群馬県は山ばかりの県と思われがちですが、群馬に住んでいる私たちが、
群馬よりずっと平野部であるはずの埼玉県や千葉県に行くと、
なぜか群馬以上に緑が豊かであるように思えてしまうことがあります。
それはおそらく、里山と言われるような緑の空間が群馬より多いためです。
山の緑が豊富な群馬には違いありませんが、山の広大な裾野や平野部に入ると
里山と言われるような木々が生い茂った空間が群馬は意外と少ないのです。
これは、養蚕が盛んであった頃に平野部の多くが桑畑にされたことや、お蚕を育てるにも風通しが良いことが必要なため、屋敷林のようなものは嫌われたことによるのかもしれません。
また赤城山、榛名山などの裾野が火山灰地であることもその理由にあると思われます。
一口に「関東平野」といっても、急峻な山間部と平野部が明確に分かれているのは群馬県が特別で、埼玉県でも北西部は丘陵地帯が多く、茨城県、千葉県も筑波山以外に高い山はほとんどなく、それ以外の場所は完全な平野部というよりは、緩やかな丘陵地帯が意外と多いものです。こうした山の裾野エリアでもない平野部にある丘陵構造というのが、群馬県人にはとても新鮮に感じられるのです。
そんな印象を茨城県へ行った時は、とくに感じていました。
群馬と知名度ランクングの最下位をいつも争うライバル、栃木、茨城の3県ですが、
そのなかでも最も群馬から遠い位置にある茨城県は、はるばる訪ねる理由が、
私には水戸芸術館か岡倉天心ゆかりの五浦くらいしか思い浮かびませんでした。
それでも、その太平洋岸へ至る内陸の丘陵地を通り抜けるときにいつも感じるのは、
失礼ながら納豆以外にこれといった名産もないかの印象であった農村風景が、
どこも予想外に豊かな生活感があふれており、これといった産業はないかもしれませんが
群馬よりは意外と豊かな暮らしぶりが感じられるのです。
失礼ながら、群馬に比べたらたいした山もないのに、林業もそこそこに生きており、
荒れた景観が思いの外少ないことにも驚かされたものです。
同じように千葉県の内陸部では、北海道並みの大規模農場が多いことにも驚かされます。
群馬だったら、昭和村か嬬恋村でしか見られない広大な農場風景が、東京からすぐ近くのところに広がっているのです。
前書きが長くなりましたが、そんな思いを感じていると、その千葉、茨城の丘陵部の延長線上にある福島県の阿武隈高地のことがとても気になって仕方がなくなってきました。
この千葉から茨城にいたる丘陵地形の発端は、福島と宮城の県境に端を発する阿武隈高地から始まっているからです。
そこで、福島県内では、原発被害でも最も高汚染の被害を受けている阿武隈高地の北部、
とりわけ飯館村周辺と、そこへ至る阿武隈山系の中心部をまっすぐ南北に貫いている国道399号沿線を、実際にこの目で確認してくることにしました。
1度目にそこを訪ねたのは、2018年5月18日、19日。
2度目は、同年、7月22日。
そこには、阿武隈高地特有の千メートル未満の穏やかな山並みが続き、
緩やかな起伏の里の風景がどこまでも続きます。
この阿武隈高地一帯すべて、群馬のような赤城山、榛名山、妙義山といったように
独立した高さを競うかのような山はほとんどありません。
標高1,000m以上というと、
・日山(天王山)1057m
・大滝根山 1193m
の2峰のみです。
そのためか、山並みを切り裂くような大きな川もあまりありません。
利根川のように、この川が本流、この川が支流といった区別もほとんど感じられないのです。
無数の沢と谷が穏やかな流れをつくるのみの地形です。
どこも緩やかな山なみのため、無数に点在する集落は、
とても日当たりがよく、明るい里の風景が延々と続きます。
ここと似たような地形といえば、中国山地が思い浮かびます。
瀬戸内に面した中国山地は雨量が少ないこともあり、植生がまた異なることと思います。
このたびの未曾有の豪雨災害のからみでもここの地形のことは大事な比較材料ですが、私は数回通っただけでとくに意識して地形、風土をみていたわけではないので、今回は深入りは避けることにします。
