本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

一切を知ることが自己を知ること

2024-07-20 16:01:14 | 十地経

今回の講義は

テープがなかったのか、

レコーダーの故障か

先生方のノートにより再現

されたものです。

簡にして要を得たものです

しかしながら

このように要約できる文に

なっているところが

素晴らしい。

私たちも一応はノートを

取るのですが

後になって読み返すと

どうも、

文として繋がらないし

ただ単語の羅列のような

読めたものではありません

 

「一度目をさましたら、

眠るということはない。

終わりはない。

それが自覚の問題である。

初めのないものに

初めを見出してくる。

それが初歓喜地ということ

である。

終わりがないというのが

第十法雲地で、

初めを表すのが初歓喜地

である。」

 

よく、

初めがなくて

終わりがあるもの

ということをいいます。

これは迷いということです

反対に

初めがあって

終わりがあるもの

これがさとりの世界です。

 

人間の迷いは

何時始まったか分からない

人類が発生したときから

しかしながら

迷った人間が迷いを翻して

修行の道を歩み始める

そこには終わりはない

ということです。

 

「『十地経』は実践問題

である。

その中に存在問題を含んで

いるのである。

第六地に三界一心、

十に縁起は一心による

ということが出ていた。

その一句が大乗の縁起と

して重要な問題である。

初めて般若の智慧が実現

した。

それを掲げてそれを唯識の

根本教証にしたのが

無著・世親である。

『唯識二十論』の中に、

『十地経』の言葉を唯識の

根本教証として見出して

いる。

 

『十地経』は『華厳経』の

もとになるのであるが、

影響力のあった経文である

しかし、

三界一心は実践問題として

より存在論の問題として

大きく見出している。

その三界一心は必ずしも

阿頼耶ではないけれども、

この『十地経』から地論宗

というのが開けた。

 

唯心縁起と菩薩十地という

両方の意味を『十地経』が

もっている。

願楽位ガンギョウイ、

通逹位ツウダツイ

修習位シュウジュウイ

究竟位クキョウイ

唯識観の実践問題として

この四位を立てる。

 

菩薩十地は修習位にあたる

仏教の認識は対象的認識

であはなく、

それを知ることが解脱する

認識である。

自己を知る、一切種智と

いうが、そこに自己も

その中にあるような一切

である。

 

一切とは法界、

ダルマのコスモスである。

自己をはなれたコスモスは

仏教では無縁のものである。

自己に関わっている

一切である。

その場合の自己は

苦悩している自己である。

人間に関係して

一切があるのである。

 

ギリシャのごとき、

世界の中の一つとして

人間があるのではない。

自己に無関係な世界では

ない。

単なる知的興味ではない。

 

一切を知ることが

自己を知ること、

知ることが解脱すること

である。」

 

真言宗の大学に

「綜芸種智院大学」と

のがありますが

弘法大師が創設したという

日本最初の私学です。

この「綜芸種智」という

ことが「一切種智」という

になると思います。

最初は綜芸種智院大学

何とも長い名前のと

思っていたのですが

こういうことを見てくると

弘法大師の深い願い

のようなものを感じます。

 

 

 

コメント
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