2020年に8回シリーズで考察した際にも味真野伝承や治水伝承に言及し、あまりにも情報を持ち合わせていない中で、足羽敬明が『足羽社記略』の中ででっち上げた創り話だろうと安易に結論づけていた。今回はその『足羽社記略』を含むそれなりに多くの資料に目を通し、自分なりに分析、考察して結論を出した。結論だけ見れば前回と変わらないのであるが、今回はそこそこ達成感のある作業となった。あらためて、その結論は以下の通り。
若かりし頃の継体天皇(男大迹王)は越前の味真野に潜龍していなかった。世阿弥の著した謡曲『花筐』によって地元の人々がそのように思い込み、次々とゆかりのある場所を創り出して700年もの間、語り継いできた結果、それがあたかも事実であると信じられることになった。
さらに、三大河川の治水事業や国土開発事業も継体天皇(男大迹王)によるものではなかった。越前の為政者たちが水害と闘ってきた長い歴史や彼らの功績がひとえに継体天皇(男大迹王)の事績として集約され、長らく語り継がれ、あたかも歴史上の事実として認知されることとなった。
これらの伝承が現代まで生きて様々な資料に記録されることになった大きなきっかけは『足羽社記略』かも知れないが、地元において様々な伝承地が創出され、今なお存在し続け、観光スポットにまでなっている現状を生み出したのは、明治以降に書かれた各郡の郡誌によるところが大きいと思う。
古代史を学んで得た知識をもとに各地の遺跡や神社、さらには今回のような伝承地を巡っていると、本当にこの場所なのか、同じいわれを持つ場所が2つも3つもあるが本物はどこなのか、と思うことがよくある。この場所で起こったことが歴史に書かれたのか、歴史に書かれたことをこの場所で起こったことにしたのか、後者を仲間内では「古代史テーマパーク」と呼んでいる。今年7月、その仲間たちと継体天皇の足跡を辿って近江から越前を巡ってきたが、味真野の地はまさにテーマパークを感じる場所だった。
今回の検討においてひとつ心残りがある。それは『記紀』などとはまったく別の伝承が記されているとされる『真清探當證』を確認していないことである。それによると男大迹王は愛知県の一宮で誕生し、岐阜県の根尾村(現在の本巣市)で育ったとされる。そしてその根尾村にも男大迹王が植えたと伝わる薄墨桜があるという。別の機会に読んでみたい。
最後に、今回の作業の過程で感じたことを書いて終えたいと思う。それは、歴史を考える中で伝承を取り扱うことは大変難しいということ。基本的に人々の口から口へ伝わるもの、いわゆる口伝が伝承の本質である。それを記録された文献から拾い出したとしても、それは文字に変換されたごく一部の情報であり、また逆に記録者の主観によって恣意的に編集されている可能性もあり、伝承が事実か否かを判断する確かな材料になり得ない。また、前述の「テーマパーク」の如く、いかにも物的証拠であるかのように存在する遺跡や遺構、神社など現存する建物でさえも確実性は認めがたく、百歩譲っても状況証拠のひとつでしかない。そう考えると、伝承が事実か否か、というのはそもそも証明できるものではなく、事実であった可能性が高いか低いか、を判断するところまでしかできない。今回はそのことを身をもって理解することができた。
今回の検討において断片的ではあるが古代の越前について様々な情報を得て、さらに地理についても少し知識を得ることができ、より一層この土地に対する興味が深まった。近いうちに今回の検証を兼ねて越前を再訪し、『真清探當證』など別の資料にもあたり、また別のテーマを設定して取り組んでみたい。
(おわり)
<参考文献等> ( ①~⑫の全ての参考文献等 )
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「帰鴈記」 松波正有(享保2年 1717年)
「越前地理指南」 福井藩・編(貞享2年 1685年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「越前国官社考」
「今立郡誌」 福井県今立郡誌編纂部・編(明治42年 1909年)
「𠮷田郡誌」 福井県𠮷田郡役所・編(明治42年 1909年)
「丹生郡誌」 福井県丹生郡教育会・編(明治42年 1909年)
「坂井郡誌」 福井県坂井郡教育会・編(大正元年 1912年)
「足羽郡誌」 福井県足羽郡教育会・編(昭和18年 1943年)
「古代日本国成立の物語」 小嶋浩毅
(https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru)
「織田文化歴史館Webサイト」
(https://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/)
「福井県神社庁Webサイト」
(https://www.jinja-fukui.jp/)
「『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
「風土記が拓く出雲の古代史」 吉松大志氏
「南越書屋Webサイト」 清水英明氏
(https://nan-etsu.com/)
「玄松子の記憶」
(https://genbu.net/)
「東安居公民館サイト 東安居地区の史跡・名所」
(http://www1.fctv.ne.jp/~hiago-k/siseki%20meisyo/higasigomura.html)
「國神神社Webサイト」
(http://www.kunigamijinja.jp/)
「大湊神社Webサイト」
(https://echizen-oshima.com/)
「the能ドットコム」
(https://www.the-noh.com/jp/)
「一乗学アカデミー 歩けお老爺の備忘録」
(http://kazuo-ichijyogaku.cocolog-nifty.com/blog/)
「越前市Webサイト」
(https://www.city.echizen.lg.jp/)
「古墳の土木技術」 湯川清光氏
「大阪府立狭山池博物館Webサイト」
(https://sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/)
「堤根神社Webサイト」
(https://tutumine.jimdofree.com/)
