ベートーヴェン:ピアノソナタ 全32曲
ピアノ:フリードリッヒ・グルダ 1968年 アマデオ (amadeo)
32曲を3月30日から4月30日まで、毎日1曲ずつ聴いた。実は先にあげたハイドンの交響曲やベートーヴェンのピアノトリオ全曲も、ソナタに加えてたいていの日に一曲ずつ聴いたものである。
新型コロナで毎日在宅ということになり、暇はあってもさて何を聴こうかと考えあぐねるのは、楽しいことはあるが毎日となると面倒である。そこでこういうことにした。
ピアノソナタはベートーヴェン(1770-1827)が1795-1822の間に作曲したものだが、順に聴いていくと、なるほどそう来たかと感じることが多々あり、いろんな意味で共感できることが多かった。そして過去にそれぞれ単独で取り出して聴いた時より、理解はしやすかったと思う。
多くの傑作について、ここで各論は避けるが、特に面白いのは第1番(1795)から第18番(作品31の3)(1802)までのつながり。その一方、後半になると、作曲者もより高く評価され売れてきたのか、効果の大きいもの、生徒の練習用のものなど、ヴァラエティに富んでくる。それでも晩年の、普段は構えて聴く最後の5曲なども、いつもより親しみを持って聴くことができた。
こういう聴き方には、私にとっては、グルダ以外に考えられない。どこかで彼自身か語っていたと思うが、難しく考え解釈して弾くより楽譜どおりさらさら弾き飛ばしていけば音楽はそこにあるそこから出てくる、そいういう弾き方(中でも特に感じるのはブリオ)である。そしてそれはたいへんなことで、まさに作曲家はそうして弾いて効果も中身も確かに出てくる、そういう作り方をしていると考える。
先のピアノトリオでも、多少それに似た感を抱いた。
それでも好きなものをいえば、5番、6番、7番の作品10の1,2,3、「悲愴」、「月光」、第15番「田園」(この頬がゆるむようななんともいえないユーモア)など。
そして最後の5曲だが、今回特に感じたのはいつもはちょっと地味だと思っていた第30番(作品109)、作曲者晩年のプレゼントか?
また第29番「ハンマークラヴィア」、第31番、第32番などにある息も絶え絶えともきこえるところ、そういうところがあっても、全体として自己肯定でまとまっている感があったのは、こういう聴き方、グルダの演奏だからだろうか。
前から思っているのだが、第28番(作品101)の最後の方に、苦悩の果ての哄笑というか、「ケッケッ」と去っていき、こっちは「やられた」と感じるところがある。弦楽四重奏のいくつかの最後にもそういうところがあった。
実をいえば、32曲この聴き方は3回目、前の2回はおそらく20年以上前、仕事などできわめてつらい時だった。だから動機も、受け取ったものも違うと思う。その時はアナログレコードだから、順番のとおりにかけるのも、また盤面を裏返したりするのも手間がかかった。このCD9枚組には番号順に入っていて楽だった。
想像するのだが、グルダというひと、32曲を順に数日で引くリサイタル、苦もなくやってのけられた人ではないだろうか。
ピアノ:フリードリッヒ・グルダ 1968年 アマデオ (amadeo)
32曲を3月30日から4月30日まで、毎日1曲ずつ聴いた。実は先にあげたハイドンの交響曲やベートーヴェンのピアノトリオ全曲も、ソナタに加えてたいていの日に一曲ずつ聴いたものである。
新型コロナで毎日在宅ということになり、暇はあってもさて何を聴こうかと考えあぐねるのは、楽しいことはあるが毎日となると面倒である。そこでこういうことにした。
ピアノソナタはベートーヴェン(1770-1827)が1795-1822の間に作曲したものだが、順に聴いていくと、なるほどそう来たかと感じることが多々あり、いろんな意味で共感できることが多かった。そして過去にそれぞれ単独で取り出して聴いた時より、理解はしやすかったと思う。
多くの傑作について、ここで各論は避けるが、特に面白いのは第1番(1795)から第18番(作品31の3)(1802)までのつながり。その一方、後半になると、作曲者もより高く評価され売れてきたのか、効果の大きいもの、生徒の練習用のものなど、ヴァラエティに富んでくる。それでも晩年の、普段は構えて聴く最後の5曲なども、いつもより親しみを持って聴くことができた。
こういう聴き方には、私にとっては、グルダ以外に考えられない。どこかで彼自身か語っていたと思うが、難しく考え解釈して弾くより楽譜どおりさらさら弾き飛ばしていけば音楽はそこにあるそこから出てくる、そいういう弾き方(中でも特に感じるのはブリオ)である。そしてそれはたいへんなことで、まさに作曲家はそうして弾いて効果も中身も確かに出てくる、そういう作り方をしていると考える。
先のピアノトリオでも、多少それに似た感を抱いた。
それでも好きなものをいえば、5番、6番、7番の作品10の1,2,3、「悲愴」、「月光」、第15番「田園」(この頬がゆるむようななんともいえないユーモア)など。
そして最後の5曲だが、今回特に感じたのはいつもはちょっと地味だと思っていた第30番(作品109)、作曲者晩年のプレゼントか?
また第29番「ハンマークラヴィア」、第31番、第32番などにある息も絶え絶えともきこえるところ、そういうところがあっても、全体として自己肯定でまとまっている感があったのは、こういう聴き方、グルダの演奏だからだろうか。
前から思っているのだが、第28番(作品101)の最後の方に、苦悩の果ての哄笑というか、「ケッケッ」と去っていき、こっちは「やられた」と感じるところがある。弦楽四重奏のいくつかの最後にもそういうところがあった。
実をいえば、32曲この聴き方は3回目、前の2回はおそらく20年以上前、仕事などできわめてつらい時だった。だから動機も、受け取ったものも違うと思う。その時はアナログレコードだから、順番のとおりにかけるのも、また盤面を裏返したりするのも手間がかかった。このCD9枚組には番号順に入っていて楽だった。
想像するのだが、グルダというひと、32曲を順に数日で引くリサイタル、苦もなくやってのけられた人ではないだろうか。