方保田東原遺跡の次は歴史公園鞠智城。 「鞠智」は通常は「きくち」と読みますが、もともと「くくち」と読まれていたそうです。 鞠智城は熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる標高90~170メートルほどの米原台地に築かれた古代の山城です。公式サイトによると、鞠智城は東アジア情勢が緊迫した7世紀後半に大和政権が築いた山城で、663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗した大和政権が日本列島への侵攻に備えて西日本各地に築いた城のひとつ、となっています。
663年の白村江の戦いでの敗戦あとの「日本書紀」の記述をみると、664年に対馬・壱岐・筑紫国に防人と烽(とぶひ=狼煙)を配備、筑紫国に水城を築き、さらに665年には長門国に城を築き、筑紫国には大野城と基肄(きい)城を築城、続いて667年に大和国に高安城、讃岐国に屋嶋城、対馬国に金田城を築いた、とある。唐・新羅軍が対馬海峡を渡って瀬戸内海から都に襲来してくることに備えた防衛戦略である。さらに念には念をということで飛鳥から近江大津京に都を移し、翌年に中大兄皇子は天智天皇として即位した。
なるほど、よくわかる話だけど、ちょっと待てよ。一連の防衛網構築に鞠智城は登場しないではないか。しかし公式サイトにはいかにもこのときに鞠智城が築かれたように書いてある。しかもこれは通説とされている。実は「続日本紀」に、698年に大宰府に命じて大野、基肄、鞠智の三城を修繕させた、という記述があるのです。 大野城、基肄城は665年に築城された城なので、それらと一緒に修繕するように命じたということは、鞠智城の築城も同時期であったろうと推測され、さらに発掘調査の結果、少なくとも7世紀後半から10世紀中頃まで城が存在したことが判明しているという。しかし、この城の立地も含めて考えるとどうも納得がいかない。
大野城、 基肄城は博多湾に上陸されたときの防衛拠点になるのはよくわかるけど、この鞠智城は博多湾からあまりに遠すぎて直接的な防衛機能は果たしえない。そこでこの城は前線の大野城・基肄城、加えて大宰府への武器や食料の補給基地の機能を有した、という考えが出てきた。うーん、それでもかなり無理があるぞ。補給のためには1000メートル近い山々が連なる山岳地帯を越えていかなければならないし、それ以上に単純に遠すぎるのだ。あえて言えば、この城は有明海から菊池川流域に上陸されたときの防衛基地であると考えればまだ少し納得がいく。しかし、敵の立場になれば菊池川流域に上陸することにほとんど意味はないのだ。有明海への侵入においては筑後川流域に上陸するだろう。その場合は少し距離が離れているが基肄城が機能することになるのだ。
これらの状況から私は次のように考えている。鞠智城は唐・新羅軍の本土襲来に備えて大野城や基肄城とともに新たに築かれた城ではなく、ここには古くから何らかの施設が存在しており、大和政権はその施設を再利用しようとして改修させた。日本書紀に築城の記事がないにもかかわらず、唐突に続日本紀に改修の記事が表れるのはこのためだ。そしてその改修は689年のことであり、すでに唐・新羅軍が侵攻してくる恐怖は消え去っていた。改修の目的はおそらく九州中南部を統治するための出先機関としての活用ではないだろうか。では、この地に古くからあった施設とは何であろうか。
ここに来る前に方保田東原遺跡を訪ねたが、そこからこの鞠智城までは距離にして10キロほど。方保田東原遺跡の立地が狗奴国の北限域にあたると考える私は、この鞠智城の前身である施設も狗奴国と関係があるのではないかと考える。 方保田東原遺跡は吉野ヶ里遺跡に匹敵する規模をもつ集落遺跡で、しかも鉄器の生産設備を備えていたことから、狗奴国に属する大きな権力集団の拠点であった可能性が高い。菊池川流域には方保田東原遺跡のほか、うてな遺跡、小野崎遺跡など弥生時代の大規模集落遺跡が出ており、狗奴国はこれらのムラを統治するために鞠智城の場所に出先機関を置いた。そして弥生時代後期、ここを拠点にして邪馬台国を盟主とする倭国との戦争に臨んだのだ。鞠智城の前身の施設は狗奴国の出先統治機関であるとともに対倭国戦争における前線基地であった、と考えたい。
