本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

止・正・武・歩

2024-10-11 20:29:23 | 十地経

止・正・武・歩、

一見何のつながりもないような

気もするのですが、

これらの文字は全部、とめへんの

字なのです。

 

止観双行ということが第七地の

中心課題です。

そこで、漢和辞典では止という

ことにはどういう意味があるのか

と調べてみたら面白いことが

出てきました。

 

止は、足あと、足首の象形文字で

足あととか、とどまるという

意味があり、またしずか、静まる

そこから、心が落ち着くところ、

というような意味があります。

 

止観、ということでは

止というのは心を一つにとどめる

ということになるのでしょう。

人間の心は、見れば見るものに

気持ちが引かれ、

聞けば聞いたことに心が動いて、

一時として

じっとしていないものです。

ですから、止観の止はとまるという

意味よりも、とどまるという意味が

近いようです。

 

講義では、面壁九年というように

九年も坐したという、

このすわるということが

止観の止ということを

代表しているというように

出ていました。

 

ところで、

正という字はとまるへんに一と

書くのです。

正月というのは心を一に止めて

また新たに一から出発する、

という意味があるようです。

 

また、武という字は

武士の武とかがすぐ思いつく

のですが、

本来はまたぐ(跨)からきています

ひとまたぎ(一跨ぎ)半歩の意味で

それが、

歩になると、二またぎ(武の二倍)

ということで、

前足に後足がついてゆくことから

あるくという意味になったという

ことです。

 

漢字もそれぞれに意味を

もっていて、その成り立ちとか

文字が出来てくる内容を考えて

いくと興味深いものがあり、

考えていく一つの手助けになり

ます。

 

講義では、

「内面的統一が止なんです。

精神の統一において、精神の集中

において、智慧がはたらく。」

 

と出てきます。

こういう形で、止観ということが

成り立つのです。

 

「観智というのは

智慧をもって観察する

といいます。」

 

東寺の塔頭(たっちゅう)に

観智院というお寺があります。

何気なく言っていたのですが

こうやって聞いて見ると

とても重要な意味があるようです。

宮本武蔵が一乗寺下がり松の決闘

の後に逃げ込んだのがこのお寺で

その時に描いたという

武蔵の見事な絵が残っています。

 

やはり、第一の塔頭であって

そのはたらきを表すような名前が

ついているようです。

 

次には

止と観ということの具体的な

話しが続きます。

 

 

 

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面壁九年(めんぺきくねん)

2024-10-10 19:43:27 | 十地経

西洋の方では思索するとい時

逍遥というか歩くということです。

反対に、仏教では坐(ざ)という

座るということです。

「面壁九年」という言葉も

「だるまさん」と親しみのある

達磨大師(だるまだいし)です。

嵩山の少林寺で壁に向かって9年

ついに悟りを開いたところから

この言葉が始ったようです。

9年間の間一言も発することなく

座り続けたという話しが

伝わっています。

 

「仏教の方では、坐というような

散歩や歩くのじゃなしに、

むしろ一か所に止まるという、

面壁九年というようなわけです。

ああいうようなかたちで坐、

坐禅というようにやっぱり

思索に一番ふさわしい態度と。

歩くのじゃなしに、一か所に

身をとどめて。

しかも面壁九年とはよくいった

ものです。

 

庭なんか作って、池なんか掘って、

眺めのよいような庭を作る、

そういうものではね、

思索できんのです、気が散って。

料理屋みたいなもんだ。

だから、瞑想する場合には、

壁が一番よいというんです。

それから

北向きの壁が一番ふさわしい。

南向いて、光線が入るところでは

思索できんのです。

 

けど、ここに行住坐臥という

ことが出ておってですね。

この双行分に行住坐臥という

ことが出ていてですね。

あの、必ずしも坐といっても、

その、

一か所におるというものじゃ

なしに、

一か所におるような態度をもって、

行住坐臥するというような

意味でしょう。

歩いても、やはり面壁九年の態度を失わずに歩くというようなもので

あってですね。

四六時中、三昧にある

というような。

 

