古代日本国成立の物語

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続・継体天皇の考察⑪(継体天皇による治水伝承の検証)

2024年10月01日 | 継体天皇
越前での継体天皇(男大迹王)による治水事業が史実なのか、それとも架空伝承なのか。明確な答えは出せないが、どちらの可能性が高いかという結論まではたどり着きたい。そのために次の2つの視点で検討してみる。ひとつ目は、5世紀後葉の時代に九頭龍川のような大規模河川を治水する土木技術があったのか、あるいは同様の事例があるのか、ふたつ目が、男大迹王はその事業主体、すなわち越前の統治者になっていたのか。

まずひとつ目について。継体天皇(男大迹王)による治水事業が行われたとすれば5世紀後葉と思われるが、その頃の大規模な土木工事と言えば古墳の築造がある。5世紀は古墳時代中期にあたり、大仙古墳や誉田御廟山古墳など大王墓である前方後円墳の規模が巨大化した時期である。巨大古墳の築造では、周濠の構築、墳丘の構築、巨大石室の構築などの技術ほか、工事の前提となる精密な設計技術や測量技術も求められ、これらの技術は河川治水の技術に通じるものがあると考える。たとえば周濠の構築においては、大規模な溝を掘削する、周堤を築く、その周堤が決壊しないように突き固める、といったこと。これは新しい流路を設けて堤防を築く技術に通じる。墳丘の構築においても同様に、大量の土を盛り上げて固め、葺石を敷き詰めて土砂の流出を防ぐことが求められる。巨大な石室構築では、巨石の切り出しと運搬、据え付けが行われるが、こういった技術も応用されたであろう。なお、横穴式石室は6世紀になって一般化するが、すでに5世紀において採用が始まっていた地域もある。そしてこれらの工事の前提として精密な設計や測量の技術が必要となるが、これらはおそらく朝鮮半島からの渡来人に依存していたと思われる。



このように考古学的には巨大古墳築造の技術が治水工事に活かせたことが推測されるが、文献に見える古代の土木工事あるいは水利工事を確認すると、『日本書紀』崇神紀に河内の狭山池のほか、依網池、苅坂池、反折池など多くのため池が造られことが記載され、垂仁紀においても高石池、茅渟池、狭城池、迹見池を造ったほか、諸国に命じて800以上の水路を掘らせたことが記される。仁徳紀には淀川に茨田堤を築いたとあり、これは淀川の流路を安定させるためだったと考えられている。またこのとき、難波の堀江の開削も行われている。『古事記』では応神天皇の時として、この茨田堤築造や難波の堀江開削には新羅からの渡来人(秦人)が使役されたことが記される。崇神天皇、垂仁天皇は4世紀、応神天皇は4世紀から5世紀にかけて、そして仁徳天皇は5世紀前半とされる。

日本最古のダム式ため池である狭山池から出土した樋に使われた木材の年代測定結果が西暦616年伐採のものとわかり、これが現在の狭山池の築造年代とされているが、5世紀の工事技術が大きく劣っていたとは思えない。現在、池の隣接地に大阪府立狭山池博物館が建っており、当時の優れた土木技術を見学することができる。

以上のとおり、継体天皇即位前の5世紀に越前平野を流れる三大河川の治水工事を行うだけの技術があったのか、という点については、それまでに蓄積された土木技術と渡来人がもつ様々な知見を活用すれば十分に可能であったと考える。次に、継体天皇(男大迹王)はその工事を実施する主体者、すなわち越前国あるいは少なくとも坂井郡域を統治する立場にあったのかどうか、について考えてみたい。

母の振媛とともに近江から越前の坂中井に移った継体天皇(男大迹王)は、母方の江沼氏、あるいは父方の三尾氏、さらには三尾氏の後継ともされる三国氏の庇護のもとで育ったと考えられる。とくに三国氏は坂井郡を本拠地としており、この地を治めていた豪族である。『先代旧事本紀』の「国造本紀」に、成務天皇のときに三国国造が任命されたとあるが、『福井県史』はこの三国国造は三国氏であったと思われる、とする。

継体天皇(男大迹王)が越前の治水事業を成し遂げたとするならば、少なくとも5世紀後葉の時点で坂井郡の統治を三国氏から承継していなければならないが、それは三国氏の後継者が途切れない限り可能性はない。三国氏は7世紀の天武天皇のときに八色の姓の最上位である「真人」の姓を与えられていることから、途絶えることなく栄えていたことがわかる。ちなみに『日本書紀』によれば、三尾君堅楲の娘である倭媛との間にできた椀子皇子が三国公の祖先であるとなっている。また、椀子皇子を祀る國神神社の由緒によれば、椀子皇子は継体即位後、その意志を継いで坂井平野の開拓を進めたとある。いずれも継体が即位したことによって創られた話である可能性が高いが、前者からは三尾氏と三国氏の関係が垣間見える。

逆に継体天皇(男大迹王)が統治者として治水事業を指揮したのではなく、三国氏による事業において何らかの重要な役割をもって関与したということであれば、その役割を全うしたとしても自身の功績として都に聞こえるようなことにはならない。むしろ全て三国氏の功績となるであろう。

さらに言えば、治水の対象が九頭龍川だけならまだしも、日野川や足羽川も含めた三大河川の治水となれば足羽郡や丹生郡も関係してくるため、これはもう越前を統治する立場でなければ不可能である。仮にそれが事実であったとすれば、ヤマト王権は彼を天皇として迎え入れるのと引き換えに、その役割を担うべき人物を指名するか、もしくは代わりの者を派遣しなければならないがそんなことにはなっていない。

さて、継体天皇(男大迹王)の治水伝承が生まれた越前平野は古代から水に苦しめられた地域であったことは想像に難くない。九頭龍川が山間部を抜けて坂井平野に流れ出る扇状地の要である扇頂にあたる地域、現在の鳴鹿大堰のあたりや、日野川と足羽川が合流したあと、すぐに九頭竜川に合流する地点などは氾濫が絶えないことは容易に想像できる。また三国港の伝承で河口付近の岩を穿ったとあったが、河口の岩が流れをせき止めることで水が逆流してあふれ出ることもあったかも知れない。越前の古墳のほとんどが丘陵上に築かれているのはこのためだと思われる。農業農村整備情報総合センターのWebサイト「水土の礎 千年の悲願」には、越前平野における水との闘い、あるいは水を介した人々の争いの歴史が書かれている。

古来、この地の歴代の統治者、すなわち九頭龍川、日野川、足羽川のそれぞれの流域を治める豪族たちが渡来人の知恵を借りながら、自らが持つ土木技術を駆使して川の氾濫と闘ってきたことと思う。平安時代になって十郷用水という先進的な灌漑システムを構築できたのも、その歴史の積み重ねによるものと考える。その歴史が人々に刻まれているからこそ、大規模な治水事業や国土開発の成果を天皇となった地元の英雄、男大迹王の功績に仕立て上げたのだろう。それを最初に記録したのは足羽敬明かも知れないが、それは民衆の声を代弁したにすぎないと思われる。


(つづく)


<参考文献等> 

「『福井県史』通史編1 原始・古代」 福井県・編
 (https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/tuushiindex.html)
「古墳の土木技術」 湯川清光氏
「大阪府立狭山池博物館Webサイト」
 (https://sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/)
「國神神社Webサイト」
 (http://www.kunigamijinja.jp/)
「堤根神社Webサイト」
 (https://tutumine.jimdofree.com/)
「水土の礎 千年の悲願」 農業農村整備情報総合センター
 (https://suido-ishizue.jp/nihon/13/)





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