本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

救いを内に求めるのか、外に求めるのか

2024-08-24 20:05:13 | 十地経

「人間というものを救う原理

を人間の内に求めると。

大抵の宗教は人間の外に

求める。」

ということがあったんですが

自分を振り返ってみると

お参りするとき

お不動さま、お観音さまと

何か、外の力

お不動さまの力とか

観音さまの力というような

ものを感じてお参りしている

ようです。

 

ですから、

救いというものを自分の内に

求めるということは

難しいような気がします。

では、

外の力としてお参りするのは

間違いなのでしょうか。

そういう問題があります。

 

しかし、

それはそれで

いいのではないかと思う

のです。

問題がどこにあるかで

求め方も違ってくると

思うのです。

観音さまやお不動さまの力

を頂いて解決する問題で

あればそれはそれでいい

と思うのです。

 

人に裏切られ、

どん底に落とされて、

二進も三進もいかなく

なったとき

自分を救ってくれるものは

何なのかという

問いが起こってきます。

 

お釈迦さま母を亡くされ

国を捨て、家来や国民も捨て

出家された

そして、自分の国は滅ぼされた

そういう境遇の中での出家です

生半可なものではなかった

その中から悟りを開かれた

その内容は

「人生は苦なり」という

四苦八苦の発見です。

 

そういうことがあって、

お釈迦さまの弟子になられた

人達はどのような修行をし、

生活をしておられたのでしょう

 

ここに頭陀(ずだ)

ということがあります。

母の時代には「頭陀袋」といって

何でも入る布で出来た

ボディーバッグの様なものです

ドゥータという言葉の音写で

斗藪(とそう)、修治などと

訳されます。

斗藪というのも振り払う

というような意味で

煩悩を振り払うように修行する

というので、あえて訳さず

頭陀と音写したのでしょう。

 

衣食住に対する貪着を棄てて

心身を修練するということです。

それには12の行があり、

それで十二頭陀といいます。

気になったのは

塚間住(ちょうけんじゅう)

といって、墓場に住む

というのもです。

 

というのは

墓場、死を忘れるな

ということでしょう。

死を忘れると

人間はうぬぼれてしまい

ついつい自分勝手な

考えをしてしまうものです。

 

それからもう一つ

お釈迦さまが定められた修行に

三十七道品というのがあります

品というのは方法という意味

その最初は

「四念処」(しねんじょ)

身・受・心・法、の四つで

身は不浄である、

受は苦である、

心は無常である、

法は無我である、

ということに思いを凝らして

見つめるということです。

というものの

なかなかそうは思えない

のですが、

「身」一つ取ってみても

不浄とは思えません

立派なもんだと思っている

のです。

しかし、何かあった時に

やはり自分の身は不浄だな

と思える時があります。

そういうようなことで

自分をじっくり見つめる

ということがないと

分からないことです。

そういう修行を弟子たちに

課しておられたようです。

 

自分の内に救いを求める

というのは

まずは自分自身は

どういうものであるか

ということを深く見つめる

そこから始まるのです。

 

『十地経』の初歓喜地

初めて歓びが見つかった

ということですが

これは自分が煩悩の主である

ということが分かったという

歓びなんです。

 

そういうことを見ていくと

自分の内に救いを求める

ということが、なんとなく

分かるような気がする

のですが … 。

 

 

 

 

 

 

 

 

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