だから、

道元禅師も禅宗だけれども、

行もまた禅、

坐もまた禅といってね。

坐だけが禅じゃない、

行もまた禅である。

もう行住坐臥、禅だ。

こういう具合に道元禅師もいって

おられるように、

ああいうふうな広い意味になって

くるというと、

必ずしも坐と、固定的に坐という

ことがあるわけじゃないでしょう

けれども、

坐で代表されるわけです。」

 

ここを読んでいてふと思ったのは

安田先生のご命日を

「無窓忌」といいます。

何とも意味深いというか

多くの意味を含んでいるような

分からない言葉です。

一つには、

ライプニッツのモナド、

モナドには窓がない、

そこからものがは行ったり出たり

する〈窓〉をもたない(無窓説)

ということがあります。

 

もう一つはここに出てくる

思索するには面壁九年という

思索するには窓はいらないのだ。

そういえば昔のお堂は窓が

ないように思います、

あっても飾のようなもの、

講義の中でも、

東寺の灌頂院を挙げておられます

このお堂も大きな扉はあるけど

窓はない。

護摩を焚くと堂内が煙がこもる

のですが、なにせ

大きなお堂なので

さほど苦にならないのです。

お勤めも終わり扉を開けると

朝日が差し込んできて

その光の中を護摩の煙がでていく

という景色はのは

何とも美しいものです。

壁しろという白い布で仕切られた

中でひたすら真言と唱え続ける

そういうことも一つの

瞑想の世界なのでしょう。

 

東福寺には桜の木は

一本もありません。

坐禅するのに邪魔になる

というので全部切ってしまった。

とことが、紅葉で一躍有名になり

どっと観光客が押し寄せるという

何とも皮肉な結果になってしまい

ましたが、

たぶんあそこの禅堂も窓がない

のではと思っております。

 

まあ、こういう思索を深める

ということも窓というものと大きく

関係しているようで面白いものです。

 

 

 

 

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人の話を聞く時は全身耳となって聞け

2024-10-09 20:26:56 | 十地経

講義もまた新たな所へ入っていきます。

ということなのですが、

また戻っているような同じ所を

講義されます。

その話は聞いた、というのではなく

どういうのか、深く味わっていく

そういう感じがします。

 

講義の中心は「双行ソウギョウ・止観シカン」

ということろです。

そこで、仏教でも一番中心課題

「定」(じょう)ということを

反復します。

この言葉も色々な訳語をもっています。

有名な言葉は「禅」ということ、

この言葉も「定」を表す一つの言葉です。

ドゥヒヤーナを禅那と音写し、

さらに禅那が略されて禅となった、

また「三昧」という言葉もよく聞きます

サマーディを音写した言葉です。

他にも色々ありますが、

ここの講義では、

心一境性(しんいっきょうしょう)

ということが出てきます。

定の一つですが、

心を一つの対象に向けて集中する

という意味をもっています。

 

そこで、講義を見ていきます。

 

「双行というのは止観ですね。

止と観と双、二つという意味です。

止観というものが大体、

精神生活というもの、修道生活

といいますか、そういうものを

表しています。

だから仏教で行といえば、

止観を行というんです。

 

止と観とは必ずしもうまく調和する

という具合にいくものじゃないんです。

この、止の方は止トめるという字です。

これは静というような意味でしょう。

観は、非常に活発な、精神のはたらき

ですから、観察ということですから

動というような … 。

そのように止と観とは動と静という

反対の性格をもっています。

 

だから止めると書いてあるけど、

止めるといった字は、

ちょっと合わんですね。

内観といった方が

よく分かるんじゃないかと思います。

止というのは、

定を表すんであってですね、

これは心一境性(しんいっきょうしょう)

このように定義されています。

まあ、定というのは広いんです。

 

それから観はこれ智のはたらき

といいますかね。

定というのは心が、心一境性

というのは、つまり精神統一です。

精神が一点に集中されていると、

全身が一つのですね、

ものを考えるという場合に、

全身がものとなると。

こういうような状態が定なんです。

精神が内面に集中するわけですね。

仏教の行というのは、内観の行

なんです。

 