そこで他にこの阿武隈山系に似た土地として私が思い浮かんだのは、
新潟県の棚田で有名な十日町市、
あるいは中越地震で有名になった山古志村周辺です。
これらの土地は、周辺の山地がどこも標高300〜700mくらいで、
周辺に高い山が迫っていないことなど、阿武隈高地と条件が似ています。
新潟県は全国の土砂災害の2割を占めるといわれるほど地盤のゆるい土地です。
上の写真のように、山肌に岩盤を見ることは少なく、粘土質の柔らかい地層が多いのが特徴です。
よく私たちはこの辺のトンネルなどを通過するとき、
このあたりでトンネルを掘るのは鼻くそほじくるよりも簡単だ、
などと冗談を言ったりしてます。
それは山古志村へ行ったときも、まったく同様の印象を持ちました。
あちこちで中越地震の復旧作業がされていましたが、急峻な斜面ばかりが続き、
いかにも柔らかそうな地盤が見えているため、直してもすぐに他の場所が
何かきっかけがあればまた崩れてしまいそうに見えてなりませんでした。
それに比べると、この阿武隈高地は土砂崩れが起きそうな場所はとても少なく感じます。
山の勾配が緩やかなだけでなく、粘土質の地肌はそれほど見られませんでした。
さらに、このあたりが照葉樹林の北限にもあたるらしいので、
もしかしたら常緑広葉樹の比率が多いことも幸いしているのかもしれません。
またこのあたりの景観には、関東のように首都圏へ送る送電線が視界を遮ることもありません。
道路をいくら走っても営業看板などもありません。
確かに温泉地、ゴルフ場、スキー場などもないので、規制以前のことなのかもしれません。
起伏が緩やかなためか、道も山を削りコンクリートで固めることがありません。
群馬ではいたるところで見られる下の写真のような光景は、なかなか見られないのです。
わずかな違いなのですが、周辺の山の勾配が少しゆるやかであるというだけで、
道路などの管理・維持コストは劇的に変わってくるようです。
写真ではわかりにくいかもしれませんが、下の写真のように垂直に近い斜面ではなく、道路わきに限らず、山全体にかけてほとんどの勾配がゆるやかなのです。
したがって、白ペンキのガードレールも多くつくる必要がありません。
急峻な山がないということは、土砂崩れなどの恐れも少なく、
道路などの維持管理コストも抑えることができているかと思われます。
視界の中にコンクリートがないというだけで、どれほど景観が美しく見えるかということを
あらためて痛感させられます。
何十キロ走っても、どこへ行っても緩やかな曲線を描いて美しい景観が流れていくのです。
これらの特徴は399号線の太平洋側よりも、中通り地方側、阿武隈川寄りの地域の方が顕著にあらわれているように思えました。
その違いは、川の流れの方向に如実に現れています。
太平洋側では、どの川も西の阿武隈高地から太平洋側へほぼ一直線に流れているのに対して、
内陸部では、あるところでは阿武隈高地から西へ流れていますが、またあるところでは北から南へ、他のあるところでは南から北へと、様ざまな方向に川が流れているのです。
そうしたエリアのなかに、桜で有名な三春町や田村市の風景もあります。
妻が気づいたことですが、このあたりの農家の庭には群馬の農家の庭に比べると
あまり花々が植えられていません。
なにか周りの山々の緑の風景だけで完璧に満たされているから、
あえて園芸花を植える必要性を感じないかのようです。
真偽はわかりませんが、余計な努力をせずとも十分に満たされているらしい雰囲気だけは確かです。
それだけに、桜だけを大切に守りそだてることに集中できていているかにも見えます。
こうした阿武隈高地の山里の風景を見れば見るほどに私は、
「他と比べる必要を感じない穏やかなくらしの風景」
といったようなものを強く感じました。
そんな感動に浸って走っていると、ある地域を境に、
谷ごとにどこも汚染土の仮置き場が現れてきます。
気づけばここは、汚染レベルの最も高いエリアなわけです。
災害避難を余儀なくされた人の言葉ですが、
