次に継体の母方、すなわち振媛の系図を少し詳しく見てみると、冒頭の伊久牟尼利比古大王(いくむねりひこのおおきみ)は活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらのみこと)、すなわち第11代垂仁天皇であるとされ、その七世孫として布利比弥命の名が見え、これは振媛を指すであろうから、書紀の「振媛は活目天皇の七世孫である」という記述に合致する。
さらに、伊久牟尼利比古大王に続く伊波都久和希は書紀垂仁紀に見える磐衝別命(いわつくわけのみこと)および古事記垂仁段にある石衝別王と一致し、前者では三尾君の祖、後者では羽咋君および三尾君の祖となっている。また、書紀景行紀には三尾氏磐城別なる人物が登場する。磐衝別命の子であるとは記していないが、三尾氏の人物であることと、その音が似ていることから、伊波都久和希の子である伊波智和希であることが想定される。
以上より、上宮記一云の系図にある継体の母、布利比弥命(振媛)の父方に見える最初の三代は記紀の記述に一致することから、振媛の父方は垂仁天皇の後裔であるとともに、三尾氏の後裔であることがわかる。さらに振媛の母である阿那余比弥(あなにひめ)は余奴臣(よぬのおみ)の祖とある。この余奴臣は江沼氏を指すというのが通説であるので、継体の母である振媛は、父系は三尾氏で母系が江沼氏という系譜になる。
江沼氏は加賀国江沼郡を拠点とする氏族である。加賀国は823年に越前国から江沼・加賀の2郡を割いて設置された国であり、加賀国江沼郡は振媛がいたとされる越前国坂井郡と境界を接している。
さて、幼い継体を抱いて故郷に戻った振媛であるが、その場所は越前国高向である。坂井郡にあったと考えられる高向は現在の福井県坂井市丸岡町のあたりとされ、高向神社が鎮座する。福井県神社庁によると継体天皇と振媛が祭神となっているが、丸岡町などによると応神天皇と振媛を祭神としている。この地が振媛の故郷ということになるのだろうが、それは父方の三尾氏のゆかりなのか、それとも母方の江沼氏なのか。
江沼氏の拠点である加賀国江沼郡は北に20キロほどのところであり、9世紀の分国前は同じ越前国ということになるので、5世紀後半あるいは6世紀前半の頃には江沼氏とゆかりのある土地であったとしても不思議ではない。
では一方の三尾氏についてはどうであろうか。三尾氏の本拠地については諸説ある。有力な説は、彦主人王の別業があったとされる近江国高嶋郡とする説で三尾郷や水尾神社がある。また、733年の「山背国愛宕郡某郷計帳」に「越前国坂井郡水尾郷」の記載があることや「延喜式」の北陸道の駅名のなかに「三尾」が存在していることから越前国坂井郡という説も出されている。さらには、もともとは越前であったのだが継体即位頃には近江に移っていたとする説や、三尾氏は近江国を拠点とするが越前の三国氏と近しい関係あるいは同族関係にあったとする説もある。
記紀によると、三尾氏の祖とされる磐衝別命は、第11代垂仁天皇と山背大国不遅(やましろのおおくにのふち)の娘である綺戸辺(かにはたとべ)との間に生まれた第十皇子である。山背大国不遅は綺戸辺の父親なのか母親なのかはわからないが、山背を名に持っていることから山背国にいた人物と言えよう。また書紀は垂仁天皇が山背に出かけた際に綺戸辺を後宮に召し入れたとも記す。磐衝別命は山背にゆかりがあることがわかったが、磐衝別命あるいはその後裔はその後、どうなったのであろうか。
滋賀県高島市に磐衝別命を祀る水尾(みお)神社がある。創建は不詳であるが、天平神護元年(765年)に三尾神に13戸の神封が給されたことが文献に見える。古くから三尾の神である磐衝別命を祀る神社が近江国高嶋郡にあったことだけは確かだ。その裏山には拝戸古墳群と呼ばれる30基ほどの6世紀の群集墳がある。