これは何といいますか。

ギリシャでいうとプラトンの対話編

を見てみるというと、

そこにソクラテスや何かの人物が

取り上げられとるんですけど、

対話のかたちで、哲学の問題が

語られていますが、

その時に出てくるのは散歩です。

散歩というと、ぶらぶら遊ぶんじゃ

ないんですけど、

逍遥というような意味ですね。

アカデミーという言葉の元ですね。

逍遥するという態度は

何も目的なしにそこを歩くという、

さまようという意味でね。

うろうろ迷っているという意味じゃ

ないんですけど、

さまようという意味で、

まあ雲水じゃないかなないかな。

禅宗なんかの雲水です。

雲の如くに水の如くに流れていく

というわけです。

 

だからして何か歩くということが

思索に一番ふさわしい姿勢に

なるわけです。ものを考える場合。

こういう場合、

仏教でいう止というものが現れて

いるわけです。

散歩で精神が統一される。」

 

よく聞いた言葉が

ものそのものになれ。

話を聞く時は全身耳にして聞け。

するともの自身が語ってくる。

というようなことです。

次には仏教では反対に

止ということを坐で表すのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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豊かさと純化

2024-10-06 20:33:26 | 十地経

大乗経典というのは豊かさの

象徴みたいなものです。

素晴らしく花開いたといえる

ように思います。

しかしそれだけでは堕落していく

という面もあります。

 

ということを講義では、

 

「豊かさということが

これが大乗では第一にいうのです。

それと同時に今度は

豊富なということと、それから純化

これがなかなか面倒なことです。

この二つ要るんです。

豊富であるということと内容がね。

それからしてその内容が

豊富であるとともに、

批判、純化、統一というこいとが

ないといかんのです。

純化していく。

これがなかなか総合することが

面倒なんです。」

 

ということは、

キリスト教にもあって包んでいく

ということがあるようです。

聞きなれない人の名前が

たくさん出てきますが

読んでみてください。

 

「ところが一方では何ぼでもつつんでいく。

イエズス会というようなもの。

プロテスタントでカルビンなんかの

反撃を受けるんだけど、

それでつぶれてしまわずに

反撃されてかえって

自分を改革していくんです。

イエズス会が生まれたんですが、

日本にザビエルが来たのも

そうです。

それなんかもどんどん包んでいく。

ギリシャのアリストテレスの哲学

でも何でも包んで。

それでついに、

ああいうようなトーマスアキナス

みたいなね。

 

何といってもヨーロッパ人が

哲学というものを知ったのは、

その、つまりトーマス、

スコラを通してですから。

スコラ神学を通して哲学を知った。

哲学とはアリストテレスでしょう。

神学を通してアリストテレスに

接したわけっです。

そういうようにアリストテレスでも

何も縁のないものです。

 

そういうものを包んでいく。

そういう結果がついに空中分解

すると。

カトリックが知らん間に、

最後にはお札売ったんです。

それでルターがそれに反撃を

加えたわけです。」

 

しかし、こういう人の名前も

丁寧に見ていくと何かしら

次第に分ってきてその

流れのようなものが見えてきます。

ところで講義によく出てくる人で

トマス・アクィナスという人が

います。

『神学大全』を書き上げたという。

ここでは出てこなかったのですが、

これはなかなかの大作で、

口述筆記によって書かれたと、

その時弟子たちは

神がトマス・アクィナスの

口を借りて言葉が出てくるようだと

言っています。

ところが、全三巻なのですが

三巻目に取り掛かった時

突然、書くのを止めてしまいます。

 

弟子に向かって

今まで書いたものは

全部捨ててしまえと、

しかし、それは出来なくて

後の部分は弟子たちが加筆する形

で完成したといわれています。

 

面白いことに、

安田先生も、弟子の方々が

先生の全集を作りましょうと

言った時、

余計なことはするなと

そんなもの作らんでもいい、

自分の書いたものも全部焼けと

何か、トマス・アクィナスと同じ

ようなことを言っておられます。

 

困った弟子たちがどうしようかと

相談している時、

お釈迦さまのお経は感動した弟子たちが

書き記したものですよね。

と、そこにいた三浦先生が

そうおっしゃると、

それはそうですよ。と仰った。

みながきょとんとして

どうしたものかと思っていると

あなた達は先生の話を聞いて

感動しなかったのですか。と、

感動した人が作ればいいのだ、

ということで、

全集が完成したという経緯が

あります。

 

