていますが、何よりも徐福は方士です。始皇帝の命を受けて不老不死の仙薬を求めてやってきたのです。当然のことながら、一行の中に多くの方士がいたことでしょう。そうです。徐福がやって来たことによって、日本の各地に神仙思想が知れ渡ることになったのです。秦の時代である前3世紀後半、つまり弥生時代前期終わり頃あるいは中期の初め頃、すでに神仙思想が日本に伝わっていたということ。そして約450年後の西暦230年、まさに卑弥呼の時代になると、徐福とともにやってきた方士たちの多数の子孫が各地で暮らしていたことになります。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
・青森県 北津軽郡中泊町★
・秋田県 男鹿市
・東京都 八丈島★
・山梨県 富士吉田市、南都留郡山中湖村、南都留郡富士河口湖町
・神奈川県 藤沢市、秦野市
・愛知県 名古屋市熱田区、豊川市
・三重県 熊野市★
・和歌山県 新宮市★
・京都府 与謝郡伊根町★
・広島県 佐伯郡宮島町
・高知県 高岡郡佐川町、土佐市、須崎市★
・山口県 豊浦郡豊北町★、熊毛郡上関市
・福岡県 筑紫野市、八女市★
・佐賀県 佐賀市、佐賀郡諸富町★、武雄市、伊万里市★
・長崎県 松浦市
・宮崎県 宮崎市、延岡市★
・鹿児島県 いちき串木野市★、南さつま市
徐福は秦の時代の方士で、本名は徐市(じょふつ)といいます。中国にあっても伝説の人物とされていましたが、1982年に江蘇省で徐福生誕の地とされる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、現在では実在した人物とされています。また、徐福村の発見がきっかけとなって中国各地から徐福の末裔が名乗りを上げ、いくつもの徐氏一族の系図の存在が明らかになりました。
司馬遷の「史記」には徐福が4カ所に登場しますが、それによるとどうやら徐福は日本に2回やってきています。一度目は神薬を得ることができずに帰国して始皇帝の怒りを買います。それでも懲りずに二度目の派遣を認めさせて日本を再訪し、そのまま日本に住むことになったということです。日本各地の伝承はおそらくこの2回目の来訪が下地になっていると思われます。(そもそも1回目は費用だけせしめて出航しなかったという説もあります。)
また、徐福の時代から約500年後に書かれた「三国志」呉書の呉王伝・黄龍2年(230年)には、秦の時代に徐福が渡海した話とともに、このときに徐福と一緒に海を渡った人々の子孫のことが記されています。
以上のことから、日本における徐福伝説もまったくの作り話ではなく、何らかの史実や根拠に基づいて生まれたものと考えることができそうです。つまり、徐福は日本へ来たということです。ただし、すべての伝承地に徐福が来たわけではなく、船団からはぐれた船が漂着したとか、別動隊として派遣されたというケースもあったと思われます。なかには徐福と関係のない中国船が漂着したこともあったかも知れません。徐福一行の渡航ルートを上記伝承地の上陸地点(★印)から想定してみると、メインつまり本隊のルートは「佐賀→鹿児島→宮崎→高知→和歌山→三重→愛知→神奈川」という九州を西から回り込んで太平洋を進むルートが浮かび上がり、別動隊は「山口→京都→秋田→青森」という日本海ルートが見えてきます。
数千人の童男童女を上陸した各地で下船させて、その地で住まわせたことでしょう。前述の呉書には「代々続いて数万家になっていた」と書いてあります。つまり、西暦230年の時点で彼らの子孫が数万家の世帯を構成するまでに増えていたということです。彼らが様々な知識や技術を伝えたことが各地の伝承からわかっていますが、何よりも徐福は方士です。始皇帝の命を受けて不老不死の仙薬を求めてやってきたのです。当然のことながら、一行の中に多くの方士がいたことでしょう。そうです。徐福がやって来たことによって、日本の各地に神仙思想が知れ渡ることになったのです。秦の時代である前3世紀後半、つまり弥生時代前期終わり頃あるいは中期の初め頃、すでに神仙思想が日本に伝わっていたということ。そして約450年後の西暦230年、まさに卑弥呼の時代になると、徐福とともにやってきた方士たちの多数の子孫が各地で暮らしていたことになります。
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