西の空は晴れている

絶望の向こうに希望がある............、はず!

瀬織津姫と立山信仰

2018-06-17 14:13:43 | 神社 古代

なんてタイトルにはしてみたけれど、系統化された持論・自説があるものでもなく、雑感の羅列でしかないのだが。古代史好きが長じて、興味の対象は壬申の乱から崇神天皇期、更には縄文期へとどんどん太古へ向かっております。最近、興味あるのが瀬織津姫。ここ数年、スピ系のおねえさん方に秘かに人気あり。瀬織津姫絡みでネット等で目にする人は大概がスピ臭がして読む気がしないのだが、菊池展明氏の「エミシの国の女神」という本は、日本各地に残る古史古伝、神社の御由緒について深く読み解いてある良書であり、ただ今、真剣に読んでいる。瀬織津姫を祀った神社と言えば、金沢の瀬織津姫神社くらいしか思いつかなかったのだが、富山にもあるんですね。上記の本に記載されていたのが、瀧社という小さい村社。調べてみると、その周辺には気になるところがいっぱい。雄山神社・前立社壇の周辺となる。

まずは、立山多賀宮。こんな素晴らしい神社があったんですね。全然知らなかった。

立山開山については、景行天皇末裔佐伯有頼の白鷹伝説が一般的ですが、その息子の有種が、岩峅寺に居を構え立山大権現と滋賀の多賀の大神を奉斎して建立したのが立山多賀宮とのこと。多賀宮と聞いて、ぱっと頭に浮かぶのは神宮・外宮の多賀宮だよね。多賀という言葉は、弥生期以前にあったとされる”日高見国”又は、”高見をする”という所から来ているという説もある。縄文~弥生期の人口分布、稲作伝来前の食糧事情等から考えると”日高見国”も強ちトンデモでもない。この立山多賀宮では縄文の女神:瀬織津姫を祀っていたという説もある。

何はともあれ、とてもいい感じの神社でした。佐伯有頼は前立社壇の地から立山を目指したこと、晩年は芦峅寺で過ごしたことより、前立社壇と中宮・祈願殿が立山信仰の地というか雄山神社となっていますが、立山多賀宮、あなどれません。雄山神社のご祭神は、伊弉諾命、天手力男命とされていますが、これは当然後付けでしょう。

さて、次に向かったのが常西水神社。常西用水が集まる所にある小さいな神社。

ほんと名も無き小さい神社なんだけど、自分が何の知識も無い子供の頃から、ここを通る時、”偉い神様が祀ってあるんだろうな”って漠然と思っていた。妙な清浄感がある。小さいけど社殿は妙に豪勢だし、社殿後部は、千木が外削ぎ、鰹木が七本の神宮・外宮仕様。

まあ、只者では無い神様が祀られているということ。次に向かったのが、本来の目的であった滝社。

小さな村社です。御由緒を見ると祭神は、瀬織津姫、天照大神、豊受大神とあり、神宮の内宮・外宮の神様よりも先に瀬織津姫が一番最初に記載されています。

小さいながらも、立派な彫刻が成されております。良い神社でしたよ。瀬織津姫は大祓詞では川の瀬に立つ女神で、罪、穢れを川に流すとされている。川とか瀧の神で、太古には、この場所であれば常願寺川、若しくは称名滝を奉ったイメージ?

瀬織津姫は、禊ぎ・祓いの神説、神宮・内宮の荒祭宮では天照大神の荒魂として祀られている説、禍津日神(悪神)説、いろいろありますが、昨今では縄文期の夫婦神説をよく目にします。縄文期は夫婦一対の神を祀る信仰であった様です。

今回は前立社壇周辺を詣でたのですが、中宮・祈願殿については、須佐之男と新川姫命を祀っていた説もあります。

 たぶん、殆どの人は気にも留めないのでしょうが、釖嶽社(須佐之男命)、治国社(新川姫命)という小さな摂社(末社?)があります。

 新川姫というのは、たぶん常願寺川の神様でしょう。佐伯有頼は実在した人物ではあるのでしょうが、立山信仰は神仏混淆の地でもあり、立山、常願寺川を神とした時代からいろいろ混ぜ混ぜなんでしょう。佐伯氏が立山信仰に大きく関与したことに間違いは無く、また、佐伯眞魚(空海)と同族説もあるしね。母方が芦峅寺の佐伯な俺は、ちょっとうれしい。

