本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

静かに「錦織圭選手」応援

2017-01-08 21:26:36 | 住職の活動日記

ゆっくりテレビを見ながら、

錦織選手を応援しました。

オーストラリア・ブリスデンでの試合

決勝まで行って

今回は絶対優勝かと

と思いきや、もう一歩の所で

負けてしまいました。

 

孫たちも帰り

静かな時間が戻ってきました。

孫疲れ、といいますか

「孫も疲れる孫疲れ」

テレビでも正月が終わると

孫疲れで、足腰が痛くなるとか

腕が腱鞘炎になるとか

マッサージのお店が繁盛とか

可愛さあまり抱っこしすぎて

帰ってみれば腕が腱鞘炎

また、足腰まで響くものです。

 

孫疲れもありますが

孫たちも疲れたのでしょう。

 

久しぶりに会う時は

お互いお利口さんで

随分成長したものと

ほほえましく眺めていたのですが

だんだん、

自分の我が出てくるものです。

何でもないことで取り合いしたり

それがどうしても譲れず

ケンカになり

お互い泣き出してしまう。

 

煩悩が成長していくのです。

執着というか

一つのものに執して

絶対に離そうとしない

やはり自分で自分がコントロールが

きかなくなってくるのです。

それで相手に因縁をふっかける

同じ椅子なのに一緒に座れば

何の問題もないのですが

どうしてもこちらの椅子がいいと

お互い譲らない、

頭では

本当は分かっているのでしょう。

しかし、なにかしら

感情が許さない

些細なことが煩悩を膨らませて

終いには相手を叩くという

暴力に訴えるのです。

これは子供に限ったことではなく

大人の私たちも

些細なことがもとでケンカに

発展していくものです。

 

おもしろいもので、

人間一緒にいたいものですが

一緒にいると

ケンカしてしまうものです。

 

これから、

小学校、幼稚園へと進むのです

そこで、社会ということを

学んでいくのです。

お互い譲り合う事で

一緒にいて楽しいということを

身に憶えていく、

そのままであれば

人間はただ煩悩を膨らませる

ばかりです。

 

教育ということは

持っているよきものを引き出す

ということですが

一面には、

よき人と出会うということも

あると思います。

出会うことによって

自分の本来持っている

よきものを引き出してもらう

そういうこともあるのではないかと

思います。

 

自分のリズムを取り戻すために

ちょっと時間がかかるかも…、

お互い元の生活にもどり

マイペースを作らなければ、

年と共に戻るのに

時間がかかるかもしれません。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初夢

2017-01-07 17:02:25 | 住職の活動日記

不思議な夢を見ました。

初夢ではありませんが、

初夢には「一富士二鷹三茄子」と

縁起の良いものを見るといいとか

いいますが、

私が見たのは死んでいく夢でした。

正月早々縁起でもない!

といわれそうですが…

 

その時思ったのは

「生死」という言葉もあり

「死生」という言葉もあります。

辞書で見ると、

生死(せいし)、生と死

死生(しせい)とも(ししょう)とも

読みます。

生と死を考えるときには

「死生観」ということがあります。

 

仏教では

「生死」と書いて(しょうじ)と

読みます。

人間は生まれて、年老いて

病気してやがて死んでいく、と

そのようにふつうは考えますが、

そうではなく、

生老病死の四つの苦しみ(四苦)も

簡単にはそう見えてしまいます。

老病死はなんとなくわかります。

年老いていくのも嫌ですし、

病気するのも嫌なことです

まして死んでしまうのは尚更

嫌なことです。

 

この四苦の中でわからないのは

生苦ということです。

生れるという苦しみではなく

この生ということは

その裏には死ということが

常につきまとっている。

元気そうに生きているが

いつ死が訪れるかわからない

そういう不安定な生である

ということです。

 

生れてやがて、

死んでいくということではないのです。

 

生と死とは裏表のようなものです。

 

