本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

動静一如

2024-08-11 20:38:52 | 十地経

ここの講義も「止観・双行」

ということが続きます。

 

テレビではオリンピックの

放送が流れています

どの競技も止観ということ

がないと、

成り立たないような気がし

ます。

止観・動静一如という

動と静が同時に成り立つ

そこに素晴らしい競技が

生み出されてくるようです

 

講義では、

「双というのは、

止と観ですね、これは

動静一如という。

止という字は静、

観は動ですね。

動静一如というようなこと

が双になるわけです。

止と観といいうのは、

これは性格が反対なわけで

す。特色をいえば、

これは動静という体質を

もっている概念なんです。

 

止というのは定(ジョウ)

を表す。

この止とか観とが、

性格からいえば正反対です

それが一致してくるように

なったのが七地です。

 

性格の反対なものが一致

してくると。

これは論理的に一致して

くるんじゃなしに、

実践的に一致してくる。

実践として一致してくるん

ですから、つまり

行が純熟したと。

止観の行が純熟したと

いいますね。

 

七地以前は、

ただ努力しとるというだけ

ですけど、七地において

その努力が純熟してきたと

こういう点が大事な点で

しょう。」

 

よく「純熟」ということが

出てきます。

独特な言葉のようですが

純粋に熟してくる。

自分勝手にやるというと

それは純粋ではなく

不純粋になるのでしょう。

熟してくる、ですから

完成してくるという

ことになるのでしょう。

 

行が純熟するといいます

から、つぎのところは

 

「行というのはただ

実行するという意味じゃ

ない、方法論なんです。

止観というのは、

悟りを開く方法なんです。

悟りを得たいという

一つの実践的要求です。

願というものが

行を見出すことによって、

自分を完成していくんです

方法ですね。

 

そういう実践的方法という

ものは、とにかく慣れる

ということが大事です。

反復して慣れると。

公式をただ暗記したって

どうにもならんわけです。

 

実践的方法は、

使わなければ意味ないこと

です。

使うことによって完成する

ものです、方法という

ものは。

これは、なかなか大事な

ことじゃないかと思う。

つまり、止観というのが、

広い言葉でいえば

精神生活を完成する方法

なんです。

 

行という字は修行という

字があるでしょう。

修行すると。

修という字は修習する

という意味があります。

習うという字は、

これは反復することです。

 

止観の行というようなもの

は、止と観とを定義したと

ころで意味のないことです

それを反復し

修習することによって、

内容は正反対なんですけど

それらのものが一致して

くると。

 

一致させるのは、

論理で一致させる

ということではない。

熟練が一致させてくる

わけです。

ようやくその、

努力が反復されて、

努力が純熟してきたと

こういうのが

七地なんです。」

 

なに一つとっても

最初はぎくしゃくするもの

です。

それが繰り返しやっていく

うちに身につき、身体と

一つになっていくところに

習熟ということが出て来る

やはり何事も

繰り返しやっていくという

ことが大切なことのように

思います。

 

 

 

 

 

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双行…止観

2024-08-04 17:51:53 | 十地経

「双行」(そうぎょう)

ということが第七地の中心

課題のようです。

一つの講義が終わり

そして次の講義でも双行と

いうことから始まります。

 

第七地の内容を四つに分け

ています。

1.楽無作行対治差別

 ラクムサギョウタイジ

 第六地に停滞する心を

対治する。妨げるもの煩悩

を対治する。

 

2.彼障対治差別

 カノショウタイジサベツ

未熟を対治する。

無量にして

自然ジネンになるまで対治する。

 

3.双行 ソウギョウ

無量・自然となった状態。

 

4.前上地勝

ゼンジョウチショウ

前の六地以前にも勝れ

後の上地(八地以降)にも

勝れている。

 

ということが大きく四つの

内容です。

 

そこで、双行ということが

よく繰り返しでてきます。

経典では「双行」という

短い言葉ですが

その内容は深いものを

持っています。

内容が深いほど言葉として

は短いといわれます。

 

双行とは止観、

止と観です。二つの行、

この止観の行が完成する

のが七地ですが、

というより仏教全体が止観

といえます。

最初から最後まで止観です

 

止はとどまる、

観は見るということです。

詳しくは

もろもろのおもいを止めて

心を一つの対象に注ぐ

ということが「止」、

それによって、

正しい智慧を起こして

対象を見る「観」という

ことです。

 

お釈迦さまの時代、

ヤサという青年が

「あぶない、あぶない」

といって、お釈迦さまの

もとへやってきます。

お釈迦さまは

まあ、座れ、と

ヤサの心を落ち着かせます

理由を聞くと

女性を侍らせ楽しく飲み

浮かれていたのですが、

ふと夜目を覚ます

今まで美しかった女性は

見るも哀れな姿

化粧も落ち服も乱れた

様子なのです。

 