瀬織津姫のだんな様は天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)。ながっ!まあ、ニギハヤヒさんは古代史好きには大人気であります。大物主命はニギハヤヒさんなのか?何度大神神社を参拝してもわかりません。(笑) ただ、大神神社ご祭神の正式名が倭大物主櫛甕魂命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)なんで、たぶん俺の妄想はそれほど外れていないと思う。大神神社も檜原神社大和神社も神宮も一緒。そこそこの神社好きになってくると、”国津神系の神社と天津神系の神社、両方参拝していいのか?”みたいな想いが沸いて来る。新日本プロレスのTシャツを着て全日の試合会場に来ている感覚?(昔、地方会場でそういうダッセー人をよく見かけたよね。ヨレヨレの他団体Tシャツを着たおっさんとか。笑) 同じ日本の神様だからいいみたいなまとめ方をしている人もいるが、そういうことじゃなくて、歴史を辿っていくと一緒でいいことの意味が解ってはくる。”うちはと千手が争った結果、和合して木の葉の里が出来ました”的な流れはあったにしても、現実の古代史は全力を尽くして戦ったみたいなもんじゃなくて、裏切って騙してっていう汚い勝ち方だったと想像する。そういう後ろめたさ的な御霊信仰と縄文からの信仰がごちゃまぜになった所に持統ー藤原不比等らの改ざんと強制が加わった結果が、平安期以降の地方神社を造ったものと考えます。ヨレヨレのパンクラスTシャツと新日帽で、全日会場に来ている状態に近いのかもしれませんね。


彌彦神社

2018-05-02 21:10:17 | 神社 古代

越後国一宮・彌彦神社 。正式には”いやひこ”だけども、通称”やひこ”。18年前に、嫁、息子と三人で訪れたことがあるが、何故、来たのか全く覚えていない。ドライブがてら、G・馬場の出生地である三条市を目指したのか、或いは雑誌か何かで大鳥居を見て、来たいと思ったのか・・・。

当神社で撮ったヨチヨチ歩きの息子の写真があるが、こんな小さい子を連れて、何故にここまで来たのか、理由が思い出せない。当時は全く神社に興味の無い時期であったのだが、”いい感じの場所だな”と思ったのは、何となく覚えている。

弥彦山がご神体であり、ご祭神は天香山命(アメノカゴヤノマノミコト)。天照大御神の曾孫であり、神武東征の際、フツノミタマノの剣を奉った高倉下と同神で、越後に産業文化を伝えた神とされる。自分的には、ミギハヤヒさんの息子さんのイメージが強い。「日本書紀」や「先代旧事本紀」での内容はともかく、私は”日の本”の神だと思っている。藤原不比等がどうした、桓武天皇があれした等、いろいろな説があるが、「記紀」の最大のトリックは日の本(ひのもと)と大倭(おおやまと)が同じ国であると思わせている点だと思う。まあまあ、そんな自分勝手な古代史妄想は置いといて、18年ぶりに参拝した弥彦神社は、やはり良い気に満ちた神社でありました。

月次祭にも参拝させて頂き、神事、神楽を間近で見させて頂き、幸運に恵まれたと思っています。

摂社・末社を訪れる人は少ないのだが、ここは良いですよ~。絶対に参拝すべし。語れる程に沢山の神社を訪れたわけでも無いし知識も少ないのだけど、日本海側の神社では、出雲大社に次いで何か”別格”な感じを受けました。通常、神社は二拍手だけど、弥彦神社は四拍手。神宮祭祀の八拍手は”超別格”としても、四拍手は、私の知る限り、出雲大社、宇佐八幡、弥彦神社だけじゃんね~。宝物殿に天照大御神、神武天皇から今上天皇までの肖像画(歴史モンのTV番組でよく目にする)があるのも、意味があるのか無いのか・・・。ここの刀とか凄いのがあるし、時間に余裕があれば、見られて損は無いと思います。

