メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

嵐が丘とフランケンシュタイン

2020-07-16 11:21:18 | 本と雑誌
「嵐が丘」を前回アップしたとき、物語の構造などについて「批評理論入門」が「フランケンシュタイン」を分析対象にしたと書いた。そしてこの二つを比較しようとおもっていたが忘れてしまったので、以下に少し。
 
フランケンシュタインも作者が三人称で著述したものではなく、話者を設定したものとなっている。こちらの方が嵐が丘よりかなり前である。
 
一人の青年が冒険航海に出発してから帰路につくまで、姉に書いた何通かの手紙がもとになっていて、そこで出会ったフランケンシュタインの告白、さらにその中に出てくるフランケンシュタインが創った怪物の告白など、いくつかの明確な入れ子構造になっている。
 
これは、青年間借り人が二つの家の使用人をつとめた女性から聞いた話と対応しているように見えるが、こっちの方はその女性の話に登場する人物が語るところは、舞台の台詞程度のもので、そう長くはないから、単純といえば単純である。描写の良しあしもこのほぼ一人の語りの中であればそう気にならないし、時間が飛ぶところも話者の都合のようにとってしまう。
 
また男女間の感情のやりとりについては、性が感じられない嵐が丘に比べ、フランケンシュタインに違和感はない。作者メアリーは十代で詩人シェリーと駆け落ちしたくらいだから、不思議はないだろう。そして父親は自由主義思想家だったから、当時の社会的な思潮、その背景なども的確に出てくる。
 
さて、ここからが問題で、このように陳腐な言い方をすれば浮世ばなれした嵐が丘のどこが気になる、引っかかって頭に、心にのこるのか、ということである。
 
前回も書いたけれど、やはりキャサリンとヒースクリフのキャラクターと関係、特になぜキャサリンがあのようにされながら、最後までああだったのか、というところだろうか。その描き方は必然的にあのようになったのだろうとは思うけれど。
女性はちがう受け取り方をするかもしれないが。
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