あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

言い訳もつきてあるく暑さかな  あきオジ

2011-08-08 18:08:57 | 日記
みなとみらいです。
ところどころで、まさにアートと思われるデザインにぶつかります。

猛暑でした。

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萩が径へまでたまたま人の来る  山頭火

旅はゆうげの電信棒のつくつくぼうし  山頭火

山ふかく蕗のたうなら咲いてゐる  山頭火

飲みたい水が音をたててゐた  山頭火

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空海を紹介した番組を見ていました。
善通寺で暮らしていたとき
善通寺だけなくゆかりの土地を歩きまわりました。
満濃池にも出かけました。
懐かしいですね。

若いときはいろいろな旅をしたらいい。
そんなことを思いますね。

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十字架が猛暑の中でゆらぎ見ゆ  あきオジ  

2011-08-08 17:59:13 | 日記
大桟橋近くの交差点にある教会です。

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松かさも火にして豆が煮えた  放哉

なん本もマッチの棒を消し海風に話す  放哉

山に登れば淋しい村がみんな見える  放哉

(だから何だ。そんな途切れた俳句ですが、それだから余韻の不思議さが残るのでしょうね。あまり上等なことを考えずに、分からないことは置き去りにしておきましょう。)

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じっとして汗をぬぐう百日紅  あきオジ

2011-08-08 17:49:29 | 日記
みなとみらいです。
しばらくぶりで足をのばしました。
猛暑です。
早々に帰宅しました。
また、日焼けしてしまいました。

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熊野路に知る人もちぬ桐の花  去来

卯の花のこぼるる蕗の広葉かな  蕪村

押し合うてまた卯の花の咲きこぼれ  子規

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いろいろな俳人がそれぞれの表現形式を工夫しているのでしょうが、素人には分かりません。季語にしても自然が遠くなってしまった都会に住む人は「吟行」でもしないと自然を季語にした句が生まれません。もう現代は季語とは距離のある生活になっているのです。その季語を探して時代の匂いを差し入れる。そんなことで句を作る。自然鑑賞などという不自然な方法論では何も生まれないのですね。

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積乱雲我をすいとらんと佇立する  あきオジ

2011-08-08 05:54:21 | 日記
昭和記念公園です。
落ち着かない空ですが
それはそれで夏の気分です。

大好きな積乱雲が現れます。
元気が出ますね。


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亡き父の秋夜濡れたる机拭く  飯田龍太

秋空に何か微笑す川明り  飯田龍太

桔梗一輪死なばゆく手の道通る  飯田龍太

夕焼けて夏山己が場に聳ゆ  飯田龍太

(現代を代表する俳人ですね。いかにも現代の教養人の句と思わせる鋭さがあり真摯な姿勢が魅力ですね。でも、緊張を強いられて、遊びのない自動車の怖さがありますね。よく読んでみたい俳人と思いました。

稲妻を両手ひろげる子が二人  あきオジ

2011-08-08 05:41:13 | 日記
昭和記念公園です。
稲妻に驚き
小さくなる子もあれば
勇ましく雨の中、稲妻に立ち向かう子もいる。

それを教室からぼんやり見ている老人です。

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ふもとなる我蕎麦存す野分哉  蕪村

海の家の海より明て野分哉  蕪村

客僧の二階下り来る野分哉  蕪村

稲妻にこぼるる音や竹の露  蕪村

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芭蕉は自然を素材にして境涯を表現しようとしているからでしょうか。
自然観察がいつも不自然です。
それが時代表現なのですね。

蕪村も同じ時代に生きた俳人ですね。

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雷鳴に震える犬の尻尾垂れ  あきオジ

2011-08-08 05:26:51 | 日記
昭和記念公園です。
夜は出歩かないし
雨の日も出歩かないので
私の写真はうつも上天気です。

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木の葉散る歩きつめる  山頭火

踏みわける萩よすすきよ  山頭火

笠にとんぼをとまらせてあるく  山頭火

(山頭火の句の面白さは観察そのままが残っていることではないでしょうか。芭蕉の自然観察は推敲に推敲を重ねているうちに虚構になってしまい、いつのまにか、素材を換骨奪胎して新しいイメージを作り上げてしまいます。山頭火もその傾向がありますので、自信にみちた表現の句は意外と面白くないように思われます。言葉を吟味するとどこか違う。そんなことを思います。でも、そんな分析は素人がすべきではありませんね。そのままよければそれでいいのです。)

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