古代日本国成立の物語

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続・継体天皇の考察④(継体天皇一族の旧跡)

2024年09月24日 | 継体天皇
継体天皇の妃や皇女、あるいは他の関係者にまつわる旧趾・旧迹・遺蹤(いしょう)があったとする地名として、丹生郡に2カ所、今立郡に1カ所、足羽郡に3カ所、坂井郡に3カ所の合計9カ所が記されるので順に見ていく。なお、原文には旧趾・旧迹・遺蹤などの言葉が使われているが、意味の違いはないものとして全て旧跡として表現する。

関端(せきかはな)(丹生郡)
「俗ニ鶯ノ関ト云所カ」として、『先代旧事本紀』に継体天皇妃である茨田連小望の娘の関媛の名が見えることから彼女の旧跡だろうとする。「鶯の関」が設けられていた場所は福井県南条郡南越前町の「関ケ鼻」という所で、敦賀から木ノ芽峠や山中峠を越えて武生盆地の細長い扇状地に入ったあたりである。明らかに関媛とは無関係であろう。

牧谷(丹生郡)
継体天皇の伯父、麻和加介(まわかけ)の旧跡か、とある。牧谷は前述の関ケ鼻に隣接する所で、『上宮記(逸文)』によれば、麻和加介は第11代垂仁天皇の四世孫にあたり、三代後に継体の母である振媛につながる。また『記紀』によると垂仁天皇の皇子である磐衝別命は近江から越前にかけて勢力をもっていた三尾氏の祖となっていることから、その後裔が近江と越前の国境付近の要衝を押さえていたとしても不思議ではないが。後世の人が「麻氣」を「牧」に書き換えたのだとし、集落には麻氣神社が鎮座する。式内社とされるこの神社には何と饒速日命が祀られている。

茨田(かやた)(今立郡)
継体天皇の皇女、茨田皇女の旧跡である、とする。「今カヲダト云訛也」「刀那坂ノ東也」「刀那今ハ戸ノ口ト云」「其社ヲ尾花ノ森ト云」とあり、現在の地名ではそれぞれ「河和田」「戸口」「尾花」ということだろう。刀那神社は上戸口町、尾花町、寺池町の3カ所に論社があるが、鯖江市によると上戸口町のものを式内社刀那神社に比定する。尾花町の刀那神社の社伝によると、茨田皇女がこの地で薨じたので社を建立して皇女の御霊を祀ったとする。

三尾野村(みをの)(足羽郡)
三尾君堅楲の旧跡であろうか、とする。三尾君堅楲の娘の倭媛が継体妃となって二男二女を生んでおり、椀子皇子は三国公の祖である。三尾野村は現在の福井市三尾野町としてそのまま地名が残る。三尾氏は継体天皇が幼少時を過ごした近江の高嶋郡が本貫地であるが、三尾野はその越前における拠点と考えることができる。前回の継体天皇を考察した際に三尾氏の拠点についても考えてみた。→ 継体天皇③(継体天皇の母系系譜1)

角折村(つのおり)(足羽郡)
角折君の旧跡である、とする。前述の三尾野と同様に角折村は現在の福井市角折町として地名が残り、日野川と足羽川の合流地点にあたる。角折君は三尾角折君のことであるが、いわゆる複姓氏族で前述の三尾君とは別の一族と考えられているが、その三尾君の拠点と考えられる三尾野とは距離にして10キロも離れていないので、まったく別の氏族と考えるのも無理があるかもしれない。

下市村(足羽郡)
「旧ノ名ハフル市」「此所ノ山ゾヒニマス明神は継体帝ヲ祭ル社也」「其田中ノ山ヲ亀山ト云」とあって、その亀山が継体天皇の妃である角折君の娘(妹の誤り)、稚子媛の旧跡である、とする。下市村は現在の福井市下市町で、日野川の対岸が前述の角折町である。下市山の麓は亀山と呼ばれ、大己貴命、少彦名命、継体天皇、大山祇命、稚子媛を祀る式内社の與須奈神社が鎮座する。当社は、寄品大明神、亀山神社、薬師神社、中山神社が合祀、移転、社号変更を経て現在に至るが、継体天皇を祀る寄品大明神は旧社地が下市山中にあった。また、亀山神社では稚子媛が祀られていたという。「天皇(継体帝)の御冠石(オカフリイシ)ト云モノ此所ニアリ」とある「冠石(かむろし)」が北方の川岸の近くの林の中にあるらしい。

椀子岡(まるこのおか)(坂井郡)
継体天皇の子、椀子王の旧跡である、とする。「今丸岡ト云 マルフノオカノ中略」とあるが「マルフ」は「マルコ」の誤りか。「其神㚑は國神村ニアリ」「延喜式云國神ノ神社是ナリ」とある式内社の国神神社は椀子皇子を祭神として坂井市丸岡町に鎮座する。神社由緒によると、武烈天皇8年に椀子皇子が磨留古乎加(まるこのおか)に降誕、その胞衣を埋めて神明社としたのが創建。男大迹王の意志を継ぎ、湿地帯であった坂中井平野の治水開拓を進めたことにより国土開発の守護神として厚く崇められたとのこと。

佐野(坂井郡)
意冨冨杼王の弟の沙祢王の旧跡である、とする。意冨冨杼王は応神天皇の孫で継体天皇の祖父で沙祢王はその弟である。佐野は現在の福井市佐野町か。「旧ノ字ハ沙祢」「祢ト野ト通スル故ニ今佐野ト云カ」とあり、これはさすがに語呂合わせとこじつけであろう。

市皇子(坂井郡)
継体天皇の子である大市皇子の旧跡である、とする。「今ハ一王子村ト云」とあり、現在の福井市一王寺町に大市皇子を祭神とする市王子神社が鎮座するが、継体天皇に大市皇子という皇子はいない。福井県神社庁サイトは祭神を大市皇子命とした上で由緒に次のように記している。
 
『足羽社記』に「天皇子 大市皇子云々」と御祭神の御名が、記載してあり、『越前国名勝志』に「一書の古記に云ふ。足羽の子、大市皇子の旧跡なり」と書かれている。足羽とは、継体天皇のことである。

『足羽社記』は『足羽社記略』のことであろう。『越前国名勝志』は『足羽社記略』の少しあとに著された書で、そこにある「一書の古記」はその『足羽社記略』を指す。このように18世紀以降に書かれた越前国の地誌や史書は『足羽社記略』を参照しているケースが多い。

足羽敬明が継体天皇一族の旧跡とする地名を確認したが、これら9カ所を地図にプロットすると下図のようになる。




(つづく)


<参考文献等> 

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「越前国名勝志」 竹内芳契(元文3年 1738年)
福井県神社庁Webサイト
 (https://www.jinja-fukui.jp/)
南越書屋Webサイト」 清水英明氏
 (https://nan-etsu.com/)
玄松子の記憶」 
 (https://genbu.net/)
東安居公民館サイト 東安居地区の史跡・名所
 (http://www1.fctv.ne.jp/~hiago-k/siseki%20meisyo/higasigomura.html)





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