本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

今週の言葉 6/24~6/30 「 人生には試されるときが … 」

2013-06-23 21:06:33 | 今週の言葉

 人生には

 

 試されるときが

 

  必ず来る

 

        八幡垣 睦子

  

 先日のテレビ朝日 「 Gウーマン 」 という番組

ゲストは 「 八幡垣睦子 」 さん、   

この方は、和のキルト作家で日本に伝わる古い布で、

ひとつの作品を作っていかれるのです。

 キルト ??

 ただのパッチワークかと思っていましたが、

その細かい作業によって生み出されてくる作品は

目を見張るものです。

 「 孔雀 」  の作品が紹介されていました。

ふとよみがえったのが修行の時のことです。

 

 東寺の西院流 ( にしのいんりゅう ) の時の

ご本尊は 「 孔雀明王 」 です。

仏教では煩悩を食べて菩提心を生み出してくれる

象徴として、孔雀明王をお祭りします。

 たぶん、孔雀が毒蛇を食べても死なない

そういうところからシンボライズされたようです。

明王といっても、怖いお顔はされていません。

孔雀に乗ってとても美しい顔をされています。

 

 と、いうこともあってか、その孔雀を見たとき

心に響くものがありました。

 孔雀の羽の小さな一つ一つを古い端切れから

選び出し、それを細かく繫ぎ合わせていかれるのです。

何ヶ月もかけて縫い合わせていかれる。

その根気の要る仕事ぶりには頭が下る思いです。

 

 また何よりもうれしかったのは、

古い布といえば捨ててしまうのが当たり前ですが、

その布をなんとか活かしたい、

その思いがまた素晴らしい作品を生み出しているのです。

 

 そのレポートの中でおっしゃった一言が、

「 人生には試されるときが必ず来る 」

です。

 2006年には故郷の島根県斐川町で、

「 出雲キルト美術館 」  を開かれて

ご自身の作品を展示しておられます。

 ここまでご苦労された、その思いのこもった

言葉のように受け止めました。

 

 人間誰しも必ず、試されるときがあるのです。

それを見落としてしまうか、

それを掴み取るかで人生大きく変わると思います。

その時を見逃さないで欲しいと、

願って今週の言葉にいただきました。

 

 ネットでも是非 「 八幡垣睦子 」 さんで

検索してください。

私も是非キルト美術館を訪れたいと思っています。

 

 

 

 

 

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今週の言葉 6/17~6/23 「分け登るふもとの道は多けれど … 」

2013-06-16 20:52:38 | 今週の言葉

分け登るふもとの道は多けれど

 

 同じ高嶺の月を見るかな

 

                一休

  

 

 毎月届く、西京極幼稚園の 「 たんぽぽ 」

三浦先生が書き始められて、そのあとを文良さんが引継ぎ、

今度の6月号で 「 370号 」 を数えます。

 その中に出てきた言葉です。

 

「 富士山に登るのにもいろいろの道がございますけれども、

 登って眺める真如の月はただ一つ、ということでございます。」

 

この言葉は折に触れて、三浦先生はよくお話になっておられました。

だから、耳に残っていて、私もよく使いました。

  詠み人知らずと思っていたのですが、

どうも 「 一休さん 」  の歌のようです。

 

 一休さんと本願寺の蓮如上人とはとても親交が深かったようです。

そのお二人の間にはいろいろな逸話がたくさん残っています。

 とんちの一休さんですから、

「 阿弥陀にはまことの慈悲はなかりけり、

    たのまぬものは助けたまわじ 」

と、皮肉をこめて蓮如上人に送るのです。

 ( 阿弥陀さんは頼む人しか助けんのか

  そんな狭い了見なのか )

ところが、すかさず蓮如上人も返し歌を送ります。

「 武蔵野の葉ごとに月は宿れども、

    露なき草に月は宿らじ 」

 ( お月さんは平等に照っているのだけれど

   それを受け止める心がない人には

   月も写らないではありませんか ) 

 

