2015年11月3日、道後温泉を出発、しまなみ海道で瀬戸内海を渡り、広島県廿日市にある安芸国一の宮、厳島神社へ。公式表記は「嚴島神社」、祭神は宗像三女神である市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の三柱。
以下は神社ホームページにある由緒。
当社の御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまのはら)で剣玉の御誓(うけい)をされた時に御出現になった神々で、御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けられた。
宮島に御鎮座地を探されるにあたり、この島を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った。鞍職は大神様が高天原から連れてきた神鴉(ごからす)の先導のもと、御祭神と共に島の浦々を巡り、海水の差し引きする現在地を選んで御社殿を建てたのは、推古天皇御即位の年(593年)であると伝えられる。
その後安芸守となった平清盛(たいらのきよもり)が当社を篤く崇敬し、仁安3年(1168年)に寝殿造の様式を取り入れた御社殿に修造した。清盛の官位が上がるにつれ平家一門のみならず、承安4年(1174年)に、後白河(ごしらかわ)法皇の御幸(ごこう)、治承4年(1180)3月と9月に高倉上皇の御幸(ごこう)があるなど、多くの皇族・貴族が参詣され、都の文化がもたらされた。
当社に対する崇敬は、平家から源氏の世になっても変わることなく、又時代が移り室町時代の足利尊氏や義満、戦国時代の大内家、毛利家などからも崇拝された。
宮島口桟橋からフェリーで対岸の宮島桟橋へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/84/f67ea47b3196a3df328dafb1c9eda7b3.jpg)
普段は海の中にある大鳥居も干潮時はこの通り。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/96/0ca372b67c577baea6b2225a98a42459.jpg)
近くで見れば大迫力。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/19/9e45b999663ab833f6f6f14b6ef1831e.jpg)
海側から見た扁額と神社側から見た扁額の表記が違うと聞いていたので確認。
海側がこれ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/69/bd439cb2f978a4766325c1d82104efcb.jpg)
神社がこれ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/55/27647d32edbbc0d3bc918e8d82240431.jpg)
東回廊からの大鳥居。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/24/a15e52b14da42ee4e6096d896966e49e.jpg)
鏡の池。清水が湧き出ていて、干潮時に現れて手鏡ように見えることからこの名がついたという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/a1/a74c66a2d24e2a0e3f524d15b9ae7bc1.jpg)
なぜこの地に宗像三女神が祀られるようになったのか、神社ホームページの由緒からはうかがい知れない。日本書紀には神武天皇が東征の際に安芸に立ち寄って埃宮を設けたことが記されていることから安芸は神武の味方集団が居住する地であったと思われる。一方で宗像三女神は出雲の素戔嗚尊とつながる北九州の神、すなわち天照大神からつながる天孫族である神武王朝と敵対する集団の神である。天孫族の味方集団の地に敵集団の神が祀られるのはどうしてだろうか。その違和感からかもしれないが、この神社には何か作為的な信仰を感じてしまった。
今回は諸般の事情で行程に入れなかった磐座のある弥山、安芸の埃宮と考える境外摂社の大元神社。宮島再訪の機会があれば必ず訪れたい。
↓↓↓↓↓↓↓電子出版しました。ぜひご覧ください。
以下は神社ホームページにある由緒。
当社の御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)と素盞鳴尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまのはら)で剣玉の御誓(うけい)をされた時に御出現になった神々で、御皇室の安泰や国家鎮護、また海上の守護神として古くから崇信を受けられた。
宮島に御鎮座地を探されるにあたり、この島を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った。鞍職は大神様が高天原から連れてきた神鴉(ごからす)の先導のもと、御祭神と共に島の浦々を巡り、海水の差し引きする現在地を選んで御社殿を建てたのは、推古天皇御即位の年(593年)であると伝えられる。
その後安芸守となった平清盛(たいらのきよもり)が当社を篤く崇敬し、仁安3年(1168年)に寝殿造の様式を取り入れた御社殿に修造した。清盛の官位が上がるにつれ平家一門のみならず、承安4年(1174年)に、後白河(ごしらかわ)法皇の御幸(ごこう)、治承4年(1180)3月と9月に高倉上皇の御幸(ごこう)があるなど、多くの皇族・貴族が参詣され、都の文化がもたらされた。
当社に対する崇敬は、平家から源氏の世になっても変わることなく、又時代が移り室町時代の足利尊氏や義満、戦国時代の大内家、毛利家などからも崇拝された。
宮島口桟橋からフェリーで対岸の宮島桟橋へ。
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普段は海の中にある大鳥居も干潮時はこの通り。
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近くで見れば大迫力。
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海側から見た扁額と神社側から見た扁額の表記が違うと聞いていたので確認。
海側がこれ。
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神社がこれ。
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東回廊からの大鳥居。
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鏡の池。清水が湧き出ていて、干潮時に現れて手鏡ように見えることからこの名がついたという。
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なぜこの地に宗像三女神が祀られるようになったのか、神社ホームページの由緒からはうかがい知れない。日本書紀には神武天皇が東征の際に安芸に立ち寄って埃宮を設けたことが記されていることから安芸は神武の味方集団が居住する地であったと思われる。一方で宗像三女神は出雲の素戔嗚尊とつながる北九州の神、すなわち天照大神からつながる天孫族である神武王朝と敵対する集団の神である。天孫族の味方集団の地に敵集団の神が祀られるのはどうしてだろうか。その違和感からかもしれないが、この神社には何か作為的な信仰を感じてしまった。
今回は諸般の事情で行程に入れなかった磐座のある弥山、安芸の埃宮と考える境外摂社の大元神社。宮島再訪の機会があれば必ず訪れたい。
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