しかし、残念なことに弥生時代にさかのぼる遺物や遺構は発掘されておらず、すべての遺物、遺構は7世紀以降の施設の存在を物語るのみである。私としてはこれらの遺構のさらに下に弥生時代の遺構があるだろう、と想像を膨らませるばかりである。ただ、いずれにせよ、この鞠智城は白村江の戦いや唐・新羅軍の侵攻とは関係のない施設である。
ちなみにこんな説もあり、私もかなり近い考えを持っています。
鞠智をククチと読むことと、狗奴国の王に仕える官の名が狗古智卑狗(クコチヒク)であることの関連から、この肥後国(熊本)がまさに狗奴国そのものであった、とする考えです。狗古智卑狗=鞠智彦(ククチヒコ)、すなわち鞠智を治めた男、となるわけです。「鞠智」はその後に「菊池」と改字されて現在の地名になっています。また、ここは熊襲の地でもあることから、熊襲と狗奴国の関連も同時に説かれます。私は南九州一帯(大隅、薩摩、日向の南)を初期の狗奴国に比定し、その狗奴国がこの阿蘇周辺まで北進してきて領土を拡大した、そしてその結果、すぐ北側の倭国とぶつかって戦争に突入することになったと考えています。
「熊本県指定史跡 鞠智城跡」の碑。
日本の古代山城で唯一の八角形の建物跡が4基も見つかった。これは朝鮮半島の山城に見られる様式である。
貯水池跡と思われるところから百済系と考えられる銅造菩薩立像も出ており、八角形の建物と合わせて百済技術者による建築と考えられている。
空撮写真と全体図。
周囲の長さ3.5km、面積55haの規模で、72棟の建物跡、城門の門礎石、版築工法による土塁跡などが見つかった。
温故創生館という鞠智城を学習するための施設があって入館料は無料であったが、時間も限られていてワンコを連れていたこともあって入らなかった。今から思えば、少しだけでも見ておけばよかったかも。
温故創生館の前にあった像。
中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城を指導したといわれる百済の貴族、東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、北側には一対の鳳凰が配置されている。台座には万葉集からの防人の歌のレリーフまであって、全く意味のわからない寄せ集めの像だ。
ここは見学というよりも広い芝生の公園と思って散歩気分で来るのがいいと思います。ワンコを連れて入ってはいけないようですが。
663年の白村江の戦いでの敗戦あとの「日本書紀」の記述をみると、664年に対馬・壱岐・筑紫国に防人と烽(とぶひ=狼煙)を配備、筑紫国に水城を築き、さらに665年には長門国に城を築き、筑紫国には大野城と基肄(きい)城を築城、続いて667年に大和国に高安城、讃岐国に屋嶋城、対馬国に金田城を築いた、とある。唐・新羅軍が対馬海峡を渡って瀬戸内海から都に襲来してくることに備えた防衛戦略である。さらに念には念をということで飛鳥から近江大津京に都を移し、翌年に中大兄皇子は天智天皇として即位した。
なるほど、よくわかる話だけど、ちょっと待てよ。一連の防衛網構築に鞠智城は登場しないではないか。しかし公式サイトにはいかにもこのときに鞠智城が築かれたように書いてある。しかもこれは通説とされている。実は「続日本紀」に、698年に大宰府に命じて大野、基肄、鞠智の三城を修繕させた、という記述があるのです。 大野城、基肄城は665年に築城された城なので、それらと一緒に修繕するように命じたということは、鞠智城の築城も同時期であったろうと推測され、さらに発掘調査の結果、少なくとも7世紀後半から10世紀中頃まで城が存在したことが判明しているという。しかし、この城の立地も含めて考えるとどうも納得がいかない。
大野城、 基肄城は博多湾に上陸されたときの防衛拠点になるのはよくわかるけど、この鞠智城は博多湾からあまりに遠すぎて直接的な防衛機能は果たしえない。そこでこの城は前線の大野城・基肄城、加えて大宰府への武器や食料の補給基地の機能を有した、という考えが出てきた。うーん、それでもかなり無理があるぞ。補給のためには1000メートル近い山々が連なる山岳地帯を越えていかなければならないし、それ以上に単純に遠すぎるのだ。あえて言えば、この城は有明海から菊池川流域に上陸されたときの防衛基地であると考えればまだ少し納得がいく。しかし、敵の立場になれば菊池川流域に上陸することにほとんど意味はないのだ。有明海への侵入においては筑後川流域に上陸するだろう。その場合は少し距離が離れているが基肄城が機能することになるのだ。