ここ宇治の地というのは

ちょうど京都と奈良の中間地点

藤原氏にとっては

奈良の興福寺は菩提寺です。

京都から奈良へは

いつも通る道中が宇治の地です。

中間ということで言えば

京都と奈良の中間、

この世とあの世の中間

この苦しみの娑婆と浄土の中間

京都から行けば宇治川を渡って

その地の平等院を建立された

ことには大きな意味があるようです。

 

この苦しい世界、娑婆にあって

安楽の浄土を希う(こいねがう)

そこに本当の浄土を建立されたのが

平等院です。

お経に書いてある通りに

浄土の姿をそのまま作られた

まさに自分が浄土にいるように

 

死を前にして

阿弥陀如来に手から紐を垂らして

それを握りしめ

念仏を唱えて

薄れゆく意識の中で

阿弥陀如来にもとへ参る姿を

そのまま体験されたのでしょう。

これで、浄土へ行けるのだと。

 

ふと思うのは

死を前にして朦朧とした意識の中で

何を考えるのだろうか?

ぼけてしまえばそれはそれなりに

幸せなことかもしれません。

聞法して聞いたことが

明らかに蘇ってくれば

それに越したことはありません

また、それだけ聞法をしなければ

いけないのでしょう。

 

夢の中で死んでいく光景は

朦朧と夢かうつつか

現実と思いが重なり

どれがどれかわからなくなり

次第に意識が薄れていくという

というものでした。

 

そう思うと、

藤原氏が平等院を建立された

それは切実なものだったのです。

ある一面からいえば

薄れゆく意識の中で

阿弥陀如来の姿の前で

導かれるように紐を握り

意識が薄れゆくというのは

素晴らしいことではないかと。

 

どこを切っても仏法が出てくる

そうなればしめたものです。

しかし、座禅でもして瞑想すると

とんでもないことを思い出します。

雑念ばかりがでてきます。

寝ても覚めても仏法が出てくる

そのようには程遠いようです。

 

薄れゆく意識の中で

何が出てくるのだろうか

空恐ろしい気もしますが、

一言でも

聞いた教えの言葉が出てくれば

有り難いと思うのです。

そのためにも、

日々聞法を重ねる

以外はないようです。

 

なんとも取り留めのない

初夢でしたが

まあ、生と死ということを

考える縁でもありました。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ことぶきかぎりなし」と書いて寿限無

2017-01-06 21:00:35 | 漢字

お正月にはよく見かける字です

「寿」(ことぶき)

目出度いときにも「寿」という字を

書きます。

祝儀袋にも正月の祝箸にも

寿とよく目にします。

 

古い字形は「壽」と書き、

受ける、ということがもともとの

意味のようです。

そこから、

老いるまでに受ける久しい年を

意味するようになりました。

長年は最もめでいたいので

ことぶきの意味になった

ということです。

 

仏教の方でも「寿」は

とても大事な字になります。

お経では、

無量寿経というお経があり

その仏さまが無量寿如来

つまり阿弥陀如来のことです。

宝船に乗っておられる七福神

福の神々とあって寿の付く仏さまは

福禄寿、寿老人、恵比寿さまと

福禄寿、頭が長くお経を杖に

結び付けている幸せの神さま

寿老人、長寿を授けるという神さま

恵比寿、商売繁盛の神さま、と

よきことが多い神さまです。

 

しかし、

寿ということもおめでただけでなく

「寿命」というと

また違ったニュアンスがあるようです。

仏教辞典には

インドのアーユスという言葉の訳で

命根(みょうこん)とか寿命とあり

厳密には

この世に生を受けてから

死に至るまでの期間

体温と意識のハタラキを

持ちこたえるもの

という意味になります。

私たち人間が生きている

ということは一つには

煖(なん)という体温があり、

これは肉体的はたらき

ということでしょう。

それだけではなく、心がある

それを意識といっているのです。

肉体と心のはたらきを「寿」とか

「寿命」とか「命恨」といったのです。

 

まあ、こういうことが

「寿」、「寿命」ということの

本来な考え方なのでしょう。

 

寿も「ことほぐ」で

言葉で祝うこと。またはその言葉。

と広辞苑には出ています。

そこからもっぱら

お祝いごとの意味で「寿」という字が

使われるようになったのでしょう。

 

