古代日本国成立の物語

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続・継体天皇の考察⑦(越前の継体伝承の出所)  

2024年09月27日 | 継体天皇
『足羽社記略』をもとに5回にわたって、①継体天皇の祖先、后妃、子女など一族の御名代の地(12カ所)、②旧趾・旧迹・遺蹤(すべて旧跡の意)としている地(9カ所)、③由来のあるとされる式内社が鎮座する地(17カ所)について見てきた。このほかに④一族の誰かの御座所あるいは神霊を祭るとされる地(6カ所)、⑤一族の名前と地名の間につながりが想定される地(8カ所)、⑥その他(3カ所)、については個々の記載内容の紹介を割愛するが結論を言えば、④⑤⑥についても一部でその通りだろうというのはあるが、ほぼ①②③と同様の状況が見出せる。つまり、確実に否定できるものはないが、単なる語呂合わせやこじつけの可能性が高いケースもあり、積極的に肯定できるものもない、ということ。④⑤⑥については以下に地名を挙げておく。

④一族の誰かの御座所あるいは神霊を祭るとされる地(6カ所)
 今立郡‥‥勾、目子嶽
 足羽郡‥‥雄椎村、弓筈社
 大野郡‥‥伊振嶽
 坂井郡‥‥檜山隈坂

⑤一族の名前と地名の間につながりが想定される地(8カ所)
 丹生郡‥‥忍坂村、廣瀬村
 今立郡‥‥朽飯村、御駕庄
 足羽郡‥‥額田、一乗谷赤渕
 坂井郡‥‥本荘、二面村

⑥その他(3カ所)
 今立郡‥‥野大坪村
 足羽郡‥‥足羽川大橋、福井

このほか、継体天皇との関係性は認められないが、主に足羽神社との関係をもとに記載された地名19カ所をあげておく。

敦賀郡‥‥大丹生浦
足羽郡‥‥下馬村、小和清水村、善住山、
     地主神、太上宮、足羽神社馬来田山
齊殿清水、東西下埜、三井、四井、杉森
坂井郡‥‥九頭龍、三國、高木村、木幡、
     根王村、信露貴川、足羽川

さて、『足羽社記略』は足羽神社社家の足羽敬明が継体天皇を利用して足羽神社の権威を高めるために著した書との評価が定着しているが、実際に内容を確認してみると、妥当性があろうと思われる箇所がいくつかあるものの、語呂合わせや強引なこじつけで継体天皇に関係する皇族を引き合いに出している箇所に満ち溢れているとの印象である。越前の国はこれこの通り継体天皇と深く結びついています、その継体天皇が創祀された足羽神社、その継体天皇を祀る足羽神社は言わば越前の守り神です、大いに敬い大切にしなさい、というメッセージが感じられた。

それはそれとして少し意外であったことは、「1.越前における継体天皇の伝承」で挙げたような、一般に広く流布している即位前の継体天皇(男大迹王)にまつわる国土開発や産業奨励の伝承、味真野に潜龍していたときの伝承に関する記載があまりに少ないことだ。以下の通り、わずか数カ所に記載されるのみだった。

今立郡 御駕庄味真野
 此処ハ継体潜龍ノ時ノ御座ノ地。
今立郡 勾
 生ニ子有天下其一日勾大兄(安閑帝)此時ニ生育シ玉フ。
今立郡 目子嶽
 毎年四月五日川上御前ノ祭ト云テ蒜葱ヲ食フ。
足羽郡 弓筈社
 是継体帝ノ水徳ノ神霊ヲ祭ル。
 継体帝水ヲ納メ三大川ヲ定メ玉フ。
 継体帝御弓ノ筈ニテ岩ヲ突キタマヘハ忽冷泉ワキダス
 (中略)其地ヲ酌渓ト云。
坂井郡 檜山隈坂
 継体帝ノ子宣化帝ノ御座所ナリ。
坂井郡 雄島
 継体帝水ヲ治メ三大川ヲ開キテ郡郷定リナルノ功業ヲ封シ祭リ玉フ神是ナリ。