同じ仏道を求めるお二人の肝胆相照らす

心が伝わってくるようです。

一休さんの方が蓮如上人より19歳ほど年が

上だったのです。

 本願寺を訪れた一休さん、蓮如上人は留守、

すると、一休さん 本堂の阿弥陀さんを引っ張り出して

それを枕に寝てしまった。

そこへ蓮如上人が帰ってくるなり、

 「 こら、ワシの米びつを枕にするとは何事じゃ ! 」

と、一休さんをしかりつけた。

ご本尊を枕に寝る一休さんも桁外れなら、

そのご本尊を 「 ワシの米びつ 」 とよんで

受け答えする蓮如上人もさすがです。

 親鸞聖人の200回忌によばれた一休さん、

その親鸞聖人のお姿 ( 御影 ) を見られて一句、

 「 襟巻きのあたたかそうな黒坊主、

   こやつが法は天下一なり 」

と読まれたそうです。

 道は自力聖道門を歩まれた一休さん、

他力の道を歩まれた蓮如上人、

道は違えども求めていることは同じである。

 一休さんも十分に親鸞上人の教えは理解しておられたのです。

しかし、自分の立場はしっかり持っておられる。

その上で、認めるところは認め

自分の道を歩まれたのです。

 

 安田先生という方も、

話し合えば話し合うほど、自分の立場がはっきりしてくる

これが本当の対話である、といわれていました。

相手に飲み込まれるのではなく、お互いの立場が

明らかになり、それによって

ますます話しが展開していく、ということでしょう。

 

( 私たちは意味なく自分の立場もないのに

  固執してしまう悪い癖があります。)

 

今週の言葉も、

 お互いの立場を踏まえた上で、

一休さん67歳、のとき 48歳の蓮如上人に

贈られたようです。

 

 

 

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今週の言葉 6/10~6/16  「 まっすぐな木はまっすぐ使え … 」

2013-06-09 22:31:33 | 今週の言葉

 まっすぐな木は

 

   まっすぐ使え

 

 曲がった木は

 

   曲がったまま生かせ

 

 

 「 奇跡のりんご 」  という映画の

モデルになった方がテレビで、

雪の重みで枝が折れる、

その枝に防腐剤代わりに酢とワサビの液を塗り

土で保護する。

そのときの一言が、

 「 まっすぐな木はまっすぐ使え

   曲がった木は曲がったまま生かせ 」

とても重みのある言葉として響いてきました。

 

 昔よく上りました 「 東寺の五重塔 」

中に入ると、そこは僅かな空間しかなく

所狭しと、材木が複雑に入り組んでいます。

外から見る分にはとても美しい姿のですが、

中はその美しい姿を支えるために

いろいろな材料が使われているのです。

 外の姿はまっすぐな木だけを使ったように見えます。

しかし、中に使ってある材料は

縦の柱に使うまっすぐなものもあれば、

梁のようなところに使う松の木でしょう

太く曲がりくねって大きさもふろぞい

それをそのまま活かして使ってあります。

 五重塔を支える中に使ってある材木たちは

不揃いで、骨太く、しかも

自分が生えていたそのときの姿のままに

力強く自分の力を発揮しているように

見えます。

だから私は、

外からの五重塔も美しいのですが

中の材木たちの力強さのほうが

見ていて美しく感じていました。

 

 また、五重塔のことを 「 功徳聚 」  ともいいます。

功徳の集まりです。

私たちの組織も本当はこうでなくてはいけないのでしょう。

いろんな個性の集まり、

太かったり短かったり、まっすぐだったり曲がっていたり

それが適材適所に使われて

外から見たら立派な姿に見えるのでしょう。

とはいえ、なかなか難しいものです。

 

 

     

 

いつも通る道すがら、立派な大木がありました。

ここ最近ばっさりと切られてしまいました。

豊かな緑を提供していたのです。

しかし、曲がりくねって伸びすぎて

電線にも迷惑をかけるし、

春秋の落ち葉が近くの住民の方を悩ましていたのでしょう。

 