「村では米は自分で作ってたし、野菜も作ってた。
(今は買わなきゃいけない)買った野菜は美味しくない。味がヘンだ。
ここまで(買わないで暮らしてきた暮らしから一変したこと、国は)考えてくれるだべかなあ。」
一斉に花咲く春、
山菜採り、
カエルの合唱、
菖蒲の香り、
天の川、
蛍の乱舞、
緑のにおい、
土のにおい、
草のにおい、
紅葉に映える山々、
雪景色。
これらが失われることの重大な意味を、そもそも都会の役人や政治家たちは、知りません。
大自然のもつ大きな力や豊かな恵みそのものを理解できていません。
観光のための自然保護程度にしか考えていません。
彼らは大真面目に、所得を上げて、たくさんモノを買うことで成り立つ暮らしへ誘導するのです。
だから、どうすべきか、何をすべきかが噛み合わないのです。
私たちはナビを頼りながらも、最新の交通規制情報を見ないまま彷徨ったため、最終的には399号線を外れて国道114号線で浪江町へ抜けました。
ここは399号線沿線とともに、もっとも汚染レベルの高い地域を走っている道です。
汚染土を仮置き場へはこむダンプが絶え間なく通過していきます。
前日、国道6号線を北上した時は、帰還困難区域の富岡町、大熊町、双葉町から浪江町に入った途端に、まるで戒厳令が解かれたかのような開放感がありましたが、そんな印象は1日で吹き飛びました。
浪江町は東西に広がるまちで、国道6号線の通る市街地のみが汚染レベルがやや低くなっており、
浪江町の大半を占める西側の山間地は、高汚染地域だったのです。
2006年に埼玉県から福島県飯舘村に移り住んだ三角常雄さん(68)
あれから七年が過ぎた。家の周りは除染され、放射線量は、家の中なら毎時約〇・三マイクロシーベルトと国の長期目標(〇・二三マイクロシーベルト)を少し上回る程度には下がった。
だが、山とともに生きる暮らしは完全に壊された。家を一歩出れば、線量ははね上がり、敷地内の林では二マイクロシーベルトを大きく超える。林の土を本紙が二地点で測定したところ、一キログラム当たり一万八〇〇〇ベクレルと四万九〇〇〇ベクレルだった。厳重な分別処理が求められる基準の二~六倍のレベル。十分の一になるまで百年かかる。
「こんな状況じゃ孫が来たって遊ばせられない。山菜もダメ、キノコもダメ。何のための山暮らしか。もう住めない。理想の暮らしを目指して、少しずつ築いてきた年月は無駄になり、仲間は新潟や山形、東京などに移住して、離ればなれになってしまった」
三角さんは自宅を見つめて唇をかんだ。
(東京新聞 2018年7月20日 朝刊より抜粋)
それでも、まわりの山なみなど風景の美しさにまったく変わりはありません。
このことの意味するところは、次のような現実を示してもいます。
日本には、人口3万人未満の自治体が954あります。
しかし、その人口を合計しても、日本の総人口の約8%にすぎません。
他方、この人口3万人未満の自治体の面積を合わせると、日本全体の約48%になるのです。
つまり、日本の面積の半分近くをわずか8%の住民が支えてくれているということなのです。
枝廣淳子『地元経済を創りなおす』岩波新書
福島県に限らず、日本全国どこへ行っても、この地図の色の薄い部分にずっと昔から住む人々からは、
「俺たちの町には何もない」という言葉がしばしば聞かれます。
ところがそれらの言葉の多くは、「都会と比較したらば・・・」「有名観光地に比べたならば・・・」という意味のことです。
どんな土地でもそれらの意味をのぞいたならば、長い歴史をずっとそこにしがみついて生きてきた自然の恵み豊かな土地であるわけです。
長い歴史を通じて田んぼでお米をつくり、畑を耕し、林業や狩猟をしてきた彼らは、ここにどんな恵みがあるのか、どれだけ多くの先人たちがそれらの恵みに支えられてずっと生きてきたのかは十分知りつくしています。
わたしたちは、こうした姿を確認したくて再度、7月21日、福島を訪ねました。
前回は北の飯館村から399号に入ろうとして失敗したので、今度は南のいわき市の方から北上しました。
するとそこで目にしたのは、またしても予想外の景観でした。