これらの状況から私は次のように考えている。鞠智城は唐・新羅軍の本土襲来に備えて大野城や基肄城とともに新たに築かれた城ではなく、ここには古くから何らかの施設が存在しており、大和政権はその施設を再利用しようとして改修させた。日本書紀に築城の記事がないにもかかわらず、唐突に続日本紀に改修の記事が表れるのはこのためだ。そしてその改修は689年のことであり、すでに唐・新羅軍が侵攻してくる恐怖は消え去っていた。改修の目的はおそらく九州中南部を統治するための出先機関としての活用ではないだろうか。では、この地に古くからあった施設とは何であろうか。
ここに来る前に方保田東原遺跡を訪ねたが、そこからこの鞠智城までは距離にして10キロほど。方保田東原遺跡の立地が狗奴国の北限域にあたると考える私は、この鞠智城の前身である施設も狗奴国と関係があるのではないかと考える。 方保田東原遺跡は吉野ヶ里遺跡に匹敵する規模をもつ集落遺跡で、しかも鉄器の生産設備を備えていたことから、狗奴国に属する大きな権力集団の拠点であった可能性が高い。菊池川流域には方保田東原遺跡のほか、うてな遺跡、小野崎遺跡など弥生時代の大規模集落遺跡が出ており、狗奴国はこれらのムラを統治するために鞠智城の場所に出先機関を置いた。そして弥生時代後期、ここを拠点にして邪馬台国を盟主とする倭国との戦争に臨んだのだ。鞠智城の前身の施設は狗奴国の出先統治機関であるとともに対倭国戦争における前線基地であった、と考えたい。
しかし、残念なことに弥生時代にさかのぼる遺物や遺構は発掘されておらず、すべての遺物、遺構は7世紀以降の施設の存在を物語るのみである。私としてはこれらの遺構のさらに下に弥生時代の遺構があるだろう、と想像を膨らませるばかりである。ただ、いずれにせよ、この鞠智城は白村江の戦いや唐・新羅軍の侵攻とは関係のない施設である。
ちなみにこんな説もあり、私もかなり近い考えを持っています。
鞠智をククチと読むことと、狗奴国の王に仕える官の名が狗古智卑狗(クコチヒク)であることの関連から、この肥後国(熊本)がまさに狗奴国そのものであった、とする考えです。狗古智卑狗=鞠智彦(ククチヒコ)、すなわち鞠智を治めた男、となるわけです。「鞠智」はその後に「菊池」と改字されて現在の地名になっています。また、ここは熊襲の地でもあることから、熊襲と狗奴国の関連も同時に説かれます。私は南九州一帯(大隅、薩摩、日向の南)を初期の狗奴国に比定し、その狗奴国がこの阿蘇周辺まで北進してきて領土を拡大した、そしてその結果、すぐ北側の倭国とぶつかって戦争に突入することになったと考えています。
「熊本県指定史跡 鞠智城跡」の碑。
日本の古代山城で唯一の八角形の建物跡が4基も見つかった。これは朝鮮半島の山城に見られる様式である。
貯水池跡と思われるところから百済系と考えられる銅造菩薩立像も出ており、八角形の建物と合わせて百済技術者による建築と考えられている。
空撮写真と全体図。
周囲の長さ3.5km、面積55haの規模で、72棟の建物跡、城門の門礎石、版築工法による土塁跡などが見つかった。
温故創生館という鞠智城を学習するための施設があって入館料は無料であったが、時間も限られていてワンコを連れていたこともあって入らなかった。今から思えば、少しだけでも見ておけばよかったかも。
温故創生館の前にあった像。
中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城を指導したといわれる百済の貴族、東側に八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女、北側には一対の鳳凰が配置されている。台座には万葉集からの防人の歌のレリーフまであって、全く意味のわからない寄せ集めの像だ。
ここは見学というよりも広い芝生の公園と思って散歩気分で来るのがいいと思います。ワンコを連れて入ってはいけないようですが。
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