メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

ジェイン・オースティンの読書会

2008-06-07 18:46:34 | 映画
「ジェイン・オースティンの読書会」(The Jane Austen Book Club、2007米、105分)
監督・脚本:ロビン・スウィコード、原作:カレン・ジョイ・ファウラー
キャシー・ベイカー、マリア・ベロ、エミリー・ブラント、エイミー・ブレネマン、ヒュー・ダンシー、マギー・グレイス
 
カリフォルニア州サクラメント、独身で最愛の犬をなくした友人(マリア・ベロ)を元気づけるために、5回の結婚経験がある女性(キャシー・ベイカー)は読書会を思いつく。テーマはジェイン・オースティンで、女五人、男一人で始まる。オースティンの長編は六つで、読者の男女比率を考えれば、それにあわせた設定だろう。そして一ヶ月一作品、担当を決めて進めるうちに、その作品にかかわる問題がその担当ばかりでなくそれぞれに持ち上がっている。離婚したばかりだったり(エイミー・ブレネマン)、同性愛者(マギー・グレイス)、ゲーム・スポーツ好きの夫を持つ高校のフランス語教師(エミリー・ブラント)が教え子と仲良くなりそうだったり、ただ一人の若い男(ヒュー・ダンシー)はいい性格だがなかなか居所が定まらない。
 
この原作が翻訳され評判になっていることは知っていた。ただ、アメリカのこういう話だと、東部のスノビッシュな話ではないかと敬遠していた。そこで映画ならと見たら、西海岸のきわめて現代的なテンポのいい、コメディの要素もあるアメリカ映画であった。 
 
この顛末の背景にもはや神はいない。何でもありの物語である。それでもドラスティックな、目を覆うような結末にはならないのは、登場人物が自分に素直なばかりでなく、そこに抑制、節度が出てくるからである。神がいないところで、読書会をやっていて、ジェイン・オースティンだからそういう節度が、というのはいくらなんでも、なのであるが、これは映画と思えば、やられてしまったの感があって、後味はいい。
 
そうまさにここでは「分別と多感」なのである。
この人たちのようにオースティンを読み込んで頭の中に整理していれば、もっと面白いのだろうが、読んでいなくても理解できなくはないようには出来ている。
 
実は六つの長編のうち、これから読む予定になっている「マンスフィールド・パーク」以外は全部読んでいるのだが、すべて一回だけであるし、彼女の作品はよく似ているところがあるから、どれがどれだかわからないことが多い。
それでも「分別と多感」は映画「いつか晴れた日に」を見たし、「高慢と偏見」はTVドラマ(BBC)、映画「プライドと偏見」、さらにこれを下敷きにしている「ブリジット・ジョーンズの日記」を見ているから、この二つはなんとか今回もところどころで、「ああそうだな」と納得した。
 
役者はほとんど知らない人たちで、6人のうちだれが主役というわけではないけれど、演技の鮮度ということではエミリー・ブラントが目についた。彼女、「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」では目立たなかったが、「プラダを着た悪魔」ではなくてはならない役と演技だった。
 
監督のロビン・スウィコード(女性)は、これまで多くの脚本を手がけてきた人で、監督は今回が初めてだそうだ。最初は細かい書き込みが多すぎるようで追いかけるのに手間取ったが、後半からは見事。ただ、結末のさらに一年後は余計なエピローグではないだろうか。
 
渋谷文化村ル・シネマの最終日、単館上映だからか見逃してしまいそうだった。前日に「河野通勢展」(松濤美術館)からの帰り、文化村の前で看板を目にし、なんとか翌日見ることが出来た次第。通勢に感謝しなければなるまい。
 
ところで、
エイミー・ブラントの夫役がオースティンのことは何も知らず、名前をきいてアメリカ南部の都市のことかと思った、という台詞がある。
ところが作者はAustenで、地名の方はAustin、昔あったイギリス車の綴りもAustinである。今回はじめて気がついた。

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河野通勢 展 

2008-06-05 17:25:21 | 美術

大正の鬼才 河野通勢 新発見作品を中心に」(6月3日~7月21日)
渋谷区立松濤美術館
 
河野 通勢(みちせい)(1895-1950)の作品は、1999年1月に東京ステーションギャラリーの展覧会である程度まとめて見た。またダ・ヴィンチ「モナリザ」の構図を借りた「好子像」は東京国立近代美術館でなじんでいる。
 
しかし、通勢が長野市から東京に出てくる前、20歳前後の3年間(1914~1916)の風景画について最近多くの素描などが発見され、注目が集まり、新しい評価も出てきたようで、今春から展覧会が巡回している。
 