18年の間に無駄な知識が付いて訪れた弥彦神社は、何度でも訪れたいと感じる神社でありました。

ロープウェイに乗って弥彦山頂の御神廟(奥の宮)へ。越後平野が見渡せます。

天香山命と妃神熟穂屋姫命の御神廟とされる。

当然、お土産は御神酒。この国の神々に思いを馳せながら、直会(なおらい)や~。


姉倉比賣神社

2018-03-25 19:39:21 | 神社 古代

富山県最古の神社。姉倉比賣神社。第十一代垂仁天皇の御世というから、かなり古い。姉倉比賣命は、この地に機織りの技術を伝えたと言われる女神様。

優しいけども、厳しい女神様。太古、だんなの伊須流伎比古が能登比咩と不倫をしたもんだから、船倉山の石を投げ尽くして、この辺りは大混乱になったとか。裁定を行ったのが、国津神系のトップというか、日本海側の大将である大国主命様。何故だか、姉倉比賣命が悪い(!?)ということで、能登の方からこちら(呉羽山)に流罪となったとか。流石、大国主命様!須勢理毘売命、八上比売命、奴奈川姫命等、日本海側の綺麗どころを総なめにしただけのことはある。スサノオさんの娘を正室にしておきながら・・・。女性側からすれば、理不尽な裁定ではありますな。(笑)

この神社は古墳の上にある。姉倉比賣を埋葬した古墳なのかもしれない。小高い丘の上に社殿があり、側には小さい公園がある。昔は子供らがここで遊んでいたんだろうなって思わせる雰囲気。優しい女神さまに見守られてね。近くには呉羽駅。20年くらい前に、一度だけ利用したことがある。その時に、”この駅を中心にそこそこの賑わいがあったんだろうな”って何となく感じたのを思い出した。自分が高校生の頃にそこそこ人々の中心となっていた駅って、今は無人駅の場合が多々。仕事や観光で他府県へ行っても、あるのはしま○ら、す△や、ガ□ト、青×。ホント、地方はどこも全く一緒の風景。何かにつけ富山マンセーな地元テレビや新聞、県民性が大々嫌いな自分が言うもの何ですが、小さい小さい集落や商店街の独自性と歴史は継承されて欲しいものだと切に思いました。


白山比咩神社

2018-03-11 13:40:29 | 神社 古代

白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)。白山本宮、加賀一宮。霊峰・白山を仰ぐ白山信仰の総本宮です。

ご祭神は、白山比咩大神、伊弉諾命、伊弉冉命。白山比咩大神は菊理媛命(くくりひめのみこと)と同一神とされている。記紀本文には登場せず、「日本書紀」の一書(第十)に一度だけ出てきます。一般的に縁結びの神として有名ですが、シャーマンとも、この世とあの世を取り持つ神とも。黄泉の国で、伊弉冉命を追ってきた伊弉諾命に何かを囁いたそうですが、何と言ったのかは不明とのこと。謎多き女神様です。

 っで、ここを参拝させて頂くのは三度目なのですが、三度目で漸く。正直、前回、前々回、特に何ともという感じだったのですわ。今回は、”いい感じやな~、優しいな~。”って思いました。他のメジャーな神社の場合でも、自分の中で、”ん~、特に・・・”と感じた所はこれまでもブログに載せていません。考え様によっては、俺ごときが失礼な話ではありますが。今回、漸く受け入れて頂いたという感じですかね。女神様だから、雰囲気が柔らか過ぎるんかな~。

もっとも、神宮であっても、初めて訪れた時は、入社一年目の慰安旅行で、バスの中でグダグダに飲んでいて崇敬の念も知識も無いままに参拝。当然に感慨も感謝の念も無し。結果がこの二十数年のサラリーマン人生というか、俺のブラック歴史ですがね。(笑)要は、自分の心の持ち様ですねえ。抜け出さねば!

 ここの表参道は、良いですよ。今はまだ雪が残っていましたが、夏とかはこんな感じです。↓↓↓

 川の近くということもあるのでしょうけど、雄山神社・前立社壇の参道に似ている感じ。そちらは明らかに男神の雰囲気が漂っていますが。


劔神社 19年ぶり

2018-03-04 17:36:31 | 神社 古代

劔神社(つるぎじんじゃ)。別名は織田明神。織田信長というか、織田一族発祥の地です。福井県丹生郡越前町織田にある。

19年前、自分が今の様な神社ヲタでは無かった頃、生後6ヶ月の息子を連れて参拝しました。そんな赤ちゃんを連れて、何で態々ここまで来たのか、目的は覚えていません。今、愚息が春休みで帰郷しており、ここまで無事に成長したことへのお礼参りの思いで、19年ぶりに参拝しました。

織田氏がここの神官であったことは歴ヲタであれば割と当たり前に知っていること。織田氏は元々忌部氏。忌部氏と言えば古代国家では祭祀に関わる一族。”信長は神仏を信じない合理主義者”というのは、あまりにも薄っぺらで一方的な見方。この劔神社、熱田神宮他、多くの神社に寄進しているし、寧ろそっちの知識については他戦国大名より深かったのでは?

 当然、 五つ木瓜(織田家の家紋)が見られます。ご祭神は、素戔嗚大神、気比大神、忍熊王。第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王がこの地を治める時に、素戔嗚大神が夢枕に立ったとか。そこで、忍熊王が座ヶ岳の峰に素盞嗚大神を祀ったのが劔神社の始まりということですが、要は古代日本各所に見られる神奈備信仰が元と推測。御霊代は第十一代垂仁天皇の御代に、伊部臣という人が造られた劔です。

 本殿も良い気が満ちていますが、拝殿から左横へ行った猿田彦大神を祀った社殿周辺の杉林がとても清々しい気でいっぱいでした。俺、こういう場所が好きなんですよ。神奈備(かなび)、神籬(ひもろぎ)、磐座(いわくら)、神道の原点ですわ。

 19年前、まだ自分は空手をやっていたので、息子には強い男に成って欲しいと願ったのか、或いは、信長にあやかって偉い人になって欲しいと思ったのか、そんな感じでこの劔神社を訪れたのでしょう。正直、何を願ったのか全く覚えていません。何はともあれ、彼は健康に健全に育ってくれて、有り難い事です。


雄山神社 前立社壇

2018-02-22 19:41:12 | 神社 古代

雄山神社は、立山山頂の峰本社、芦峅寺の中宮祈願殿、岩峅寺の前立社壇の3社からなります。今日は、本社へ寄った帰り道に前立社壇に参拝。

まあ、帰り道と呼ぶにはちょっと方向が違いますがね。昨年に鳥居が新しくなりました。

ここ数日で雪も割と溶けた様ですが、まだまだ残っている。夕方、暗くなり始めた時間帯、雪の中に優しげに灯る灯篭の明かりは、なかなかに玄妙な感じです。

肌寒さが寧ろいい感じの清涼感となる空間。”神道は宗教ではなく縄文期から日本に息づく自然崇拝”だとか、いやいや、”現代のそれは明治以降の国家神道であって本来のものと違う”とか、神社の有り方についても賛否両論いろいろ目にしますが、神社というか神道はその場へ行くことが、その場を大切にする気持ちが第一義であると思っています。一時期、各地の神社についての御由緒、ご祭神について詳しく調べた時期もありましたが、今はその空間、場所そのものを感じとれれば、それだけで満足。雄山神社のご祭神は、伊邪那岐神と天力雄神とされていますが、雄山そのものが神で良いではないですか。