三国に港を開いて様々な産業を奨励したこと、薄墨桜のこと、味真野潜龍のときに岡太神社を創祀したなどが記されていない。もともと、これらの伝承はこの『足羽社記略』から始まったのではないかとまで想像していたのだが、あてが外れた。治水事業に関する書きっぷりも、すでに存在していた伝承をもとにサラっと書いている印象である。治水や国土開発については次稿以降であらためて考えるとして、次にもうひとつの資料として室町時代に世阿弥が著した謡曲『花筐』を確認したい。

『花筐』は継体天皇(男大迹王)をモデルとした大迹部皇子と最愛の女性である照日前を描いた謡曲で、伝承と関連する話が含まれているのではないかと思って読んでみた次第である。照日前のモデルはもしかすると継体妃であった目子媛かもしれない。事実上の正妻であったにもかかわらず、即位後は皇后となった手白香皇女にその地位を譲らざるを得なかった姿が少しダブって見える。以下がWikipediaに記載された『花筐』のあらすじである。

春の越前国・味真野。皇位を継ぐため都へ向かった大迹部皇子は使者を最愛の女性・照日の前の元に遣わす。使者は照日の前に皇子からの文と愛用の花筐(花籠)を届け、悲嘆にくれた照日の前はそれらを抱いて故郷へ帰っていく。秋の大和国・玉穂。帝(皇位を継いだ大迹部皇子)は臣下とともに紅葉狩りに向かうが、そこへ皇子を慕うあまり都へとやってきた照日の前と遭遇する。帝の行列を汚す狂女として官人に花筐を打ち落とされた照日の前は花筐の由来を語り、漢の武帝の后・李夫人の曲舞を舞う。花筐を見た帝はそれがかつて自ら与えたもので狂女が照日の前であると気づき、再び照日の前を召し出して都へと帰っていく。

the能ドットコム」というサイトに公開されている『花筐』のストーリーの現代語訳を読むと、即位前の継体天皇が越前の味真野にいたことが書かれているが、伝承にまつわる話としては残念ながらそれ以上のことは何も書かれていない。安閑天皇や宣化天皇が味真野で生まれ育ったことや、岡太神社や五皇神社を創祀した話もなく、薄墨桜も出てこない。うーん、これまたあてが外れたか。

ただし、ひとつ不思議なことがある。継体天皇は幼少期に母の振媛とともに母の実家のある越前にやってきた。その場所は式内社の高向神社のある坂井郡高向、現在の坂井市丸岡町である。九頭龍川右岸(北側)に広がる坂井平野の東端にある。一方の味真野は日野川を遡った武生盆地の東端にあって、高向からは直線距離にして30キロほど南にあたる。

幼い継体はおそらく母方の江沼氏や父方の三尾氏、あるいは実力者の三国氏の後ろ盾のもとで成長し、影響力を蓄積し、行使していったと考えられるので、これら諸氏の拠点から遠く離れた武生盆地の奥まったところに潜んでいたとするのは理解に苦しむ。さらに、目子媛を妃としたあとも尾張氏のバックアップを得るために美濃街道と通じた坂井平野の方が都合がよい。また、越前平野の治水、開拓に尽力したことが事実であるなら、やはりその中心地、すなわち九頭龍川流域に拠点を構えておく必要があるだろう。仮に治水伝承が事実でないとしても為政者の立場にあったとすれば同じことである。加えて、足羽神社が越前の英雄である継体を祀っているのはやはりお膝元に位置していることが大きな理由であろう。



『坂井郡誌』の三國神社の項に「古伝説」として、男大迹王は高向村で幼少期を過ごして成長した後、この三国の地に宮を造って母の振媛とともに移住し、49歳のときに三國港を開港、その9年後に三國の宮を出て即位した、とある。古伝説とはいえ味真野潜龍の伝承と比較するなら、どちらに信憑性を認めるべきか。継体が味真野に潜龍していたとする伝承、あるいはそれを前提とする数々の伝承はやはり事実に基づかないのではないか。もっと言えば、フィクションである『花筐』がそのきっかけになっているのではないだろうか。


(つづく)


<参考文献等>

「足羽社記略」 足羽敬明(享保17年 1732年)
「坂井郡誌」 福井県坂井郡教育会・編(大正元年 1912年)
古代日本国成立の物語」 小嶋浩毅
 (https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru)
the能ドットコム
 (https://www.the-noh.com/jp/)





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