   

 

しっかり張った根元には 「 熊本市指定木 」

にもなっていました。

その立て札はなくなっていました。

 

   

 

祠もあり、むかしは鎮守の森のように

こんもりと茂っていたのかもしれません。

勝手なことを思えば、

曲がったなりにこの大木をなんとか生かせなかったものか

と、一人無責任なことを思っていました。

たぶん何百年かかけてここまで大きくなったのでしょう。

それを一握りの人間の都合で

一瞬にして意図も簡単に切ってしまって  …  

一人眺めていました。

 

 人間の勝手で切られても

負けないで   

頑張って新しい芽を出して欲しいと願っています。

 

 ここまで傾いていたらいまさらまっすぐにはなれません。

また曲がって、曲がった美しさを人間に見せてください。

今度は切られないように美しく  

 

 

 

 

 

      

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今週のことば 6/3~6/9   「切磋琢磨」

2013-06-02 18:11:30 | 今週の言葉

 『 切磋琢磨 』

 

一歩一歩自分を磨いていこう !

 

 

「 骨や象牙を刀で

 やすりで磋き ( みがき )

 宝玉を槌で打ち (  )

 砂石でく 」

 

( 互いに励ましあい、学問修養によって、

  より人格を練り磨くこと。)

 

と、辞書には書いてあります。

言い古された言葉かもしれませんが、

自分に言い聞かせてみると、

身が引き締まる思いがします。

 仏道修行も 「 切磋琢磨 」 です。

人と競い合うのではなく、

自分との戦いです。

 

 お経の中に、

仏の御恩にたいしては、

「 身を粉にしても、

  骨を砕きても、 」

という表現もあります。

 今は使いませんが、

昔は 「 身を粉にして働く 」

ということもいったものです。

 

 精進努力、

六波羅蜜の修行の中でも

「 布施・持戒・忍辱・精進 … 」

と4番目に出てきます。

ですから、修行を支える根幹は 『 精進 』 です。

 

 「 悟り 」  ということも、

「 悟った 」 という過去形でもないし、

「 悟り 」 という名詞でもないと思います。

悟りを行じていく、という進行形です。

 

 お釈迦さまの悟りの智慧は 「 八正道 」 です。

その中心は 「 正見 」  ( ものごとを正しく見る )

見道の智慧を見出すということですが、

その智慧は見出した、

しかし、その智慧の中にまだまだ 「 雑 」 なものが

残っている。

その雑なものを一枚一枚削り取っていく、

そこに、一歩一歩の歩みがあるわけです。

お経の表現では、

 『 上上に証する 』 ( じょうじょう )

という言葉で出てきます。

『 無上 』  ということもお経の最初に出てきます。

「 上が無い 」 と、比べることが出来ない、ということもありますが、

無限に修行していく、

好きな言葉に、

 『 数数習習 』 ( さくさくしゅうしゅう )

「 数 」 という字も お経の中では ( サク ) と読み

( しばしば ) という意味です。

一歩一歩常に学び続けている、

ということでしょう。

 

 正見の智慧を得ても止まっていたら

取り落としてしまいます。

そこから、 数数習習  切磋琢磨  です。

そこに魂が成熟していくということがあるのです。

到達点はない、あるのは無限の道程、

だから、精神生活ということは進歩していくということではなく、

無限に展開していくということだと思います。

 

 幾つになったから、どうとかではなく、

人生という無限に続く道程を

切磋琢磨して歩み続ける、

そして、

歩むということは同じことを繰り返しているのではない、

求めていくところに与えられる、

だから更に求めつづけていく、

こういうことを、

「 上上に証する 」

というのでしょう。

求めずにはおれないようなものを

見出した。

そういうものを私たちは与えられたと思います。

 

 切磋琢磨   です。

一歩一歩、自分を磨いていきましょう。

 

 

 

 

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今週のことば 5/27~6/2 「 咲くも無心  散るも無心 … 」

