あきオジの風景

写真、そして、俳句(もどき)
毎日更新しています。

雨音が南無阿弥陀仏とひびく夜   あきオジ

2011-08-21 15:49:59 | 日記
小金井公園の休憩所です。
写真と俳句が連動しないですね。
まだまだどちらかにあったものを結びつける程の技量はありません。

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白露に金銀の蠅とびにけり  川崎芽舎

桔梗の露きびきびとありにけり  川崎芽舎

金剛の露ひとつぶや石の上  川崎芽舎

(芽舎。鋭角的で現代感覚にあふれた句なのでしょうが、私の野暮ったい、ちょっと間抜けな気配好みには合いません。現代俳人は技巧的で教養的に過ぎるのですね。それに宗教的な思想を盛り込めばいくらでも仲間内の評価を得られる。そんな感じなのですね。まあ、ぼちぼち馴れましょう。仲間には入れてもられないでしょうし、そのつもりもありません。また、ぼちぼち、別の表現を試みている俳人を探しましょう。金子兜太もあれこれ読みましたが、斬新ではありますが、熟していません。興味の対象からは外れますね。また、いつか興味をもてるといいですね。)

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「法然上人絵伝」を見ていました。
法然という人は優秀であった人のわりには
出家者としての人生をまっとうした稀有な人なのかもしれません。

人物としても人間的で情愛あふれる人のように思われます。

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ぐうたらがパスワードなり眠り猫  あきオジ

2011-08-21 15:39:13 | 日記
小金井公園の疏水です。
繁みに見える疏水はいいですね。

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生き残ったからだ掻いてゐる  山頭火

こほろぎに鳴かれてばかり  山頭火

どうしようもないわたしが歩いてゐる  山頭火

(山頭火の感傷的な気分と舌たらずのような言葉のリズムがいいのですね。これは放哉とは違っているように思います。山頭火は山頭火の言葉のリズムに馴れると心地良くなりますが、放哉のばあいは、油断するとつまずいてしまうような感じなのです。まだ、馴れ方が足りないのでしょうかね。)

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「どうしようもないわたしが歩いてゐる」この句、以前、Tシャツに書き込んで使用したことがありました。若い時代もあったのですね。

積乱雲蓮の台に蜻蛉あり  あきオジ

2011-08-21 15:22:01 | 日記
小金井公園です。

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ひややかにのべたる皺や旅衣  飯田蛇笏

紫蘇の葉や裏ふく風の朝夕べ  飯田蛇笏

ひとり寝の身にぬくもりや秋の夜  飯田蛇笏

(飯田蛇笏も面白いかなと思って取りあげていたのですが、探すのが面倒になりました。体裁のいい漢字が先にあって、その言葉に合わせて言葉を選んでいる。そんな技巧的な作風が苦手なのです。野暮ったく、間抜けな俳句がいいですね。それが私には似合っています。)

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「うらおもて」という表現が俳句を作る人は好きですね。紅葉であったり、着物であったりいろいろですが、ちらちらした気配が日本人の感性にあっているのでしょうかね。両方を重ねるという意味合いなのでしょうか。この言葉とその類型を利用するとけっこうかっこうになるのかもしれません。

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大雨の日曜日もありがたし  あきオジ

2011-08-21 07:07:20 | 日記
小金井公園

起きたら3時
寝直したら5時半でした。
気圧のせいでしょうかね。
まあいいか。

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咲いて一りんほんに一りん  山頭火

膝に酒のこぼれるるに遭ひたうなる  山頭火

干物干して蕾はまだまだかたい  山頭火

梅はちりぎはのお豆腐をもらうてもどる  山頭火

(山頭火は放哉のような不器用さではなかったようですね。人の好意にするよりながら、それなりの愛嬌で対応していたし、表現にも憎めないものがあったのでしょうかね。そんな気がします。上記の句などにも温もりのような臭いが感じられますね。)

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日々のこと言葉にしては捨てる夏  あきオジ

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俳句は、言葉にして捨てる。
そんな役割を担っているような気がします。
芸道でも芸術でもなく、捨て去るために作る。
そんな気がします。
それで十分です。

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蔦からむ松にのぼりし蟻の列  あきオジ

2011-08-21 06:42:11 | 日記
小金井公園です。
建物を展示したコーナーが充実しています。
東京都もなかなかやりますね。

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青空ちらと見せ暮るるか  放哉

(細部に向ける放哉を思うと痛いですね。細部にしか目がいかないのか、それとも、これまで気づかなかったことに目が行くようになったのか、あれこれ思いますが、視野が極端にせまくなっているように思えます。その分、思いはどこまでも深く沈んでいくのでしょうかね。)

ばたばた暮れきる客がいんだ座ぼとん  放哉

(こんな言い方は失礼ですが、放哉のような最高学歴をもち、一流会社に就職し、句会でもそれなりの評価を得た男が、堂守のような暮らしをしていることは、耐えらないことではなかったのではないでしょうか。それでなくても謙虚な人柄とも思われず、人の好意を食いつくすような人がらですから「諦観」とは、別の意味合いがあったのではないでしょうかね。そんな放哉が座ぶとん意識している。「それもありかな」と言い聞かせている姿がいいですね。)

めっきり朝がつめたいお堂の戸をあける  放哉

(この句、お気に入りなのです。言葉の選び方も、流れもいいですね。何と言っても、淡々としていて、作者の姿が見えますね。芭蕉のように傍観的立場を崩さなかった俳人のものと違った世界が見えますね。)

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今日は朝から雨です。
古書店めぐりはどうしましょうか。
本は傘をさしながらもつのは大変なのです。

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雨上がり風船蔓行くてなし  あきオジ

2011-08-21 06:33:45 | 日記
小金井公園です。
ここでもゴーヤを育てたり
朝顔を植えたり
工夫をしていますね。
ここでもボランティアが活動していました。

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鳩の声身に入(しみ)わたる岩戸哉  芭蕉

湯の名残(なごり)今宵は肌の寒からむ  芭蕉

乳麺の下たきたつる夜寒哉  芭蕉

(このような句にであうと説教がましい内容もなくほっとします。江戸時代の風俗が感じられて楽しい句ですね。)