本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

修行というのは自己教育

2023-02-10 21:05:14 | 十地経

節分の時には鬼さん受難の日

でしたが、

本蔵院では

「福は内、鬼も内」

といって豆まきをします

福も鬼ももとは一緒です

人間の都合で良くも悪くも

勝手に決めつけているのです

 

鬼退治という字も

これが煩悩タイジというと

対治と、この字を使うのです

タイジといっても

厳密にはこのように分けて

使い分けします

 

十地経では「対治」という

ことが、どの地においても

出てくるのです

講義は

「『彼の障対治』と、

障りをなくするという

精神生活の障害物という

ものをですね、

破っていくと。

それが本当いったら修行と

いうような意味だ。

修行というのは自己教育

ですね。

精神の自己教育という

ものでしょう。

そこには自己を否定していく

というね。

自己を否定することを

通して、

自己を磨いていくわけです。

 

道元禅師の教学ですね。

修ということがあるけど、

修行の修だ。

修ってことがあるけど、

修によってかちとったものは

証という。

悟りだ。

 

けど、そこにですね、

修によって証を得るけど、

証上の修、

つまり証というものによって

修を起こすというね。

それが本当の修でしょう。」

 

普通には、

修行して証(さとり)を得る

といいますが

本当は、

証を得て修行が始まると

こういうのです。

確かに、到達点に向かって

修行するということも

ありますが

到達点が見えたから

修行が始まる

ということがあります。

 

初発心時すでに正覚を成ず、

ということがあります

志を起こしたとき

その心には仏心が宿っている

のだということです

その仏心を頂いて修行する

ですから

俗の心のままでは

修行することはできません。

 

ここでは

対治ということが

六地から七地にいくにも

やはり

障りの対治が出てきます

次々と

障りが出てくるようですが

そうではなく

修行すればするほど

障りというものが

見えてくるのでしょう

 

何もしない人には

障りということはないと

思います

やればやるほど見えてくる

それが自己を磨いていく

ということです。

それから「無量」という

言葉が出てきます

限りがない

ということなのでしょう。

何かしら

修行の永遠性というか

これで終わり

ということではなく

永遠に修行していく

無量という言葉は

何かしらそういうことを

象徴しているように

感じます。

 

 

 

 

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