2013-05-26 18:33:40 | 今週の言葉

   咲くも無心

 

   散るも無心

 

  花は嘆かず

 

   今を生きる

 

      坂村真民

 

 

 今、庭の移ろいはバラが咲き、やがて散って、

新しい新芽がにょきにょきと出てきて、

次の命を生み出しているようです。

そして、アジサイが次々と変化のある色合いを見せています。

 

 どの花を見ても、とても美しい、

しかし、その美しさを自慢することなく、

人が見ようが見まいが、精一杯に咲いています。

やがて時が来れば、花を落とし、

実を結んでいきます。

 

 それに引き換え、自分の姿を見てみると、

ちょっとでもいいことをすると、

これ見よがしに自慢して、

自分を誇っているものです。

 

 そういう、花の姿に真民さんは感動されるのです。

 

こういう詩も書いておられます。

優しい言葉の中に、人生に対する厳しい生き方を示しておられるようです。

 

 「 日の昇るにも手を合わさず、

    月の沈むにも心ひかれず、

  あくせくとして一生を終えし人の

    いかに多きことぞ

 

  道のべに花咲けど見ず、

   梢に鳥鳴けど聞かず、

  せかせかとして過ぎ行く人の

    いかに多きことぞ

 

  二度とないこの人生を

    いかに生き いかに死するか

  耳をかたむけることもなく うかうかとして

   老いたる人のいかに多きことぞ

 

  川の流れにも風の音にも告げ給う

    声のあることを知ろうともせず

  金に名誉に地位に狂奔し終わる人の

    いかに多きことぞ 」

 

 お釈迦さまは富みも位も捨てて

出家されました。

 それなのに、私たちは富に目がくらみ、

勲章を羨ましく思い、いかにあくせく生きていることか。

 真民先生の詩を静かに読み返していくと

お釈迦さまの出家の動機が感じられるようです。

 何が大切か、

考え直す時間も必要のように思います。

 

 一休さんは痛烈に、

 

 『 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ 地獄じゃ

    苦じゃ 楽じゃ どうじゃこうじゃと

      いうが愚かじゃ 』

 

言ってのけておられます。

 私たちの下手なそろばん勘定を

一刀両断の元に切り捨てておられるのでしょう。

 

 両方の人生の見方、

いずれにせよ、一度は考え直してみること

はっと気が付くことがあるかもしれません。

 

 

 

 

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今週のことば 5/20~5/26 「一大事と申すは今日、只今の心なり」

2013-05-19 17:57:03 | 今週の言葉

「 一大事と申すは

 

    今日、

 

  只今の心なり 

 

  それをおろそかにして

 

   翌日あることなし 」

 

               道鏡慧端 ( どうきょうえたん )

 

 

 「 今 」 ということは仏教ではとても大切にします。

コマーシャルでも、

 「 何時やるんですか  今でしょう ! 」

という言葉が話題になっています。

 

 今の心 、 と書いて 念仏の 「 念 」 

という字になります。

 過去といっても未来といっても

今のこの時に集約されます。

 今ある自分は過去の蓄積であり、

今の自分の行いは未来の自分を作り上げているのです。

ですから、今の自分ということは

過去を背負い、未来を孕んでいるということです。

 

 山本有三という文豪も、

  「 たったひとりしかいない自分を

    たった一度しかない人生を

      ほんとうに生きなかったら

    人間、生まれてきた甲斐がないじゃないか 」

とうたっています。

 

 私たちも、

「 明日こそ  明日こそ 」

といいつつ、今日がない一日を

過ごしてしまいがちです。

 そのうちそのうちと言いつつ、

気が付けば、頭に墓標が立っている

とうことになりかねません。

 

 よく、師匠の三浦先生から、

「 お寺のほうも忙しくしています。」

というと、

 『 のんきな話や !! 』

と叱咤の声が飛びました。

 坊主として、壇家参りに追われて、

人生の生きる意味を考えなかったら、

一生無駄になってしまうでしょう。

 「 第一義諦 」 ( だいいちぎたい )

ということをいいます。

 「 世俗諦 」 という日常生活に対して

まず一番目に考えなければいけないこと。

 よく 「 アンパンマン 」 の歌を引き合いに出しますが、

「 なんのために生まれて なにをして生きるのか

  答えられないなんてそんなのはいやだ。」

ということが、「 第一義諦 」 ということです。

 

 毎日が一大事、

今 を一生懸命に !!