ところが、この『十地経論講義』

は全集に入っていません。

最初の頃はなぜだろうと思って

いたのですが、

今となっては

やはり入れなくてよかったのでは

と思うようになりました。

この講義も

ひとえに三浦先生に対して

説かれたもので、

その講義の内容が洛南高校を

作り上げていったのです。

 

普通いう講義録というより

実践の講義です。

ですから私にとっては

他の先生の講義よりもより貴重な

ものなのです。

 

 

 

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ぼろは着てても心は錦

2024-10-02 18:51:52 | 十地経

毎日何気なく読んでいる勤行法則

三帰・三竟・十善戒と続きます。

しかしよく考えると、

この中にすべてのお釈迦さまの

教えが詰まっているようです。

普通、お釈迦さまの弟子になると

五戒という戒を授かります。

 

殺生・偸盗・邪淫・妄語・不酒飲

の五つです。

このうち、

十善戒の身業の三つが

殺生・偸盗・邪淫として

取り入れられて、

口業は妄語が代表して

後の、綺語・悪口・両舌は

その中に含まれています。

ただ、意業は入っていません。

まずは、形に現れる身業と

口は禍の元で、妄語が代表し、

お酒という、身近で困った問題も

起こったから取り入れられた

と思うのです。

 

色々な儀式がありますが

私が一番感動するのは得度式です。

お釈迦さまのお弟子になるという。

弟子某ソレガシ

未来際ミライサイを尽くすまで

この戒をよく保や否や、と

戒師から聞かれ、

弟子は、よくたもつ、

と答えるのです。

十の戒それぞれに聞いていきます

いよいよこの子も仏の弟子となり

戒を守り、修行に励むのかと

思うと目頭が熱くなります。

 

そのように戒を護るというのが

仏弟子の第一歩です。

その中で、前回は性戒と遮戒と

いうことが出てきました。

性というのは具わっている

ということで、

性戒というのは本来人間として

具わっている善悪の判断基準

ということで、

殺生・偸盗・邪淫・妄語という

ことがありました。

 

いつも唱えているのですが

どれ一つとっても守れるものは

ありません、

守れないから唱えない

というのではなく、

守れないからこそ毎回繰り返し

唱えるのです。

 

この性戒といわれる

殺生・偸盗・邪淫・妄語は

教えなくても具わっている、

講義では良識・ボンサンスという

理性とか低い意味では常識

ということが言われていました。

 

ある法律家の方が、

法律に頼るようであれば

それは一番低い最低の問題だと

言われてました。

そういうことに頼らなくても

本来具わっている性戒という

ものがあれば法律に訴えなくても

解決できるのです。

 

ザビエルという人も

ただ偶然に日本にやってきた

のではなく、

インドで日本人に出会った

その人を見て勤勉で嘘もつかない

そういう人柄を見て

日本人こそ福音を伝える民族だ

という確信で日本に来たのです。

日本人はみすぼらしい家に住んで

着るものも粗末なものを着ている

しかしその心は

気高く信仰心が篤く

福音を伝えるに十分な素質を

もった民族であるということを

イエズス会の本部に伝えています。

 

その時代の日本人は

嘘をついてはいけない、

怠けてはいけない

そういう、一番下の基本レベルの

性戒というものが

具わっていたのでしょう。

 

今のレベルでは

法律に触れさえしなければ

何をしてもかまわない、とか

また犯したとしても

責任を取ろうともせず

その責任は秘書に押し付ける

本当に良識以前の問題のように

思います。

 

随犯随制で、

犯したらまた新たな法律を作る

作っても、またその抜け道を探す

そこでまた作るというように

人間の最低のボンサンスという

ことが失われてきているように

思うのです。

 

ぼろは着てても心は錦

という歌があったようですが

今の時代、

ブランドは着てても心は疎か

という時代のように思うのですが。

 

 

 

 

 

 

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性戒(しょうかい)と遮戒(しゃかい)

2024-09-30 20:10:32 | 十地経

性戒・遮戒、

なかなか難しい言葉ですが、

よく見てみると人間の行動を

よく押さえた言葉です。

 

「性」という字も

仏教では(しょう)と読みます。

性質とか本性という意味や

存在のありようという意味で

使います。

 