もちろん、たった一本の399号線沿いを通っただけの印象なので、それを根拠にその一帯のことを判断するのは当然無理があるとは思いますが、それでも他のエリアとの明確な差は感じずには入られませんでした。
そもそも私は、いかなる土地に行っても、地元でよく「オレたちの地域にはなんにもない」と言われような実態は滅多になく、常に豊かな自然に代表される恵みあふれる場所であることは間違いのないことくらいに思って各地を見てまわっているのですが、いわき三和インターを降りて周辺の集落を抜け399号に入った途端に、周辺は本当にそこは何も見えない山道になってしまいました。
通常は、山道を深くわけいるといっても、それは群馬の山奥でも奥会津の山奥であっても、こんなに山奥までよく人が暮らしているものだと感心させられるほど、狭い谷あいでもケモノたちから必死に小さな田畑を守りながら暮らしている人たちの痕跡をみることができるものですが、この399号線の川内村へ至る区間は、本当にそういった痕跡がほとんど見られないのです。
飯館村から日山へいたる長閑な農村風景が、ずっとこのあたりまでも続いていることを勝手に想像していただけに、ちょっとこれは残念なことでした。
放射能被害があったから人が減ってしまったというようなものではなく、この一帯はずっと山村の暮らしというようなものがなかったのではないかという風景なのです。
人家はなくても林業でも行われていれば、里にはそれなりの貯木場や製材所の風景があるものですが、そういった景観もほとんど見当たりません。
今回ここへ来た目的は「オレたちの町はなんにもないというけれど、そんなことは絶対にない」ことを立証することなのですが、このエリアではさすがにその信念がかなり揺らいでしまった区間です。
このことを国道6号線を含めたエリアで見ると、いわき市や広野町周辺と北の相馬市、南相馬市、浪江町あたりに挟まれた原発近辺の富岡町、大熊町、双葉町の区間ですが、この一帯が、山間部を含めて、大変失礼ながら本当になんにもないように見えてしまうエリアなのだと痛感させられました。
だからこそ、原発誘致に飛びつくことも無理からぬことだったようにも見えます。
逆に、それらの土地からは距離のある葛尾村や飯館村の方が最も汚染被害を受け、利用価値のない山間部ではなく、美しい田園風景が広がっていた田畑のほとんどが汚染土の仮置き場になってしまっている現実が、いっそう際立って見えてきてしまいました。
田村市から葛尾村へ向かう399号の北限通行止めゲート
これがたまたま原発事故の時の風向きによる偶然のことなのかどうか、わかりませんが、飯館村、葛尾村といった日山の周辺の最も美しく豊かな恵みあふれる山村エリアが、一番深刻に後世まで放射能汚染の影響を受ける地域になってしまったのです。
もちろん、これらのエリアは富岡町、大熊町、双葉町の帰還困難区域の人口に比べたら少ない人口のエリアかもしれません。
どちらの方が被害者人口が多いかという問題ではなくて、どこを取ってもそこに暮らす人の掛け替えのない生活エリアの問題なのですが、自然一般ではないそれぞれの土地のもつ掛け替えのない価値という問題を399号線は、見事に私にあぶり出して見せてくれました。
そんなことから思わず私は399号線をサンキュー・ク(苦)と読んでしまいました。
2018年7月、国道399号線で立ち入れなかった区間
急峻な山や谷の少ない穏やかな山間部としての阿武隈山地の印象は、そのままさらに南下して、
石川郡の石川町、古殿町、浅川町。
東白川郡の鮫川町、棚倉町、塙町、矢祭町。
そして茨城県に入って大子町へと続く景観の中でさらに検証していきたいと考えています。
きっと川俣町、飯館村、日山周辺と田村市周辺で見た美しい山里風景に近い景観が
これらの地域でも見られるのではないかと思っています。
もちろん、続きはいつのことになるかわかりませんが、とりあえず「オレたちの町はなんにもないというけれど、そんなことは絶対にない」ことを立証するシリーズ、今回はここまでとさせていただきます。