あだやおろそかに過ごしてしまうわけにはいきません。

 

 

 

 

 

 

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今週の言葉 5/13~5/19 「何ものにもかえられない、自分の宝を

2013-05-12 16:07:16 | 今週の言葉

「 何ものにもかえられない

 

  自分の宝を見つけなさい 」

 

     アントニオ・リヴェラーノ

 

 聖徳太子も十七条の憲法で、

「 篤く三宝を敬え、

  三宝とは仏・法・僧なり 」

と、述べておられます。

仏教でも 「 宝 」 ということをとても大切にします。

普通の人が考える 「 宝 」 とは少し違います。

 伝教大師 ( 最澄 ) も

山家学生式 ( さんげがくしょうしき )

のなかで、ものが国宝ではないのだ、

「 一隅を照らす、これ即ち国宝なり 」

と、ものではなく人が宝なのだとおっしゃっています。

 

 毎週金曜日 「 日本テレビ 」 11時からの番組

『 アナザースカイ 』

ゲストは 「 峰竜太さん 」 案内されたのは

イタリア・フィレンツェ です。

 

    

 

ここは食肉が盛んだったということで、

革製品、それからいろいろな技術が栄えた町です。

「 アントニオ・リヴェラーノさん 」 服の仕立て屋さんです。

『 リヴェラーノ・リヴェラーノ 』 という店の社長さんでもあります。

峰竜太さんお勧めのお店ですが、

スーツでも1着50万円は下らないという、でも

その着心地たるや絶対にまねできない、

そのスーツを買って、分解してみて研究される方もおられるそうですが、

同じように仕立てても、他の人には

その着心地は絶対に出来ないそうです。

 工房を拝見させていただくと、

ミシンはなく、全部一針一針手縫いで、

それも、場所によっては針の角度を変えたりと

それこそ何十年も培ってこられた技が光るのです。

 それでも、アントニオ・リヴェラーノさん

満足いく服はいまだかって出来てないとおっしゃっています。

もっとこうすれば、ああしたほうがとか

常に研究は怠らないということです。

そして、毎回生地に鋏を入れるときは

全身に緊張が走る、ともおっしゃっておられます。

 

 「 服を仕立てることは文化を仕立てること 」

 

ローマ時代からの歴史の流れなのでしょう。

文化を大切に守りつづけておられることには

感嘆します。

そのアントニオさんお勧めのお店、

「 オムレツの店 」 なのですが、

いまだ予約が取れないほどの人気があるそうです。

その台所も昔とちっとも変わらない方法で炭を使って、

オムレツを作っておられました。

 

 「 サルヴァトーレ・フェラガモ 」 の

若い店主、

 『 今までのことを守りつつ、

    新しいことをやりたい 』

古き伝統、ブランドに甘んじることなく、

常に歩み続けておられる姿は

すべてのことに通じる言葉と受けとめられました。

 

 技術を守り、伝承していくことは

そこには必ず哲学が生まれるようです。

 

 アントニオ・リヴェラーノさん、

若い方にいつもいわれている言葉が、

 「 何ものにもかえられない、宝を見つけなさい 」

どのような仕事でも、

そこに宝を見出すまで、やり続けなければ

物事の真の姿は見えないということでしょう。

 

 世の東西は違えども、

とても頷ける心に残る一言でした。

 

 

 

 

 

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今週の言葉 5/6~5/12 「熱意さえあれば、 … 」

2013-05-05 18:31:20 | 今週の言葉

  熱意さえあれば

 