簡単には、性戒・遮戒は

性戒ーそれ自体が悪となるような

行いです。

例えば、殺生・偸盗・邪淫・妄語

などです。

これは戒律と定めなくても

人間としてやっていはいけない

ということです。

 

それに対して、

遮戒は、状況に応じて釈尊が

定めた戒です。

例えば、飲酒(おんじゅ)

不飲酒戒というのがあります。

まあ、酒は百薬の長ということも

ありますが、

やはり、修行となるとお酒は

飲まない方がいいということで、

釈尊が定めた戒ということです。

 

そういうことを踏まえて、

講義では、

 

「性戒、これは大体戒のことが

述べてあるのは、十地では

第二地なんです。

十年も前に話したことですけどね

第二地にこの戒のことが

出ているんですがね、

そこが本場なんです。

だから今更何だ、

というような感じもするんですが、

…… 。

 

性というのは、

具わっているという意味です、

教えなくても。

別に教えて許すんじゃない。

自分で … つまり、

何というか、

フランス語でボンサンス(bon sens)良識と翻訳される。

良識ね。

我思う故に我あり、

という場合ですね、デカルトの。

コギトエルゴスム

(cogito ergo sum)、

あのコギトは何かというと、

つまりボンサンスです、良識。

つまり善悪を判断する能力、

理性ということです。

 

人間は、その、

デカルトはこういってます。

理性というのは、

これは平均化されて人間に与え

られているという。

人間に誰でも平等に廻向されとる

という。

性格とか、修行とかに関係ない

ものだ。

 

賢いとか愚かだとか、

勇気あるとか、

そういうことはみんなこれ性格に

よるんですけど、

しかし今いったように良識という

ものは

これはそういうものじゃないと。

普遍的に人間に具わっている

ものだと。

 

性として具わっているもの、

こういうものは、

デカルトの場合なんかは、

良識というんです。

良識、理性という意味なんです。

ドイツ語ではフェアシュタント

(Verstand)という意味でしょう。

この健康なる常識ですね。健康な。

(menschliche Verstand)ですか。

だから良識というものは、

低い意味では常識と同じことなんです。

高い意味では理性なんです。

 

で、我々の常という字が

そういう字でしょう。

常といえば日常的という意味だ。

だけど、平常心是道というが、

そういうことでしょう。

だから低い意味から日常性という

意味で、コモンセンスという

んですけど、

高い意味から理性で、道ですね。

両方持ってますね、日本語でも。

 

教えんでも、自然に誰でも分かる

つまり良識というのは

判断能力なんです。

善悪ということは、善悪の判断は

良心が判断するでしょう、

別に人が教えんでも。

 

しかしながら、

魚食っちゃいかんとか、

そいうことは教えられて初めて

意味のあることです。

髪伸ばしちゃいかんとか。

これは別に本来決まっている

ものじゃない。

むしろ後天的なものです。

だから

随犯随制(ずいぼんずいせい)

といって、

犯さんのにつくるものじゃない。

犯した結果つくっていく。

犯した結果、制限していくと。」

 

こういうような話が続きます。

遮戒というのは

このように犯したら順次つくる

という、そういう戒という

ことのようです。

ですから、以前のことですが

東南アジアのお坊さんは

読経の途中でもタバコを吸う、

その当時タバコがなかったから

そういう決まりがなかった

というこのようです。

面白いところですが、

人間の行動を見つめた結果

戒ということを二つの見方で

押さえたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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諸悪莫作 衆善奉行

2024-09-25 19:25:21 | 十地経

諸悪莫作(しょあくまくさ)

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

 

諸々の悪は作すことなかれ

多くの善はすすんでせよ

 

この言葉は

七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)

といって、

お釈迦さ間を含む

七仏から伝えられてきた教え

戒律の偈ということです。

また、この言葉は一休さんも特に

大事にされたようで

一休寺にはこの言葉が掲げて

あります。

 

有名な物語があって、

白居易(白楽天)は禅を好み

禅僧の鳥巣道林(チョウカドウリン)

に、仏教とは何か、と問うた

すると、その答えが

「諸悪莫作・衆善奉行」

ということを言った。

そんなことぐらい

三歳の子どもでも知っている

と、白居易が言うと、

子どもでも知っているが

それを実行することは80歳の

老人でも出来ないものだ、と。

 