また、

「めでたい」ということも

目出度い、とか芽出度いと

書いたりしますが

どうも当て字のようで

愛でる、いたし(甚)という

「めでる・いたし」、が

めでたいに

なったということのようです。

好み愛したい感じがする

「愛と甚」

愛する、愛でる、といいますが

本来は人にものを与えるという

という意味、

甚ははなはだし、と読みますが

甚の下にある「匹」という部分は

男女の和合を表すということのようで

甚は夫婦の和合を表し

ひいてはそれは楽しみであるから

はなはだの意味になったということ

のようです。

愛と甚、そういうことからすれば

「めでたけれ!」

ということも頷けるような気がします。

 

何気なく使っている字ですが

やはり語源というか

もともとの成り立ちの

意味があるようですね。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬将軍仕事始め!

2017-01-05 17:20:55 | フラワー

今日から「冬将軍仕事始め」とか

予報通り、外は北風が強く

寒さも厳しさを増しています。

 

 

近鉄沿線沿いの土手には

草花も枯れている中、

 

 

自生した「水仙」が顔を出しました。

 

 

これからこの寒さに向かって

清楚な花を咲かせてきます。

 

枯れた草の中に

にょっきり顔を出した姿は

この寒々しいときに

何かしらホッとしたものを感じます

 

またこの時期の花は「山茶花」も

いたるところで

これ見よがしといわんばかりに

満開の花を咲かせています。

 

我が家のシクラメンも

 

 

なんだか虫のような姿ですが

ニョキニョキと顔をもたげています。

 

 

花の咲き方も面白い、

頭を下げて蕾を持ち上げ

葉の上に顔を出したら

純白の花を広げていきます。

 

冬将軍も仕事め、とか

まるという字もめという字も

あります。

始と初、どうちがうのでしょう?

初は成り立ちは

衣と刀から出来た字です。

着物の生地を裁断するのは

衣をつくるはじめであることから

きています。

 

初は最初という意味で

初の反対は後になります。

始は物事の始まる意味で

始の反対は終わりということです

 

経典では

初の方がよく出てくるようです。

「初転法輪」、

お釈迦さまが最初に教えを

説かれたことを、

法輪(教え)を転がすという

喩でこのように言います。

十地経のなかでは

「初歓喜地」

教えを聞いて喜びを得たという

そこから歩みが始まる、

歓喜ということがなければ

物事は進みません。

歓喜ということが行動を

起こすのです。

 

「初発心」(しょほっしん)

同じようなことですが

初めて志を起こしたという

得度する時の心境を初発心

初めて仏道修行をしようと

志を起こしたということです。

 

まあ、「仕事始め」と

今日からが大体の会社では

仕事が始まるようです。

正月気分を捨てて心機一転

仕事に集中、ということですが

5.6と出勤したら、また

6.7.8と3連休が続くようです。

冬将軍も仕事始めだそうですから

身体を大切に

冬将軍に負けないよう

頑張りましょう!!

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新春「福袋」に「宝くじ」

2017-01-04 17:33:04 | 漢字

お正月は縁起にいいものが

ならびます。

やはり私たちは「福」とか「宝」

に弱いのです。

世界中見わたしてみても

これだけ福と宝にあふれた国は

ないと思うのですが、

それでも、

福を求め宝を欲しがります。

 

「福」という字も成り立ちは

示(神)と畐(酒を入れる甕)

からできています。

祭りに参加した人がもらう神酒

というのが語源です。

そこから神の恵みという意味になり

酒の意味がなくなって

神さまから与えられるもの

さいわい、しあわせ、という意味に

なってきました。

 

お経にもよく出てくる言葉です。

いつもお唱えする

「観音経」には

『福聚海無量』と、

福が集まることが大海に

無量の川が流れ込む

ようであるという喩として

でてきます。

また、

『福徳円満』という言葉も

よく使う言葉です。

『福田衣』(ふくでんえ)

と言えば衣の袈裟のことです。

仏さまのことを

大福田(だいふくでん)ともいいます。

名前として使えば福田(ふくだ)