そのことを見たヤサの心は

すっかり覚めてしまい

お釈迦さまの元へ

飛んできたというのです。

 

仏教では座禅というように

まず座る、思索するのも

座って行います。

西洋では逍遥学派という

こともあるように、

歩くということが思索の

中心です。

 

お釈迦さまも

座らせて落ち着いたところで

諄々と教えを説いた

たぶん八正道の教え

というか実践の方法です。

それでヤサも出家して

お釈迦さまの弟子になった

といわれています。

 

こういうことも一つの止観

の実践のようです。

 

寺も悩んだ人がやって来る

そういう場所です。

お見えになった時、

どうぞお坐りください

まあ、お茶でもどうぞ、と

その一時が

心を落ち着かせ

自然と心を開き

自身の悩みということを

話すという、

そういうことがあります。

 

止観ということは

もっと深い内容をもって

いますが、

簡単には、止という

心があれやこれやと

思い患い動揺している

その心を止める。

観ということは

貫穿(かんせん)の義

という意味があります。

貫き穿つ、

ただ見るということでは

ない、きわめてみる

というような意味がある

のは面白い表現です。

 

講義ではもっと深い内容で

止観・双行ということが

出てきます。

 

 

 

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インドとヨーロッパの出会い

2024-08-03 19:16:10 | 十地経

安田先生の講義の中で

私にとりましては

『十地経論講義』と

『唯識論講義』が

大きな二つの柱です。

といいましても先生には

幅広い講義録があり

全集が発刊されています。

 

その中で、

『唯識論講義』を読んで

なるほどと頷くところが

ありましたので記します。

 

アレキサンダーは至る所に

アレキサンドリアという

自分の名前をつけた都市を

造りました。

そして

インドまで来たわけです。

それまではインドの思想と

西の方の思想とは、

それぞれ独立して発展して

来たのですけれども、

アレキサンダーの東征に

おいて、初めてインドと

ヨーロッパの思想が

触れたのです。

 

仏教の経典の中に

『ミリンダ王問教』という

のがありますが、

あれはその記念でしょう。

仏教僧とミリンダ王との

対話が出ています。

ギリシャの思想とインド

から出た仏教の思想とが、

そこで初めて対話したこと

が語られています。

 

無我ということに

初めて触れたのでしょう。

無我という考え方は

全くギリシャの人にとって

は思いもよらない考え

だったのではないでしょう

か。

 

インドの大学教授で

ラクシュミナラスという

人がいまして、

著書に『エッセンス・オブ

・ブッディズム』という

本があります。

今でも私は名著だと

思っています。

その本を私は少年時代、

田舎にいる頃に読んだ

のですが、

その中にミリンダ王と仏僧

との対話について

述べてありました。

 

そのラクシュミナラスが

述べるところによりますと

 

人間の他に誰にも依らずに

神のようなものを立てずに

人間それ自身の自覚を

通して人間を超える道が

見出されたところが仏教の

素晴らしさというもので

ある。

人間を通して人間を超えた

人間以外のものの力に

よって人間を超えたのでは

なくて、

人間を通して人間を超えた

ということが仏教の

素晴らしさであるという

ことでした。

 

「遇い難くして今遇うこと

を得たり」というのは

そういう感動でしょう。

そういう人間の自覚を

通して人間を超えたという

ことは非常にユニークです

 

ある人に言わせると

仏教は宗教じゃないんじゃ

ないかということです。

というのは絶対的な神とか

他というのもが出てこなく

て、

自分が自分を超えていく

ということです。

 

今読んでいる

『十地経論講義』も

その十地というのは

私たちが自分の煩悩を対治

していくという道程です。

 

何もしなかったら

自分を悩ます煩悩という

ものはないのです。

何かをやれば必ず

自分を超えなければ

ならないという問題が

見えてきます。

 

自分が自分を

自分で超えていく

ということはいかにも

自力の限りのような

気がしますが

そうではなく、

第六地まではやはり

自力の限りを尽くすので

しょう、

第七地は遠行地

行が完成していくという

自力のかぎりを超えていく

そこが自然(じねん)と

いう世界が開けてくる。

 

まあ、先生の講義は

行きつ戻りつしながら

第七地の所を繰り返し述べ

ていかれています。

ということで

私にとっては

『十地経論講義』と

『唯識論講義』とは

学び尽くせないほどの

大きな行のような存在

なのです。

 

 

 

 

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