    何歳からでも

 

       やり直せる

 

                 樹木医 塚本こなみ

 

 5月2日放送の テレビ朝日 「 モーニングバード 」

『 Gウーマン 』  という番組で、

 ( 毎回楽しみにしてる番組なのです  )

今回は 樹木医の 「 塚本こなみ 」 さんが

ゲストでした。

 彼女のモットーが、今週の言葉です。

樹齢700年の木を快復させたとき、

 「 どんなに弱っていても、

   わずかでも快復の可能性があれば

   あきらめてはいけない 」

ということを学んだそうです。

そういうことから、

 「 熱意さえあれば、何歳からでも、やり直せる 」

ということが彼女のモットーになったのでしょう。

 テレビでは 「 500畳 」 もある藤の木を

移植されるところが紹介してありました。

絶対不可能といわれていたことを、

彼女は人間が使う 「 ギブス 」 を使って

藤の木をぐるぐる巻きに保護して、

移植された。

 「 情熱さえあれば、答えは必ず出る 」

ということを学ばれたようです。

 

 仏教の、

金子大栄先生も、

『 人生はやり直すことはできないが、

    見直すことはできる 』

とおっしゃっています。

 

 「 やり直す、見直す 」

言葉は違うようですが、

歩んでこられた人生の深さ、それから年齢

ということもあって表現は違いますが、

同じような内容だと思います。

 

 それから、塚本さんは

『 人も樹も 「 根 」 が大事 』

とも言っておられます。

 「 根本が健康でなければ、

  美しさは表に出ない。

  外見だけよくてもいけない。」

人間も植物も根が大事です。

 

 仏教でも 「 根 」 はとても大切です。

比叡山の本堂は 『 根本中堂 』 と名付けられています。

それから、山に入って修行するときには

 『 六根清浄 』

を唱えながら歩きます。

 般若心経のなかにも

「 眼・鼻・耳・舌・身・意 」 

と出てきます。

これも、眼根・鼻根・耳根 …  の

略されたものです。

 『 根 』  とは、はたらき、ということです。

だから、一般的には

「 根性 」 「 性根を入れる 」 などなど、

心に関する、それも心の根幹に関する

そのような意味合いが強いようです。

 

 情熱を持って、日々善根を積むことに

心がけたいものです。

 

 

 

  

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今週の言葉 4/29~5/5 「未来の自分から見た 今の自分を … 」

2013-04-28 18:54:33 | 今週の言葉

「 未来の自分から見た

 

     今の自分を考える 」

 

        永山絢斗

          ながやま けんと

 

 

 先日の 『 鶴瓶さん 』 の 「 Aスタジオ 」 という番組、

ゲストが 『 永山絢斗さん 』

 最初から見たわけではないのですが、

たまたま、お茶を飲みに台所へ行ったとき

この言葉を聞いたのです。

 『 鶴瓶さん 』  もとても興味を持っておられたようで、

しきりに聞いておられました。

 ちょうど、今封切られている映画

『 藁の盾 』 のことが話題になり、

顔合わせのとき、ほかのキャストの方は

「 山崎努 」 「 大沢たかお 」 「 伊武雅刀 」 

など、錚々たるメンバーです。

会いにいくとき武者震いがした、

と話されていました。

 『 鶴瓶さん 』  その熱さがいい、と

感動しておられました。

 

 この言葉を聞いたとき、今読んでいる

「 唯識 」 の話とかぶって聞こえました。

 「 未来の自分から見た、

    今の自分を考える 」

自分を考える、というとき、いろんな面から考えることができます。

 オギャーと生まれて、死んでいく。

一体何が生まれて何が死んでいくのか、

そういうところからも自分というものを追求できる。

 また、一体自分はどうなっていくのだろうと、

未来面からも考えていくことができる。

 いま、読んでいるところで問題になっているところが

『 阿頼耶識 』 ( あらやしき ) というところです。

人間の一番、こころの奥にある深層心理です。

アラヤというのは 「 蔵 」 という意味もありますから、

「 蔵識 」 ( ぞうしき ) とも訳されます。

人間の経験を蓄えていく貯金箱のような心です。

 その心を厳密に見ていくと

自分の現在面を 「 阿頼耶識 」 

自分の過去面を 「 異熟識 」 ( いじゅくしき )