ですが、仏教読みでは(ふくでん)

と読みます。

福徳を生み出す田ということですが

仏や父母、苦しむ悩むものに

敬い仕えて施せば福徳功徳を

得られるということで

「田」に喩えたのです。

 

また「宝」という字も

旧字体では「寶」と書きます。

この字を分解すると

ウかんむりはしまっておく所

たっとい財を示す貝と玉から

できている字です。

家にしまっておく大事なもの

を表すのがこの字の意味です。

そこから、「たからもの」という

意味になったのでしょう。

 

この字も仏教ではよく出てくる

文字なのです。

聖徳太子も十七条憲法で

「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧なり」

といっておられます。

それから当院でも授与される

「宝船」ということもあります。

橋の上についている

「擬宝珠」(ぎぼし)

宝珠に似せた球ということですが

「如意宝珠」ということもあり

思いのままに宝を出してくれる

玉ということです。

地蔵菩薩も手に

宝珠を持っておられます。

虚空蔵菩薩もそうです、

虚空より宝物を雨降らせた

ということです。

 

なんだか不思議なことに

「福」とか「宝」ということが

仏教に関係しているというのは

面白いことです。

 

般若心経のなかにも

『一切顛倒』(いっさいてんどう)

という言葉が出てきます。

私たちの生きざま

すべてが逆さまだというのです。

幸福になろうとして、

不幸になっている。

得を得ようとして損をしている

賢くなろうとして賢さを

失っている。

さとりということも

この逆さまになっている

ということの自覚かもしれません。

 

福とか宝とか求める

のもいいですけど、

今ある現実を

静かに見つめ直してみるのも

福とか宝ものに気がつく

ことかもしれません。ね!

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書き初め

2017-01-03 20:50:12 | 住職の活動日記

書き初めといっても

たいしたものではありません。

なにせ、今は4人のちびっ子たちが

部屋中ウロウロしていまして

硯を出して墨をするどころでは

ありません。

昨年からぼちぼち始めている、

鉛筆でなぞり書きです。

脳が5歳若返るとか…??

 

 

声に出して読んでは

なぞり書きをしてまた読み返す

 

 

昔やった子供の練習帳のような

ものなのです。

楷書で書いて、行書で書くと

同じものを2回書きます。

 

最初はアホ臭いような、

なんだかバカにしていたのですが、

かな書道をやりだしてから

もう一度、消しゴムで消して

何回か書き直していると、

えんぴつ書きといっても

バカにしてはいけない。

ゆっくり丁寧に書いていると

次第に面白味も出てきます。

 

面白い記事を見つけて

京都新聞の「なるほど京暮らし」

という、ちょっとした情報ですが、

 

 

京都の鐘は場所によって

音の高さが決まっていたとか、

最近では、

梵鐘も騒音と捉える人もいて

撞かなくなったお寺さんもあるとか

先日の新聞では、

お寺さんも除夜の鐘が大変で

自動にセットしておいたら、

入力ミスでしょうか

朝まで鳴り続けご近所からの

クレームもあったということです。

 

この新聞記事によると、

中央は「壱越調」(いちこつぢょう)

という、レの音

東は「双調」(そうぢょう)

という、ソの音

南は「黄鐘調」(おうしきぢょう)

という、ラの音

西は「平調」(ひょうぢょう)

で、ミの音

北は「盤渉調」(ばんしきぢょう)

という、シの音

レ・ミ・ソ・ラ・シ

というハーモニーが京都の町に

響き渡ったことでしょう。

 

記事によると、

秀吉が寺町筋にお寺を

集めてからはそういう響きは

なくなったということです。

寺町に集めて

有事の時にはお寺を防御線

にして守ったということです。

まあ、お寺は兵が休め

水も食料もあり、

丈夫な塀もあるということで

防御の役目をしたのです。

 

また、お正月には

京都では「大福茶」が飲まれます。

お煎茶に梅や昆布を入れて

飲むのです。

村上天皇の頃951年

都に疫病が流行ったとき

空也上人が梅と昆布を入れて

お茶をふるまったところ

疫病が治まったという

故事があります。

 

