「小林秀雄の恵み」(橋本治著、新潮社)
これは、小林秀雄(1902-1983)のおそらく唯一の大著「本居宣長」(1977)を扱っている。
松阪の医者であり、ひたすら和歌が好きでそれを心ゆくまで詠みたかった学者でもあった本居宣長(1730-1801)が、「源氏物語」から「物のあはれ」の源である「古事記」にいたる。
「小林秀雄の恵み」は三重構造になっていて、近世人本居宣長の上記のような考え、プロセス、それを近代人小林はどう見たか、またなぜ宣長についてこのような本を書く必要があったのか、そうしてさらに戦後の人である橋本にとって、この小林とはどういう人なのか、である。
意外なのは、私とたいして歳がちがわない橋本が、若い頃ほとんど小林を読んでいないことである。現代国語の問題によく出たということもあるけれど、いっぱしの口をきくためには小林のいくつかの著作はとにかく目を通しておく、という感じではあったのだが。
「本居宣長」は、長いのとおそらく古文の引用が多いであろうということ、また宣長にそんなに興味もなかったということから、まず本を買わなかった。
今回、橋本のおかげで、どんな本だったのかなということはうかがい知ることが出来る。
橋本が何回も書いているように、小林秀雄の思想は、一言で言ってしまえば、「読むに価するものをちゃんと読め」であって、「読む」対象は文章ばかりでなく絵画も音楽もである。
そのことと、一心に「物のあはれ」に向かった宣長に、この本を読んだ私として違和感はない。しかし橋本も言うように、近代人であり、まさに戦前、戦中、戦後を生きた小林には、またいろいろ細かい、難しいところが出てくる。戦後の人である橋本は、そのややこしいところをえぐって、読むものにかなり明確に提示してくれるが、それでもわからないところは残る。また私からみれば橋本がどうしてこだわるのか理解できないところもある。
このかなりな大著を読み終えることが出来たのは橋本の筆力、そしてまさに宣長の「物のあはれ」と同様、ぶつかってそこから何かを書いていく(と私は思っているが)橋本ならではのスタイルのよさである。
これまで、小林の書くものは、その内容の細かいところはともかく、彼が全身全霊で感じ信じているとこちらに感じさせる肉声のような文体で私を圧倒してきた。小林が翻訳したランボー「地獄の季節」には誤訳も多いらしいのだが、その「声」に圧倒されてなんとなくわかったような気になった。
が、しかしその肉声はそうだが、それでこちらはどうしようか、ということはいつも残ったのである。
橋本の本を読むと、そうして残ったのは自然なのだということはよく理解できる。そう、そこから先は、読むものが自分で感じ、考え、生きていかなければならない。
またこの本で、日本における神、仏、について、小林の本に即して橋本がいろいろ書いていることは、大変興味深く、ああそうだったのかということが多かった。
ところで、吉田秀和は小林より一回り近く若いが、付き合いは深く、その人となりはかなり知っていたはずである。ところが、「本居宣長」を小林からもらって読んだものの、小林宅を訪れたとき「やっぱり私にはこの本はわかりません」と言ったそうである。さすが。
吉田はこのことを、かなり後になって2001年11月の朝日新聞「音楽展望」に書いている。ここで、同年のニューヨーク9.11のあと、吉田は「書くのが辛くてならない。それでも、いつまでか知らないが、私は書き続けるだろう。人間は生きている限り、自分の愛するものを力をつくして大切にするほかないのだから」と書いている。
その後、吉田の書く音楽評論は、これまでよりずっとより感じることに力点を置いたものになっているように思われる。何か「物のあはれ」の本質と重なって見えてくる。
そういうところに私を持っていってくれた「橋本治の恵み」に感謝すべきかもしれない。
次元の低い話で一つ、小林秀雄の恩恵に浴したことがある。
1965年、世界的な数学者岡潔と小林秀雄の対談「人間の建設」が、おそらく月刊「新潮」に掲載され、これもおそらく江藤淳が朝日新聞の文芸時評で絶賛し、すぐに本になった。読みたいと思いすぐに買って読んだら、直後に予備校の模擬試験に出てきた。現代国語がほとんど全部出来たのはあの時くらいである。それは自信までいかないにしても、一定期間は助けというか励みになるもので、今でもよく憶えている。