鳥巣道林という人は

木の上で鳥の巣のようなところで

座禅を組んでいた、

寝むれば落ちる、

そういうところに身を置いて

修行したのでこの名前が

付いたのでしょう。

 

祇園祭の「白楽天山」は

この物語をモチーフにして

美しい織物が作られています。

 

この偈には続きがあって、

自浄其意(じじょうごい)

自ら其の意(こころ)を浄くする

是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

是が仏の教えである

と続いています。

 

 

このことを講義では

「これはね、何で有名なのかと

いうと、禅宗でいうとるけど、

ダンマパダの経言なんだ。

ダンマパダ『法句経』ホックキョウの

言葉なんです。

非常に古い仏説です。

これは龍樹が初歓喜地の解釈に

用いているんです。

それで有名なんですが。

 

その時に問題なのは善悪ではない

その意を浄くするということが

大事なんだ。

その意を浄くする

ということによって、

そこに一点の悪もない、

つまり善、

つまり最高善というのか、

悪というものの影を落とさんよう

な、善ならざるはないというよう

な世界が、その意を浄くする

というところに出てくる。

 

その意を浄くするというのが

仏道なんだ。

悪を捨てて善を求める

というのは世間道なんだ。

しかし

世間道を完成するものは、

世間道ではない。

仏道で初めて世間道が完成する。

こういうような意味です。

 

諸仏の呵(か)したまうところの

ものは、捨てると。

諸仏の誉めるところのものは、

即ち行ずると。

しかも常に行ずるというような。

呵というのは嫌ですね。

誉は妙でしょう。

だから呵するということは

悪というけど、

不善というけどもね、

ただ狭い意味の道徳的不善

というようなことでなしに、

好ましからぬものですね、

悟りにおいて。

 

それから歎ずるというのは、

ただ道徳的、倫理的な意味で、

モラリッシュな意味で善という

ことではなく、妙という意味です。

つまりいってみれば好ましい、

妙好という意味なんです。

ただモラルというような意味ではない。

 

だからして善悪の標準が

倫理というようなところで

いっとるんじゃないんです。

いえば、

仏の悟りというようなところから

善悪を決めている。

仏の去らしめるところと、

仏の勧むるところと、

こういうようなことがあります。」

 

諸悪莫作・衆善奉行

ということだけが

気になっていたのですが、

そうではなく、

自浄其意(その心を浄める)

というところに重きがあるという

ことは驚きでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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エスカトロギッシュと生死巌頭に立つ

2024-09-23 20:03:49 | 十地経

言葉ということも

三つの考え方があると

聞いたことがあります。

一つには一般語としての言葉、

もう一つは専門語としての言葉、

最後は宗教語としての言葉です。

それが混同されてくると、

宗教語も一般語として解釈して

理解が深まらないことがあります。

 

例えば、

「利益」という言葉、

普通には「ゴリヤク」といって

仏様から何かいいことを頂く

お参りしていたら宝くじに当たった

とか、あそこの仏さまは

ご利益があるとか、

 

専門語としては「リエキ」です

経済の言葉として、とても重要な

意味があります。

利益を上げるということは

とても大切なことです。

利益が出ないような商いは

しないほうがいい、とも聞いた

ことがあります。

商いをする以上、利益が上がる

ということが健康なことです。

 

これが宗教語になると

それこそ「りやく」といって

仏様から頂く大切なことです。

それは私たちの考え方を否定した

内容です。

ただ、儲けたとか、

何か良い事があったとか、

というようなことではなく、

自分自身の煩悩を対治できた

克服できたという、

そして本当の自分を見つけた

ということが、本当のご利益

でしょう。

 

ですから、私たちの考え方とは

まったく正反対です。

私たちの煩悩をくすぐるような

そういうことがご利益ではない

ように思います。

 

講義に出てきた、

福音という言葉も、

神さまからの良きたよりという

godからのgoodな知らせspell

つまり、gosupel ゴスペル

ということです。

しかし、

良き知らせというのが、

私たちが考える良い事ではなく

「神の国が近づいた、

 汝ら悔い改めよ」

という意味でしょう。

やっと神の国に入れるので

今までの罪を悔い改め懺悔して

神の国に入る準備をせよ、

ということが福音という

ことなのでしょう。

(門外漢の私が言うので

 あまり信用できませんが)

 

そいうことが終末論

エスカトロギッシュということで

バルトという人が

毎日をこの世の終わりとして

生きています、

ということはそういうことを

いってるのでしょう。

 

ということは仏教では

「生死巌頭に立つ」という言葉が

あるように、

生まれてやがて死ぬのではなく

いつでも死に立って生きている

ということです。

崖っぷちに立って生きている

ということでしょう。

 

安全な所に立っていると

考えると、生がボケてしまいます

常に死を抱いて生きている。

生老病死の「生」ということが

分かりにくいのは、

そういうことのようです。

 

病気で死を宣告された人が

見舞いに来る人来る人に

もう次の出会いは

ないかもしれないと、

見舞いに来られて帰っていかれる

姿をドアを少し開けて

その姿が見えなくなるまで

拝むようにお見送りされた

ということを聞いたことが

あります。

 

一期一会ということも

そういう意味あいでしょう。

もう次の出会いはない

自分の生涯でこの出会いは

一回限りであると、

そういう意味あいを含んで

いるようです。

 

形としては、

お見送りするとき

姿が見えなくなるまで見送る。

本山にいる時、

玄関に座ってお見送りする

すると、分かっている人は

門を出る時、こちらに振り返り

もう一度礼をして失礼される。

そういう形が「一期一会」

ということでしょう。

 

何か似ているような、

しかし、キリスト教の終末論とは

もっと違った内容をもっている

のかもしれませんが、

そこには内面的な面と

神という

外からの大きな力というか

勅命みたいなものを感じます。

 

この世の終わりと考えるにしても

それを仏教では

自分の内面の問題として考えるか、

外からの神の力、命令と考えるか

大きな違いがあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)

2024-09-21 19:00:10 | 十地経

「阿耨多羅三藐三菩提」

この一句は宗派を問わず

お経には必ずといっていいほど

出てくる言葉です。

ところが、書けといわれると

すんなりかけない

言葉でもあります。

anuttara-samyaku-sambodhi

アヌッタラ-サムヤク-サムボーディ

を音写した言葉です。

あえて訳さず。

私もパソコンですと、

「あ」と入れると

阿耨多羅三藐三菩提、と

一瞬で変換しますので、

書く機会も少なくなりました。

 

訳すと、

無上正等正覚

ムジョウショウトウショウカク、とまたは

無上正真道ムジョウショウシンドウ

無上正遍知ムジョウショウヘンチ

となります。

この上なく優れ正しく平等円満

なる智慧ということで、

仏教徒の目的になります。

まあ、究極のさとりの智慧と

言うことにもなります。

 

それで講義は昨日の続きで、

バルトの話が出てきます。

 

「バルトはちょうどナチスの迫害

に遭って、その時、

日本から留学しとった人が、

ドイツを追われてスイスへ行く時

あのような激しい第二次世界大戦

の中、さなかにですね、

どういうような気持ちで先生は

毎日を送っておられますかと、

聞いたら、

私はエスカトロギッシュに

(eschatologisch)

生きていますと。

エスカトロギッシュ、終末論ね。

この世の終わりというところに

自分は毎日生きとると。

毎日毎日をこの世の終わり

として生きていますと、

こういうことを言っている。

 

つまりそれは原始キリスト教の

立場なんだ。

神の国が全部出てきたわけで

ないけど、

神の国というものが射してきた、

この世が終わった、

そして神の国が近づいてきた、

その近さの中に毎日生きています

ということを言ったんですがね、

バルトが。」

 

エスカトロギッシュという言葉

ドイツ語の辞書にも出てない

もう一つのを見ると、

eschatologi エスカトロジー、とあって、

ギリシャ語の eschata 最後のもの

が語源のようです。

日本でも、

この世の終わり、というような

歌のグループがありましたよね、

何と変な名前と思っていたのですが

こういうところから取っている

のかもしれません。

 

それから続いて、

 

「このようなことがね、

今言ったように、畢竟ヒッキョウ

といったら、もう仏果を。

仏菩提ですね。

仏菩提というものが、この、

これが

つまり究竟クキョウというんです。

アルティメットultimate ですね。

究竟を表す概念です。

 

