「ホテル・ルワンダ」(Hotel Rwanda 、2004年、英・伊・南ア、122分)
監督:テリー・ジョージ
ドン・チードル、ソフィー・オコネドー、ニック・ノルティ、デズモンド・ヂュベ、ホアキン・フェニックス、カーラ・セイモア、ファナ・モコエナ、ジャン・レノ
内戦の激動と、その中の人々、彼らの葛藤を、偏った思い込みなく、しかも映画として見るものの興味をそらさないうまい作りで仕上げた、傑作。
意外であった。オスカーでいくつもノミネートしながら日本に配給されないため運動がおこりようやく公開されたというのが、信じられないくらいである。
1994年、ルワンダで先に権力を持っていたツチ族がフツ族に追い立てられるが、多数派のフツ族にまたツチ族が反乱を起こす。フツ族は民兵を使って暴動を起こし、内戦状態となり、この舞台となるベルギー系ホテルをとりまく外国人、ツチ族、穏健派フツ族、孤児などが窮地にさらされるが、ここの支配人ポールは、達者な口、金や酒といった賄賂など可能なあらゆる手段を使って、最後は1200人を脱出させた、という実話が、映画の下敷きになっている。
ポールはフツ族だが、おそらく西欧で教育を受けている、そして妻は実はツチ族で、子供もおり、妻の兄弟も危機にさらされている。
この職務上の良心と、家族を守る義務という二つの軸を、最初は持ち前の交渉力とフットワークで切り抜けていく。
そして、ここが状況の難しさなのだが、ここには国連が駐在しており、建前はフツ族の政権も外交官、外国人が多いホテルはヘイヴン(避難所)としてあつかい、国連の軍人にも手をださない。しかし、民兵を全てコントロールすることは出来ない、これを利用していることも明確である。
それらの間で、常に自分達の有利な面を引き出すよう、ぎりぎりの行動を支配人ポールがするところが、この映画のスリル、面白さとなっている。それでも妻との間では、価値観の違いが出るときもあり、二人の間に亀裂が走る。
ポールを演じるドン・チードルが、その風貌も役柄にぴったりだが、うまいし、見ているものが無理なく彼の身になっていける。あまり動じない彼が、緊迫した場面の後に気を引き締めて仕事に戻ろうとネクタイを結ぼうとする、上に来る部分がちょっと短い、結びなおしているうちに震えがきて放り出してしまう。印象に残る場面だ。
その一方、海外への訴えが功を奏し、一部の人たちが出国を認められることになり、彼と彼の家族も含まれ、車に乗るが、皆の最後に乗ろうとしたポールは近くの男に家族を頼むと耳打ちし荷台を閉めて後に残る。
このあたりは普通なら、もっと表情のアップ、家族との修羅場を作るところだが、彼の演技と耳打ちする後ろからのカメラ、両方ともうまい。これで見るものには充分だ。
妻役のソフィー・オコネドーのしっとりした感じもいいし、部下、フツ族の将軍など、皆なかなかである。
あと有名俳優が三人でているけれども、ホアキン・フェニックス(カメラマン)、ジャン・レノ(ホテルの欧州本社社長)は、友情出演か。
中では国連軍大佐のニック・ノルティが面白い。ちょっと現地をばかにした感がある登場のしかた、それもちょっとアル中風のくせのある男。ところがこれが職務で暴徒から移動する避難民の車を守る段になると、少しもたじろがない軍人となる。この人はいつも予想と違う演技をする。
これを見ていると、この国に内戦が起こった端緒には、ベルギーがツチ族の政権を最初は後押したことがあり、その後いろいろな対外関係はあったのだろう。そして一時停戦となり、国連が入ったものの、それだけで安定は保てず、結局大量虐殺が起こった。
この映画の冒頭に、コソボ紛争時のクリントン大統領に関するニュースが象徴的に流れるが、このときは米国で従来反戦運動をしている人たちから、むしろNATOなどの介入が求められたということを読んだ覚えがある。
介入しないで、国連が仲裁というだけではいかないことも多いのだろう。
クレジットで流れる歌に、アメリカ合衆国があり、ブリテンという連合王国がある、アフリカ連合国は不可能なのか、という歌詞がある。
原始から各部族の生産力が上がってくれば、争いはおきるだろうが、もし武器が鉄、火縄銃、近代の銃と徐々に変ってきたならば、その間に戦い方とその収め方を学ぶこともあるいは可能だったかもしれない。
が、それが先進国からあまりにも性能のいい武器が、そして移動手段、通信手段が急速に入ってきてしまった。多くの悲劇を避けるためには、外部の介入も必要という理屈になってしまう、ということを、この映画も教えているようだ。
最後、なんとか逃れていく国連軍と避難民の車がかき分けていく難民たちに、銃火が襲い、多くが倒れていく、映画はこのシーンをしっかりとつけ加えている。支配人が英雄というわけではないというように。
戦時のこの種の話はいくつかある。その映画化で大事なことは、作り手の冷静さだろう。完璧な行動、正義などはない、どうやっても次善ならいいほうである、ということだが、映画作りでこれに耐えることはそんなにやさしいことではないはずだ。