神社巡りをするようになって結構経ちますが、2年程前から、ホント、神社では全くお願い事をしなくなりました。下世話な願いや邪(よこしま)な思いがいっぱいで、俺なんて穢れの塊みたいなもんですが、そこに居る時だけは、不思議なくらいに自然に、その場にいること自体がただただ嬉しく有り難いみたいな。なんか、上手く表現できないけど。


倭姫宮

2017-12-31 12:38:29 | 神社 古代

過ぎてしまえばアッという間の一年間。会社は厳しい状態ですが、僕個人としては、10数年ぶりぐらいに平穏な気持ちで過ごすことが出来た年でした。あと数年、目立たず、騒がず、注目されずにフェイドアウトしていくことを望むばかりです。今年も、数々の神社を参らせて頂く機会に恵まれました。八百万の神々を詣でることで平穏に過ごすことが出来た、いや、そもそも、神社へ行ける時間が得られたこと自体、天神地祇のご加護に感謝です。ので、今年最後も神社のお話で締め。

倭姫宮です。倭姫命を祀ってある。内宮の別宮であり、外宮と内宮を結ぶ御幸通りに面しており、側には皇學館大學、神宮徴古館がある。

崇神天皇の時代に国中に疫病が流行り、それまで宮中に祀ってあった天照大神の御魂を恐れ多いとして、豊鍬入姫命が笠縫村に磯堅城の神籬を建てる。その跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国、近江等をまわり、御神託によって現在の伊勢神宮・内宮の地に天照大神を祀った皇女。伊勢に鎮座するまでに、天照大神のご神体を奉じた場所を元伊勢というわけです。

12月初旬の夕方。静かで優しげな感じでした。倭姫命の旅が斎王制度の起源とも言われています。某神社関係の有名な方の講演で、”壬申の乱で 大海人皇子(後の天武天皇)が進軍した道順が、倭姫命の順路と丁度逆である”なんて裏話を聞きました。日本武尊命が東征の際に、神剣(天叢雲剣/草薙剣)を渡したのも倭姫命。神宮皇后等に比べれば、華奢で優しいお姉さま的な女性を連想してしまうのだけど、古代史において重要人物であったろうと思わる。倭迹迹日百襲姫命同様に、倭姫命に古き良き大和撫子を想像してしまうのは自分だけだろうか。 

っとまあ、ここ1.2年で訪れた場所に絡む部分はリンクにしてみたのだけど、結構、行かせてもらったな~って思います。ありがたいや(笑)。


皇大神宮

2017-12-11 22:12:42 | 神社 古代

皇大神宮。観光客が伊勢神宮と呼ぶのは、ほぼこの内宮。”神宮”と言えば伊勢神宮を示し、外宮内宮をはじめ、倭姫宮、伊雑宮月夜見宮、他摂社、末社を含めて125社の総称である。太陽神・天照大御神様を祀る。これまでに何度も参拝させて頂いているので、もう写真撮るのは止めようと思って参ったのですが、日の光が余りにも神々しいので・・・。

この時期、宇治橋から登る日を撮る観光客が多いって聞いていたもんだから、少し時間をずらして行きました。それでも凄かった。平日の参拝者は少なく、澄み切った空間に神秘的に陽が射しこむ。

毎度、御正殿と荒祭宮しかお参りしないのですが、今日は風日祈宮や大山祇神社等、ゆっくりと時間をかけて全部、参拝しました。

風日祈宮橋から。

御正殿の近く。やっぱ、人間は陽の光を浴びて天地の神秘を感じるというか、こういう時間を頂いたことに感謝です。


神都にて

2017-12-10 19:19:48 | 神社 古代

浅見光彦シリーズで有名な内田康夫さんの推理小説で、「夏泊殺人岬」というのがある。もう何十年も前の作品ではあるが。これは、伊勢にある皇學館大学・雅楽部の夏合宿で殺人事件が起きるという話。(作品中では”皇習館大学”としている。”精華寮”はそのままで書かれているけどね。)