「水土の礎 千年の悲願」 農業農村整備情報総合センター
(https://suido-ishizue.jp/nihon/13/)
若かりし頃の継体天皇(男大迹王)は越前の味真野に潜龍していなかった。世阿弥の著した謡曲『花筐』によって地元の人々がそのように思い込み、次々とゆかりのある場所を創り出して700年もの間、語り継いできた結果、それがあたかも事実であると信じられることになった。
さらに、三大河川の治水事業や国土開発事業も継体天皇(男大迹王)によるものではなかった。越前の為政者たちが水害と闘ってきた長い歴史や彼らの功績がひとえに継体天皇(男大迹王)の事績として集約され、長らく語り継がれ、あたかも歴史上の事実として認知されることとなった。
これらの伝承が現代まで生きて様々な資料に記録されることになった大きなきっかけは『足羽社記略』かも知れないが、地元において様々な伝承地が創出され、今なお存在し続け、観光スポットにまでなっている現状を生み出したのは、明治以降に書かれた各郡の郡誌によるところが大きいと思う。
古代史を学んで得た知識をもとに各地の遺跡や神社、さらには今回のような伝承地を巡っていると、本当にこの場所なのか、同じいわれを持つ場所が2つも3つもあるが本物はどこなのか、と思うことがよくある。この場所で起こったことが歴史に書かれたのか、歴史に書かれたことをこの場所で起こったことにしたのか、後者を仲間内では「古代史テーマパーク」と呼んでいる。今年7月、その仲間たちと継体天皇の足跡を辿って近江から越前を巡ってきたが、味真野の地はまさにテーマパークを感じる場所だった。
今回の検討においてひとつ心残りがある。それは『記紀』などとはまったく別の伝承が記されているとされる『真清探當證』を確認していないことである。それによると男大迹王は愛知県の一宮で誕生し、岐阜県の根尾村(現在の本巣市)で育ったとされる。そしてその根尾村にも男大迹王が植えたと伝わる薄墨桜があるという。別の機会に読んでみたい。
最後に、今回の作業の過程で感じたことを書いて終えたいと思う。それは、歴史を考える中で伝承を取り扱うことは大変難しいということ。基本的に人々の口から口へ伝わるもの、いわゆる口伝が伝承の本質である。それを記録された文献から拾い出したとしても、それは文字に変換されたごく一部の情報であり、また逆に記録者の主観によって恣意的に編集されている可能性もあり、伝承が事実か否かを判断する確かな材料になり得ない。また、前述の「テーマパーク」の如く、いかにも物的証拠であるかのように存在する遺跡や遺構、神社など現存する建物でさえも確実性は認めがたく、百歩譲っても状況証拠のひとつでしかない。そう考えると、伝承が事実か否か、というのはそもそも証明できるものではなく、事実であった可能性が高いか低いか、を判断するところまでしかできない。今回はそのことを身をもって理解することができた。
今回の検討において断片的ではあるが古代の越前について様々な情報を得て、さらに地理についても少し知識を得ることができ、より一層この土地に対する興味が深まった。近いうちに今回の検証を兼ねて越前を再訪し、『真清探當證』など別の資料にもあたり、また別のテーマを設定して取り組んでみたい。
(おわり)
<参考文献等> ( ①~⑫の全ての参考文献等 )
「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「帰鴈記」 松波正有(享保2年 1717年)
「越前地理指南」 福井藩・編(貞享2年 1685年)
「越前国名蹟考」 井上翼章・編(文化12年 1815年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
「越前国官社考」
「今立郡誌」 福井県今立郡誌編纂部・編(明治42年 1909年)
「𠮷田郡誌」 福井県𠮷田郡役所・編(明治42年 1909年)
「丹生郡誌」 福井県丹生郡教育会・編(明治42年 1909年)
「坂井郡誌」 福井県坂井郡教育会・編(大正元年 1912年)
「足羽郡誌」 福井県足羽郡教育会・編(昭和18年 1943年)
「古代日本国成立の物語」 小嶋浩毅
(https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru)
「織田文化歴史館Webサイト」
(https://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/)
「福井県神社庁Webサイト」
(https://www.jinja-fukui.jp/)
「『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
「風土記が拓く出雲の古代史」 吉松大志氏
「南越書屋Webサイト」 清水英明氏
(https://nan-etsu.com/)
「玄松子の記憶」
(https://genbu.net/)
「東安居公民館サイト 東安居地区の史跡・名所」
(http://www1.fctv.ne.jp/~hiago-k/siseki%20meisyo/higasigomura.html)
「國神神社Webサイト」
(http://www.kunigamijinja.jp/)
「大湊神社Webサイト」
(https://echizen-oshima.com/)
「the能ドットコム」
(https://www.the-noh.com/jp/)
「一乗学アカデミー 歩けお老爺の備忘録」
(http://kazuo-ichijyogaku.cocolog-nifty.com/blog/)
「越前市Webサイト」
(https://www.city.echizen.lg.jp/)
「古墳の土木技術」 湯川清光氏
「大阪府立狭山池博物館Webサイト」
(https://sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/)
「堤根神社Webサイト」
(https://tutumine.jimdofree.com/)
「水土の礎 千年の悲願」 農業農村整備情報総合センター
(https://suido-ishizue.jp/nihon/13/)
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