「安部公房とわたし」 山口果林 著 (2013年 講談社)
安部公房が死んだとき、それは女優山口果林宅であった、ということは知らなかった。芸能ゴシップには疎くはなかったはずだが。
それはともかく、安部公房についてはもちろん知ってはいるものの、その作品については映画「砂の女」を見たくらいであり、山口果林についてもNHK TV 朝の連続ドラマ「繭子ひとり」、そしてかなりたってからフジTV「天上の青」(原作 曽野綾子)での死刑囚(白龍)役と交流する主人公くらいしか覚えていない。
演劇は音楽、美術に比べるとあまり見聞きしておらず、唯一三島由紀夫の作品を若いころ続けて見に行ったくらいである。また著者の出演リストを見るとTVドラマにはずいぶん出ているのだが、その多くが2時間サスペンス、時代物で、あまり見ないジャンルである。
それでも本屋で手に取って少し斜め読みしたときに、これは読みたいと思った。
こういう本だと、その波乱が多かった時間について、誰か相手に何か言っておきたい、自分の行動の正当性を主張したい確認したい、となりがちだが、ここではそういう記述になってない。
1993年の作家の死から20年近く経ったということもあるだろうが、細かい一つ一つの事実、記録をたぐり、かなり落ち着いて自然体に記述が進んでいく。
他人との関係がどうだったからではなく、これはこういう自分の半生なんだ、ということ、それは読むものにつたわり、おそらく読むものにもこれからについて何らかの思いをきたすだろう。
それと、二人のわがまま、意外に俗っぽい好奇心やこだわり(いわゆるモノや車をはじめとして)、これらが二人のいきいきとした描写になっている。
著者は私より一つ年下で、中学高校は御茶の水附属、私も都心近くの私立だから、この時期と大学に入ってからあたりのいろんなことの記述は、ああそうだったねと妙に納得できるものがある。
それは同じ学校の2年先輩でそのころちょっと面識もあった川本三郎さんが亡き夫人(川本恵子)について書いた「いまも、君を想う」にも感じるのだが、今回の本の方がより強い。
あのころ、音楽、アートに限っても、日生劇場、西武の辻井喬(堤清二)の仕掛けとその交友、はいつも注目していたし、その価値があった。
そういう中で、萩原延壽の名前がこの本に出てきたのは意外だった。幕末から明治にかけてこの人が書いたものはずいぶん読んだけれど。
そう、自分について書くということは、鏡に向かって自画像を描くことであり、誰に読まれてもいいという前提で書くことであり、その結果が、文学・出版という分野での評価などとは関係なく、その人の文体なんだ、とあらためて思った。
著者に感謝したい。