さらに、石川県羽咋市には石衝別命を祀る羽咋神社があり、ここは相殿神として子の石城別命も祀っている。一帯に疫病が流行り、盗賊が横行、さらには大きな毒鳥が住民を苦しめていたとき、勅命で石衝別命が派遣されたという。境内には石衝別命の墓とされる大塚古墳、石城別王の墓とされる大谷塚古墳がある。前者は全長100メートル前後の前方後円墳で5世紀中頃の築造とされ、後者は45メートルの円墳であり、いずれも陵墓として宮内庁が管理している。
ここからはまったくの想像であるが、垂仁天皇の皇子である磐衝別命は自身の故地である大和や山背を離れて近江国高嶋郡を拠点にしていたのではないだろうか。その後裔が三尾氏となり、その地が三尾と呼ばれるようになった。また、その三尾氏の一部が近江から越前、さらに北上して能登の羽咋まで移動し、そこで勢力基盤を築いて羽咋氏となった。そのために越前にも三尾や水尾の地名が残っているのだ。羽咋神社に伝わる石衝別命が勅命で派遣されたという伝承は三尾氏が移動してきたことの反映ではないだろうか。こう考えれば古事記が石衝別王を羽咋君および三尾君の祖としているのも頷ける。福井県坂井市にある大湊神社にはかつて磐衝別命を祭神として祀っていた古い記録があるそうだ。近江、越前、能登にある三尾にまつわる地名や磐衝別命を祀る神社の存在は三尾氏の移動を物語っているのではないだろうか。
彦主人王の薨去後、振媛が幼い継体を連れて故郷の越前高向へ戻ったことが書紀に記されることは先述したが、上宮記にも同様のシーンの記述があり、そこでは「親族のいないところにいて独りで皇子を育てるのは難しい。先祖の三国命のいる高向村に下がります」と振媛は言っている。振媛の父方が三尾氏であるにもかかわらず、近江の三尾には親族がいないというのも、同じ三尾氏であっても振媛自身は近江とは交流がなかったと考えれば理解される。
先代旧事本紀の国造本紀には三尾君の祖である石衝別命の子孫が加我国造や羽咋国造を任じられたことが記されるが、本拠地の近江を出て北上した三尾氏の一派が加賀や羽咋のあたりに一定の勢力を持っていたことの証とも言えるだろう。
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さらに、伊久牟尼利比古大王に続く伊波都久和希は書紀垂仁紀に見える磐衝別命(いわつくわけのみこと)および古事記垂仁段にある石衝別王と一致し、前者では三尾君の祖、後者では羽咋君および三尾君の祖となっている。また、書紀景行紀には三尾氏磐城別なる人物が登場する。磐衝別命の子であるとは記していないが、三尾氏の人物であることと、その音が似ていることから、伊波都久和希の子である伊波智和希であることが想定される。
以上より、上宮記一云の系図にある継体の母、布利比弥命(振媛)の父方に見える最初の三代は記紀の記述に一致することから、振媛の父方は垂仁天皇の後裔であるとともに、三尾氏の後裔であることがわかる。さらに振媛の母である阿那余比弥(あなにひめ)は余奴臣(よぬのおみ)の祖とある。この余奴臣は江沼氏を指すというのが通説であるので、継体の母である振媛は、父系は三尾氏で母系が江沼氏という系譜になる。
江沼氏は加賀国江沼郡を拠点とする氏族である。加賀国は823年に越前国から江沼・加賀の2郡を割いて設置された国であり、加賀国江沼郡は振媛がいたとされる越前国坂井郡と境界を接している。
さて、幼い継体を抱いて故郷に戻った振媛であるが、その場所は越前国高向である。坂井郡にあったと考えられる高向は現在の福井県坂井市丸岡町のあたりとされ、高向神社が鎮座する。福井県神社庁によると継体天皇と振媛が祭神となっているが、丸岡町などによると応神天皇と振媛を祭神としている。この地が振媛の故郷ということになるのだろうが、それは父方の三尾氏のゆかりなのか、それとも母方の江沼氏なのか。
江沼氏の拠点である加賀国江沼郡は北に20キロほどのところであり、9世紀の分国前は同じ越前国ということになるので、5世紀後半あるいは6世紀前半の頃には江沼氏とゆかりのある土地であったとしても不思議ではない。
では一方の三尾氏についてはどうであろうか。三尾氏の本拠地については諸説ある。有力な説は、彦主人王の別業があったとされる近江国高嶋郡とする説で三尾郷や水尾神社がある。また、733年の「山背国愛宕郡某郷計帳」に「越前国坂井郡水尾郷」の記載があることや「延喜式」の北陸道の駅名のなかに「三尾」が存在していることから越前国坂井郡という説も出されている。さらには、もともとは越前であったのだが継体即位頃には近江に移っていたとする説や、三尾氏は近江国を拠点とするが越前の三国氏と近しい関係あるいは同族関係にあったとする説もある。
記紀によると、三尾氏の祖とされる磐衝別命は、第11代垂仁天皇と山背大国不遅(やましろのおおくにのふち)の娘である綺戸辺(かにはたとべ)との間に生まれた第十皇子である。山背大国不遅は綺戸辺の父親なのか母親なのかはわからないが、山背を名に持っていることから山背国にいた人物と言えよう。また書紀は垂仁天皇が山背に出かけた際に綺戸辺を後宮に召し入れたとも記す。磐衝別命は山背にゆかりがあることがわかったが、磐衝別命あるいはその後裔はその後、どうなったのであろうか。
滋賀県高島市に磐衝別命を祀る水尾(みお)神社がある。創建は不詳であるが、天平神護元年(765年)に三尾神に13戸の神封が給されたことが文献に見える。古くから三尾の神である磐衝別命を祀る神社が近江国高嶋郡にあったことだけは確かだ。その裏山には拝戸古墳群と呼ばれる30基ほどの6世紀の群集墳がある。
さらに、石川県羽咋市には石衝別命を祀る羽咋神社があり、ここは相殿神として子の石城別命も祀っている。一帯に疫病が流行り、盗賊が横行、さらには大きな毒鳥が住民を苦しめていたとき、勅命で石衝別命が派遣されたという。境内には石衝別命の墓とされる大塚古墳、石城別王の墓とされる大谷塚古墳がある。前者は全長100メートル前後の前方後円墳で5世紀中頃の築造とされ、後者は45メートルの円墳であり、いずれも陵墓として宮内庁が管理している。
ここからはまったくの想像であるが、垂仁天皇の皇子である磐衝別命は自身の故地である大和や山背を離れて近江国高嶋郡を拠点にしていたのではないだろうか。その後裔が三尾氏となり、その地が三尾と呼ばれるようになった。また、その三尾氏の一部が近江から越前、さらに北上して能登の羽咋まで移動し、そこで勢力基盤を築いて羽咋氏となった。そのために越前にも三尾や水尾の地名が残っているのだ。羽咋神社に伝わる石衝別命が勅命で派遣されたという伝承は三尾氏が移動してきたことの反映ではないだろうか。こう考えれば古事記が石衝別王を羽咋君および三尾君の祖としているのも頷ける。福井県坂井市にある大湊神社にはかつて磐衝別命を祭神として祀っていた古い記録があるそうだ。近江、越前、能登にある三尾にまつわる地名や磐衝別命を祀る神社の存在は三尾氏の移動を物語っているのではないだろうか。
彦主人王の薨去後、振媛が幼い継体を連れて故郷の越前高向へ戻ったことが書紀に記されることは先述したが、上宮記にも同様のシーンの記述があり、そこでは「親族のいないところにいて独りで皇子を育てるのは難しい。先祖の三国命のいる高向村に下がります」と振媛は言っている。振媛の父方が三尾氏であるにもかかわらず、近江の三尾には親族がいないというのも、同じ三尾氏であっても振媛自身は近江とは交流がなかったと考えれば理解される。
先代旧事本紀の国造本紀には三尾君の祖である石衝別命の子孫が加我国造や羽咋国造を任じられたことが記されるが、本拠地の近江を出て北上した三尾氏の一派が加賀や羽咋のあたりに一定の勢力を持っていたことの証とも言えるだろう。
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