皇學館大学。私の知る限り、太平洋戦争後にGHQによってお取り潰しにあった唯一の大学のはず。柔道、剣道は武道からスポーツに化けることで何とか生き残ったのだが、神道についてはそういう訳にもいかなかったのでしょう。1962年に吉田茂を学長として私立大学として再興する。”小さくても良いから、日本の良き精神を伝える大学であってほしい”的なことを吉田茂が言ったとか。

外宮、内宮を結ぶ道路の丁度真ん中辺りに、皇學館大学はある。この道、大学駅伝の時は大盛り上がりだったんだろうな。

小説の中では、---伊勢神宮に隣接する倉田山という台地の広大な敷地に建てられている。緑に囲まれた立地条件はもちろんだが、伊勢という土地柄そのものが、きわめて「教育的」であるといえる。-途中略- 卒業後の就職先が教育者であり神職であることを考えれば、そういうまじめ人間であってもらわないと困るのだけれど・・・・・・。その「きびしさ」の象徴のひとつに寮規則がある。---と書かれている。では、今現在の皇學館大学は、雅楽部は、リアルどうなんだろう。ということで、本日、皇學館大学・雅楽部の第41回定期演奏会を拝聴。

初めて雅楽というものを拝聴しましたが、あっと言う間の2時間でした。良いです。俺は好きになりました。難しい事は解らなくても、なんつ~か日本人の心に響く音色というか。皆、姿勢正しくきびきびと動き、且つ、優美です。旋律というのか、メロディーラインっていうのか、正式には何と呼ぶのか知らないけれども、予想していた以上に普通に入って行けました。

 蘭陵王。”かっこいい!”の一言に尽きる。剣指って言うのだったっけ?人差し指と中指を立てるやつ。安倍 晴明が”急急如律令!”ってやる時とか、中国の剣舞とかでもやるよね。剣指を立てながら雅楽に合わせて舞う姿は、何度も言うけど、ホント、”かっこいい!!”だってばよ。

最後の部長さん?(委員長さん?)のあいさつが、年甲斐にも無く聞いていて私も貰い泣きしそうになった。吉田茂の時代とも違う、「夏泊殺人岬」の時代とも違う。でも、彼ら彼女らは、確実に日本の良き精神を受け継ぎ、育てていっているなって感じました。伊勢は、やはり神都です。神が住まう都。演奏会終了後、倭姫宮、外宮と参拝。明日は内宮を詣でてから、名古屋での仕事に向かう予定ですが、もう、伊勢に来るだけで幸せというか、ありがたい気持ちになりますねえ。

地ビール・神都。美味し。ありがたや。

これで止めておけばいいのに、地ハイボール・イセシマ&ステーキ。やっぱ、酒飲みは人間のクズということで(笑)。

 


断古山古墳・白鳥古墳

2017-11-14 21:12:03 | 神社 古代

また、熱田神宮へ参拝。生憎の雨、というかドシャ降りに近い感じです。熱田さんは3回目なのですが、あまり天候に恵まれたことはありませんな。

とは言うものの、毎度、ここの拝殿で参拝している時、額の辺りが熱くなるんだよな~。

熱田神宮と言えば、みやきしめん。明日は年に一度の人間ドックなので、きしめんだけにしようと思ったのですが、見た瞬間に食欲が湧き、味噌かつどんも付けてしまった。弱いわ~。

境内にいた鶏。とても大きくて健康そう。石上神宮のそれに負けず劣らず。鶏は神様のお使いです。

熱田神宮から足を延ばして、断夫山古墳へ。全長150メートルの東海地区最大の古墳と言われていますが、住宅街の中の公園内にあり、”太古の云々・・・”という雰囲気は皆無です。寧ろ、ドシャ降りの人っ子一人居ない公園内をスーツにリュックで歩く50がらみのおっさん、そちらの方が奇異。宮簀媛のお墓説がありますが、おそらくは尾張連草香の墓らしい。

 白鳥古墳。ここも住宅街にぽつんとあった。日本武尊の墓とされていますが、ん~、たぶん、違うと思う。奈良の日本武尊白鳥陵もそうだけど、ヤマトタケルがらみの場所は、何だか哀しげなんだよな~。悲劇のヒーローですものね。