日本ヨーガ学会

ヨーガ的生活

こだわりにはワケがある!

2014年06月05日 18時43分42秒 | 思うがままに
昨日まで暑い日が続いていましたが、今日はホッとひと息と言ったところでしょうか?

でも私はどんなに暑くても夏が好きです。

前から気になっていた和服。そんなに高価なものではないにしても、思い出が詰まったものでした。しかし、いさぎよく処分。驚いたことにウェディングドレスまで後生大事にしまい込んでいました。これも処分。

昨年末には本をダンボール6箱処分。しかし、今はそれ以上に増えてしまいました。
何のことはない。ただ本が入れ替わっただけ...。

この癖は、ほとんど病気です。(笑)

ひょんなことから般若心経を真剣に読みたくなりました。
般若心経は人気度が高い経典ですが、謎の経典でもあります。

その解釈は『ヨーガ・スートラ』と同じくらいさまざまです。

たとえば、ニローダという語です。

日本で古来もっとも知られ、読まれていた般若心経の漢訳では「滅」。

この漢訳語でニローダは誤解をされたようです。

チベット訳では「制する」。
つまり、チベット人は「滅す」ことではなく「制する」という意味に解しています。

また、原始仏教聖典の中の古い詩によれば、ニローダとは「制する」とハッキリ書かれているようですから、せっかくホームヨーガ提唱40周年を記念して、『ヨーガ・スートラ』を世に送り出すなら...と、トコトンこだわり妥協しなかった経緯はそこにあります。

パタンジャリは究極の心の平安を『ヨーガ・スートラ』という一冊にまとめました。

お釈迦さまも思考と感情の産物である欲望の消滅を目指したものの、欲望を力ずくで抑え込む苦行や、思考と感情を停止状態に持ち込むことが、最終的な解脱をもたらすものではない...ということに気づかれたとか。

ですから、お釈迦さまの瞑想は思考停止を目指すのではなく、徹底的に思考するものだったようです。

田原豊道先生はこれにこだわり続けておられたのです。そのこだわりのワケが、私は心の底から分かるようになりました。

今月、『ヨーガ・スートラ』第3章が刊行されます。

ヨーガを学んできた証し、つまり副産物が述べられています。
そこにもニローダなる用語がふんだんに出てきますが、訳はやはり「制御」「寂静」にこだわりました。

たとえば、3の9

【心の発現状態の潜在印象が鎮静され寂静状態の潜在印象があらわれるとき、寂静の一瞬の心のつながりが寂静転変である】

心の発現状態とは、いつも私たちが感じている不安定な心の状態のこと。それが鎮静されて寂静(ニローダ)(心の平安)状態の潜在印象があらわれたとき、その心のつながりが寂静転変(ニローダ・パリーナーマ)だ…と。
パリナーマはとても大事な用語です。宇宙の一切は、根本の実在が開展して生成されるものだという説で、ヨーガ・スートラはその根本実在は2つだと説きます。その2つはプルシャとプラクリティです。

ところで、ニローダ・パリナーマを「止滅転変」とせず「寂静転変」とするのが、日本ヨーガ学会流です。

ちょっと笑えたのは、ある人が、ず~と、間違いに気づかないまま「死滅」としていることです。(多分気づいていないと思うのですが、ひょっとしたらそうかたく信じているのかもしれません)
 
さて…

「昔からそう言われている」
「あの学者がそう言っている」

いかに私たちはこういう慣例に従い、惰性的な思考と権威ある人にがんじがらめになっていることでしょうか。

この洗脳から自由になるには、何を信じるのか?にかかっているような気がします。

道を信じ、師匠を信じる...。

そうすればブレは生じない。だからこそ、インドではグルが絶対なんですね。

「ただ健康のためにヨーガを習っているのであって、難しい理論はいらない!」

今どきはこんなことを言う人は本当に少なくなりましたが、もし、そういう人がいたら、私はお聞きしたいです。

健康って何ですか?と。

ただ肉体が元気なだけが健康でしょうか?

健康とは単に疾病や病弱の存在しないことではなく、身体の体力値が高く、知的で、社会的(家族、地域社会、職場)には豊かな人間関係があり、精神的にも安定している状態。

これは世界保健機関の健康の定義です。

つまり、精神的健康、社会的健康、身体的健康のバランスが取れた状態。

『ヨーガの四季』67号に、口幅ったいようですが、私はこんなことを書かせていただきました。

ヨーガを学ぶ者はヨーガ(無上の幸福を得るための道)があること、さらにそれを得るための技術(=方法)『ヨーガ・スートラ』を知らなければ成就は成立しない…と。

勿論、とっても偉い先生の書かれたもので、私が感動した言葉がヒントです。

ヨーガを「楽しむ」ことは「知る、好む」という段階を経てこそ達する境地だとか。

松原泰道先生が、90歳くらいのときによくおっしゃっていました。
年を取ると、確かに身体は言うことをきかないようになってきた。しかし、心はどんどんと広がりを持ち、どんなに学んでも学び足りない…と。

松原泰道先生…

懐かしいですねぇ。

100歳のお誕生日パーティーでお目にかかったのが最後になりました。
その日はまだ99歳だった先生が「私はまだ100歳なんて年寄ではありません!」とニッコリしておっしゃったので、会場は爆笑の渦に巻き込まれました。
矍鑠として、お優しくて、お茶目な先生でした。(荻山貴美子)
コメント (1)
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