もともとは「大服茶」ということで

たっぷりのお抹茶を点てた

ということです。

その服が福に通じることから

「大福茶」となって

新年を祝うお茶になった

ということです。

 

ここ宇治ではお茶にも

磨きをかけ

ホイロという熱い台の上で

お茶を揉む仕事が

さかんに行われています。

お茶の葉を針のようになるまで

細く長く揉み込んでいくのです。

そうすることによって

お茶の深みもまし味わい深い

宇治のお茶が作られています。

 

新年はいろいろな行事が

あちこちのお寺や神社で

さかんに執り行われています。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喜びを運ぶ木

2017-01-02 15:02:28 | 住職の活動日記

元日は穏やかな日和で

空も美しく晴れあがりました。

初詣は近くの氏神様へ

 

 

宇治上神社の鳥居です。

扁額には「離宮」の文字が見えます。

江戸時代までは「宇治離宮」と呼ばれて

いたことの由来です。

 

 

鳥居をくぐり、ここの門は

神社らしからぬような、

小さな山寺の山門のような佇まい、

 

 

そして国宝の拝殿、

とても美しい拝殿です。

真新しい檜皮葺も清々しい

とても好きなところは

 

 

両端のちょっと盛り上がって

流れるような屋根の線です。

 

 

この造りは他ではあまり見かけません。

日本で一番古いという宇治上神社

拝殿の両端を付けたような屋根の形

縋破風(すがるはふ)というようです。

寝殿造りという住居のような

立派な拝殿の姿です。

 

 

そしてその裏にある本殿、

中央に応神天皇、左に仁徳天皇

右に菟道稚郎子(うじのいらつこ)

の三社を一つの大きな社殿で

覆っているという作りです。

 

応神天皇の子、菟道稚郎子は

皇太子でありながら

異母兄弟の仁徳天皇に

位を譲るために自殺したという

美談が伝わっています。

この宇治川沿いに少し下ったところに

立派な御陵さんがあります。

 

菟道稚郎子にとっても

一番落ち着けるところなのでしょう。

 

拝殿の前で気になったのが

 

 

美しいクチナシの実です。

漢字では「梔子」と難しい字です。

花言葉は

「とても幸せです」

「喜びを運ぶ」

と書いてありました。

 

帰りがけに見つけたのですが

みなさんにも幸せを運んでくれそう

そのような姿に見えました。

 

今年も善き事が一杯ありますように

願っています。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謹賀新年

2017-01-01 19:46:23 | 漢字

謹賀新年   

明けましておめでとうございます。

今年もどうぞよろしく

お願い申し上げます。

 

今年は酉年、

漢字では「酉」の字をあてます。

調べてみると、

「酉」の字は酒を成熟させる壺の形

からきています。

このとりへんが付く字は

ほとんど、

お酒に関係しているようです。

 

酒・酌・酎・酔・醒・醜・醽・釂・醺・酬

と、親しんだ字もあれば

初めて見る字もあります。

 

それから当院の本山は「醍醐寺」

ここにもとりへんが付いています。

酪・酥・醍醐

乳が熟成される過程、

乳[にゅう]から酪[らく](ヨーグルト)・

酥[そ](バター)

醍醐(チーズのような)

醍醐味といわれるように

何ともいわれない美味なる味

ということでしょう。

 

そして酒から変化した

酢・酸・醢・醤・醴・釀・醗・酵・配・酋

等々あるようです。

 

今年も程よく酒を嗜み、酔って醒めて

人生の酸いも甘いもかみ分けて、

苦労を醸造し発酵させて

恩に酬い、醍醐の味を

かみしめたいものですね!

 

参考までに難しそうな字の意味

(シ)たしなむ。

(ショウ)のみほす。

(クン)酒に酔う。

(シュウ)酒をすすめる。むくいる。

(カイ)しおから。

(。レイ)あまざけ

(ハツ)かもす。

(シュウ)よい酒。

       酒を司る長官。

 

酉年ということで鳥の姿

 

 

火の鳥のように羽ばたいて

いければと念じております。

 

 

美しい姿です。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする