継体天皇の出自は越前か、それとも近江か。ここでは記紀および上宮記という史料にもとづいてその出自について確認しておきたい。
日本書紀によると、応神天皇の五世孫である男大迹天皇(継体天皇)は近江で生まれて越前で育ったという。父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)で、母は垂仁天皇の七世孫の振媛(ふるひめ)である。彦主人王は、振媛が容姿端麗であることを聞き、近江国高嶋郡の三尾の別邸から使者を派遣して、越前国の三国の坂中井(さかない)より振媛を迎えて継体天皇をもうけた。
三国の坂中井は越前国坂井郡とされている。しかし、天皇が幼いときに彦主人王が亡くなり、取り残された振媛は、故郷を遠く離れたところで満足に養育できない状況を嘆き、故郷である越前の高向に帰って親の面倒を見ながら幼い天皇を養育することにした。その後、成人した天皇は、人を愛し、賢人を敬い、心が豊かな大人へと成長した。
一方、古事記では、武烈天皇が崩御して皇位を継ぐべき皇子がいなくなったとき、応神天皇五世孫の袁本杼命(継体天皇)が近江国より迎え入れられた、とあるのみだ。
日本書紀では近江で生まれたものの、その大半を越前で過ごしたことになり、古事記によると継体は少なくとも即位前は近江にいた。そして越前で過ごしたことがあるかどうかは触れられていない。
これら記紀のほかに継体天皇の出自を確認するために利用される史料に「上宮記一云(じょうぐうきいちにいう)」というのがある。上宮記というからには聖徳太子に関する史料と考えられているが、上宮記そのものはすでに存在しておらず逸文が残るのみとなっている。鎌倉時代末期に卜部兼方が著した「釈日本紀」という日本書紀の注釈書にその一部が引用されている。
そこには継体の父方および母方の系譜が具体的に記されており、それを系図にすると次のようになる。
これによると、継体天皇の父方は凡牟都和希王→若野毛二俣王→大郎子(意富富等王)→乎非王と続くが、これが古事記の応神天皇段にある系譜、品陀天皇→若野毛二俣王→大郎子(意富富杼王)と酷似しており、凡牟都和希王が品陀天皇、すなわち応神天皇とみなすことができる。前述の通り、古事記は武烈天皇段の最後に、品太天皇の五世孫の袁本杼命(継体天皇)を近江から迎えたとも記す。また日本書紀では、継体天皇である男大迹天皇が応神天皇である誉田天皇の五世孫であり彦主人王の子であることが記される。さらに応神天皇の皇子として稚野毛二派皇の名が見え、これは上宮記や古事記に見える若野毛二俣王と同一と思われる。
上宮記は使用する文字や文体などから記紀よりも成立が古い、具体的には推古天皇から天武天皇の間であろうと考えられている。その上宮記に記載されていたと思われる継体天皇に関する系譜は記紀の記述とも矛盾がなく、記紀よりも詳しい内容が記されているために記紀を補完する史料として活用されている。この前提にたって継体天皇の系譜を整理すると次のようになる。
上宮記 応神天皇→若野毛二俣王 →大郎子(意富富等王)→乎非王→汗斯王 →継体天皇
古事記 応神天皇→若野毛二俣王 →大郎子(意富富杼王)→〇〇〇→〇〇〇 →継体天皇
日本書紀 応神天皇→稚野毛二派皇子→〇〇〇〇〇〇〇〇〇 →〇〇〇→彦主人王→継体天皇
古事記によれば、大郎子(意富富杼王)は、三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君の祖になっている(三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君とする説もある)。これは継体天皇がこれらの氏族と同じ先祖を持つことを意味するが、三国、息長、坂田の名があることに留意される。
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日本書紀によると、応神天皇の五世孫である男大迹天皇(継体天皇)は近江で生まれて越前で育ったという。父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)で、母は垂仁天皇の七世孫の振媛(ふるひめ)である。彦主人王は、振媛が容姿端麗であることを聞き、近江国高嶋郡の三尾の別邸から使者を派遣して、越前国の三国の坂中井(さかない)より振媛を迎えて継体天皇をもうけた。
三国の坂中井は越前国坂井郡とされている。しかし、天皇が幼いときに彦主人王が亡くなり、取り残された振媛は、故郷を遠く離れたところで満足に養育できない状況を嘆き、故郷である越前の高向に帰って親の面倒を見ながら幼い天皇を養育することにした。その後、成人した天皇は、人を愛し、賢人を敬い、心が豊かな大人へと成長した。
一方、古事記では、武烈天皇が崩御して皇位を継ぐべき皇子がいなくなったとき、応神天皇五世孫の袁本杼命(継体天皇)が近江国より迎え入れられた、とあるのみだ。
日本書紀では近江で生まれたものの、その大半を越前で過ごしたことになり、古事記によると継体は少なくとも即位前は近江にいた。そして越前で過ごしたことがあるかどうかは触れられていない。
これら記紀のほかに継体天皇の出自を確認するために利用される史料に「上宮記一云(じょうぐうきいちにいう)」というのがある。上宮記というからには聖徳太子に関する史料と考えられているが、上宮記そのものはすでに存在しておらず逸文が残るのみとなっている。鎌倉時代末期に卜部兼方が著した「釈日本紀」という日本書紀の注釈書にその一部が引用されている。
そこには継体の父方および母方の系譜が具体的に記されており、それを系図にすると次のようになる。
これによると、継体天皇の父方は凡牟都和希王→若野毛二俣王→大郎子(意富富等王)→乎非王と続くが、これが古事記の応神天皇段にある系譜、品陀天皇→若野毛二俣王→大郎子(意富富杼王)と酷似しており、凡牟都和希王が品陀天皇、すなわち応神天皇とみなすことができる。前述の通り、古事記は武烈天皇段の最後に、品太天皇の五世孫の袁本杼命(継体天皇)を近江から迎えたとも記す。また日本書紀では、継体天皇である男大迹天皇が応神天皇である誉田天皇の五世孫であり彦主人王の子であることが記される。さらに応神天皇の皇子として稚野毛二派皇の名が見え、これは上宮記や古事記に見える若野毛二俣王と同一と思われる。
上宮記は使用する文字や文体などから記紀よりも成立が古い、具体的には推古天皇から天武天皇の間であろうと考えられている。その上宮記に記載されていたと思われる継体天皇に関する系譜は記紀の記述とも矛盾がなく、記紀よりも詳しい内容が記されているために記紀を補完する史料として活用されている。この前提にたって継体天皇の系譜を整理すると次のようになる。
上宮記 応神天皇→若野毛二俣王 →大郎子(意富富等王)→乎非王→汗斯王 →継体天皇
古事記 応神天皇→若野毛二俣王 →大郎子(意富富杼王)→〇〇〇→〇〇〇 →継体天皇
日本書紀 応神天皇→稚野毛二派皇子→〇〇〇〇〇〇〇〇〇 →〇〇〇→彦主人王→継体天皇
古事記によれば、大郎子(意富富杼王)は、三国君・波多君・息長君・坂田酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君の祖になっている(三国君・波多君・息長坂君・酒人君・山道君・筑紫之末多君・布勢君とする説もある)。これは継体天皇がこれらの氏族と同じ先祖を持つことを意味するが、三国、息長、坂田の名があることに留意される。
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