ここまでいったら仏教は済んだと。

これからは、

ということはないのです 。

仏教というのは究竟の道であって

終わりのない道なんです。

ここまで行ったら

もう終わりということはない。

 

究竟の道を仏菩提と

こういったんです。

だからして無上正真道と

いってある。

阿耨多羅三藐三菩提と

いってある。

アルティメットという意味です。

究竟クキョウ、

つまりやがてはその身口意の

三業をですね、

身口意の三業というのは究竟を

表す概念でしょう。

 

それは究竟の世界というものを

語っとるんでしょ。

身口意の三業というもので、

三業清浄ということは。

けどその究竟の果を、

畢竟じては究竟するという。

畢竟じて究竟するという。

究竟畢竟という言葉がある。

 

ついには、

今ではまだ

究竟まで至ってないけど、

ついには究竟というものまで

至るべき一歩の中に

自分はおると。

このような含蓄があるんです、

ここには。」

 

修業というのは、

ここまで行ったら終わり

ということがあるのです。

一つのプロセスを終えたら。

ところが修行は、

終わりがない、ここまでいったら

終わりということはない、

終わりのない道なんです。

そういうことを「究竟」という

言葉で表しているのでしょう。

 

 

 

 

 

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中間時(中間のとき)

2024-09-19 20:13:17 | 十地経

講義の中でこういう

「中間時」という言葉が

出てきたのですが、

よく分かりませんが、

キリスト教の言葉なのか、

バルトが言っている言葉なのか、

しかし、なるほど面白い言葉です

 

お釈迦さまが涅槃に入られ、

無仏の時代に入ってきます。

次の仏さまは

弥勒菩薩ミロクボサツです。

その無仏の時代を見守って頂く

仏様が地蔵菩薩です。

そういこともあってでしょうか、

道の辻々に立たれて私たちを

守って頂いているようです。

 

次の弥勒菩薩が現れるのは

56億7千万年後ということです。

そういう意味で

無仏の時代でもあるし、

中間の時でもあるのでしょう。

 

講義は、

「こういうことは仏教でも

いえることではないかと思う。

仏教の方でも初期の仏教ですね、

日本の。

飛鳥時代に仏教ですね。

その時、仏足石歌、仏足石、

仏の足を刻んだ彫刻が

よくありましょう。

一番初めの仏教のね。

後になってからこのような

仏さんの像を造り出したんです

けど、初めは仏教に

そういうものはなくて、足ですね。

ガンダーラの仏像なんか、

一番初めは。

仏の足を石に彫った、

それが一番初めです。

つまりいってみれば象徴ですね、

仏法の象徴としての絵画は。

 

それで仏足石の歌というのが

ありますね。

万葉じゃないですけど、

いい歌ですね、あの歌は。

哀婉切々アイエンセツセツというような

ものを伝わってくるような歌です。

残ってますね、日本の上代の歌に。

 

それは、

仏はすでに過去となったと。

釈迦はね。

すでに過去となったと。

しかし未来の仏はまだ現れない。

未来の仏は弥勒です。

56億7千万年に、

未来に第二の仏が現れると。

 

そういうように、

現在は何かというと、

未来の仏はまだ来ないし、

過去の仏は既に入滅されたと、

その中間時です。

 

我々はですね、

その過去の仏の教えを

未来の仏が出世されるまで、

維持しなきゃならんと。

こういうような、

この悲愴な気持ちといいますか、

そこに絶望してしまわずに、

過去の仏の残された、

いわば仏が歩んだ道をね、

八正道でしょう。

それをやっぱり我々が行じて、

当来の仏まで、

我々がこれを続ける

責任があるんだと、

道に遇うた我々には。

 

そういうことを歌った歌です。

 

ちょうどいうと仏教の中間時です。

こういう哀婉切々たる中間時

というものの自覚なしにですね、

現在が絶対だというようなことを

言っているのは、楽天主義です。」

 

よくよく読めば

大きな責任を感じるような

ことです。

呑気になんかしておれない、

聞き続けてきた教えを

歩み続けなければならない

という、

私たちはそういう中間時に

生きているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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