そういうことも頭の中にあるからか、この長野市裾花川周辺の風景画は、その細密なことがまさに「神は細部に宿る」であって、それは立体的な見え方になるし、さまざまな登場人物とあいまって個性的なものとなっている。彼がギリシャ正教徒であることもあるのだろうか、これはちょっと奇怪な感じもあるけれど、描写の迫力から無理ないなとも思わせる。
岸田劉生の切り通しの絵を思い浮かべると、確かにそれにも通じる。しかし、通勢が劉生を真似たわけではない。
 
そして岸田劉生を知り上京、自画像が多くなるが、これらはある水準に達してはいるものの、やはり劉生に比べると優劣ははっきりしている。また長野時代に出会い通勢が影響を与えた関根正二と比べても、さまざまな人物画、宗教的な絵など、関根に及ばないだろう。
 
そうして「新しい村」への参加、挿絵画家としての成功となっていく。
もちろん、一時期の天才的表現のあと、こうしてつきものが落ちたようになって世間的には幸福になったことは一つの人生であって、絵の評価とは別のことである。
 
そんな風に、画家の生涯全体を多面的に考えさせる、良い企画展であった。


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エレーヌ・グリモーの皇帝(サントリーホール)

2008-06-04 17:37:36 | 音楽一般
ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
ブルックナー 交響曲第7番(ノヴァーク版)
パーヴォ・ヤルヴィ 指揮 フランクフルト放送交響楽団
ピアノ : エレーヌ・グリモー
(2008年6月3日(火) サントリーホール)
 
今回はグリモーの音と姿を確かめた、というべきで、CDの同じ「皇帝」と比較してもしょうがないところはある。
グリモーだけは一度は生でと思いついたのだが、チケットを求めたとき、よく見える席が一階最前列の右側、ピアノから数メートル、2メートル前にはチェロがずらりとならぶという、オーケストラを聴く席としては初めてのところであった。
 
グリモーの手は見えないが、顔(表情)と脚(ペダル)はよく見え、ピアノの底板もくっきり見える。従って、協奏曲全体を俯瞰的に聴くというよりは、ピアノの直接音と低弦中心に聴くということになる。
しかし考えてみると、ピアニストや指揮者が聴いている音には案外近いのかもしれない。
 
さてこの日のグリモー、出てきて腰掛けたときから、体調、機嫌ともよさそうで期待が高まった。出だしは録音よりは肩の力が抜けており、あくまでオーケストラ・コンサートでのピアニストの立場という感があった。
 
この人、「皇帝」が好きなんだろう。この第1楽章は、こうしてこうなってと聴くよりは、ピアノとオーケストラがうまく絡みながら共同で美しい世界を紡いでいくというところがいいのだが、神は細部に宿るとでもいうように一つ一つの部分を丁寧に、そしてかなりはっきりとした強い音で弾いていた。低い方から高い方に駆け上がるフレーズの途中できらりと強く輝くところは、普通よりも、女性歌手がファルセットに変るように感じたのは、こちらの思い込みだろうか。
 
第2楽章の静謐、聴衆を集中させたのも彼女の力だろう。そして第3楽章の入りからフィナーレも見事だった。
 
この後休憩だから、もしかしたらアンコール、この曲のあと、彼女ならショパンじゃあるまいしバッハの短いものかと思いきや、なんとベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番(作品109)の第1楽章、素晴らしいプレゼントであった。
 
ところで彼女、写真より実物のほうが数段美しい、特に目の表情が。ペダルは控えめだった。
 
ブルックナーはこの席のせいもあって、低弦と金管が鳴ったとき、他の楽器はあまり聞こえず、味わったとはいえないが、苦手なブルックナーの中では比較的親しんでいる第7番、なんとか聴けた。しかしよく聴いているハース版とはやはりどこか違っているようだ。パーヴォはこれまで北欧系の曲をCDでよく聴いていたヤーメの息子、父親よりは今日のレパートリーなどに合っているようだ。もうこういう世代の時代なんだろう。このオーケストラの団員だってほとんど私より年下である。
 
こういう本格的なコンサートは随分ひさしぶりで、驚いたのは終演後に並ぶとサインがもらえることだった。コンサートに来てもらって、CDも買ってもらっての演奏者とはいえ、グリモーとヤルヴィは1時間近くサインしたと思う。それに会場のクローズも遅れるわけで、これは公立のところなら無理だろう。サントリーホールならではだろうか。
 
二人ともにこやかにサインしてくれた。

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