メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

トルストイ「イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ」

2024-10-15 16:01:21 | 本と雑誌
レフ・トルストイ: イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ
            望月哲男 訳  光文社古典新訳文庫
このところプーシキンから始めて、ドストエフスキーとチェーホフのいくつかをのぞき親しんでいなかったロシア文学を続けて読んでいる。今回はトルストイ(1828-1910)が1886年と1889年に書いた上記二作、時期的には「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」のしばらく後である。
 
私の若いころからどうもトルストイはその博愛主義、禁欲主義が表に出ていて(とにかくそういう印象だった)敬遠していた。それでも「戦争と平和」は読んでおかなくてはとかなり歳をとってから読んだが、あの映画化などされている部分はストーリーの一部で大部分は露仏戦争の叙事的な記述で読み進むのもしんどく、評価も難しかった。「アンナ・カレーニナ」は映画で見て何か類型的「無理な男女愛」の印象で、原作を読むに至ってない。
 
さて今回の二つの中編、「クロイツェル・ソナタ」というタイトルは何故?と以前から疑問に思っていたことがきっかけである。
 
まずはイワン・イリイチ、これは同年代の法曹界の仲間が集まり話をしているとき、彼らの同僚である判事イワン・イリイチの訃報が入る。家族への弔問、人事への影響などの話の後、作者はイワン・イリイチ生涯の物語を始める。
 
45年の生涯、まずまずの家系に生まれ、法律家としてまずまずの昇進、結婚生活も必ずしもすべて満足ではなかったが大した破綻もなかった。その彼が体調をくずし医者の診断はすぐに明快にはならなかったがどうもあまり望みがなさそうになってくる。
 
そうなってからの、死に対する観察と思い、これまでの人生つまり仕事、家庭はどうだったかがぐるぐると何度も繰り返し駆け巡る。鬱といえばそうだがこうなってみると無理ない頭のなかの動きなのかもしれない、これを作者は詳細にえがいていく。
 
私が読んてきた範囲でいうと、この国の文学でそれまでこんなに作者が登場人物の内面を外から詳細にえがくということはなかったように考える。それは読む側からすると、作り物に見えてしまうところがあって、こちらに対して相反する効果を来たす。読み終わってみると、そうだろうなとは思うが、衝撃とまではいかなかった。
 
さてクロイツエル・ソナタ、トルストイは禁欲主義をとなえながら、自らの強い性欲になやみ、結婚生活では13人の子供をもうけている。
 
この小説では作者と思われる一人称の語りで、長距離列車のなかで出会った一人の男が語り始める。この男が世に知れた話の主人公、かなり地位のある地主貴族だが、嫉妬がもとで妻を刺し殺した本人だという。どうしてこういうところに出てきて話ができるのか、不思議なところだが、ともかくこれがすべてである。
 
この男、まず男の強い性欲と結婚制度の不適合について、延々とかたる。性欲を結婚家庭にとじこめ、特につぎつぎと子供が生まれると、夫婦ともどうなのかということである。このひと、夫婦でいろいろあった挙句、だいぶ平静になったと思ったら少しピアノが弾ける妻があるヴァイオリン弾きと知り合い、パーティで演奏するという計画が持ち上がる。これを知った男(夫)は妄想ともいうべき嫉妬を宿し、それも演奏が予定され二人が練習に入った曲のなかにクロイツェル・ソナタ(ベートーヴェン)が入っていることから、その始まりのところにある切迫的なパッセ―ジを二人の仲を示すもの、強い影響を与えるものと解釈し、音合わせの現場に乗り込んで妻を刺し殺してしまう。ヴァイオリン弾きは逃げおおせた。その後どういう審理で男がこの汽車で旅ができるようになったのかはわからない。
 
さて作者の主張は一応わかるが、これが一般の人の実生活に反映されるかどうか、発表時随分議論が巻き起こったようである。
 
ところでこのクロイツエル・ソナタというタイトル、私は気に入らない。切迫感、性愛を刺激するというのは一方的な受け取り方で、それはこのソナタに失礼だろう。優れたヴァイオリニストの演奏ではもっと柔らかく広がった迫力が感じられるのだが。たとえばダヴィッド・オイストラフ。


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