自分の未来面を 「 一切種識 」 ( いっさいしゅしき )

というのです。

 

 永山さんの言う

「 未来の自分から見た 今の自分 」

とても唯識的表現だと思うのです。

 仏教では、 「 未来 」 のことを 「 当来 」 ともいいます。

「 当来 」 ( とうらい ) 当に来るべき、

ということで、

未来は偶然にやってくるものではなく、

現在の中にすでに約束されている。

だから、将来に 「 こうしたい 」 という夢があれば

それは現在に行動となって現れてくる。

 いま、「 がんばれ ! 」 といっても、

未来に希望が持てなかったら、

現在を頑張ることは出来ないのです。

 

 過去の経験が現在に、異なった形で完成する ( 熟する )

という意味で 「 異熟識 」 ということをいいます。

過去が現在しているのです。

 それから、経験の可能性ということを言うと

一切の経験の種となるものを持っている、

ということで、心の未来面を一切種識というのです。

未来が現在している、

ということになると思います。

 

 鶴瓶さんも

「 どういうこっちゃろ ?? 」

とさかんに問いかけられておられましたが、

わからないなりにも、

何か気になり、見過ごすことの出来ない

言葉として、心に響いてこられたのでしょう。

 

 わからなくても心に響いてくる言葉は多々あるものです。

そのことを聞き流すのではなく、

心にとめて、考えつづけていくことが大切なように思います。

そうでないと、

言葉が弱くなれば、国も弱くなってくるのです。

 難しいかもしれませんが、

頭のどこかで常に考えつづけることを

怠ってはいけないように思います。

 仏教の難しいところは厳密性です。

人間の微妙な心の襞も見逃さず、

それを丁寧に紐解いているのです。

 

 

 

 

 

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今週の言葉 4/22~4/28 「富は海の水に似ている 飲めばますます

2013-04-21 18:30:31 | 今週の言葉

「 富は海の水に似ている

 

  飲めばますます

 

 喉が渇きをおぼえる 」

 

      ショーペンハウアー     

 

 

 祖父がこのショーペンハウアーのことを話しているのを

思い出しました。

 その頃は 「 ショーペンハウエル 」 と言っていたように

思います。

 この方は深く仏教を勉強しておられたようです。

ご自身も、

「 仏陀、エックハルトと本質的に同じ事を教えている。」

と、おっしゃっておられます。

 また、トルストイ、フロイト、アインシュタイン

などなどに深く影響を及ばされたようです。

 

 今週の言葉も、仏教でいう 「 煩悩 」 ということを

言い表しておられるのでしょう。

 「 欲ふかき 人のこころと 降る雪は

    積もるにつけて 道も 忘るる 」

という歌もあるように、

人の欲には限りがないのです。

 得れば得たで益々欲しくなる。

 

 そこで翻って思い出す言葉は

  『 吾 唯 足る 知る 』

という、京都の竜安寺にある

蹲 ( つくばい ) です。

 丸石で真ん中の水のあるところが

四角になっていて、その周りに

上から 「 吾 」 の 五の部分、

右側に 「 唯 」 の右の部分

下に 「 足る 」 の下の部分

左に 「 知る 」 の左側の部分が書いてあるものです。

 

 I learn to be contented

  ( 満足することを学ぶ )

という英語の言葉もあります。

 

 ショーペンハウアーも、

人間足ることを知らないと、大変なことになる

世界をも壊してしまうようなことになる、

そういうことを暗示している

その意味合いをこめて

 「 富は海の水に似ている

    飲めばますます

   喉が渇きをおぼえる 」

ということを示唆されたのではないでしょうか。

 

 

 

 

      

コメント
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