For Coltrane - Abdullah Ibrahim
Abdullah Ibrahim & Ekaya - The Wedding
GW中の憲法記念日に、かつての草軽電鉄の機関車、愛称「デキ」が上信電鉄を走るというので、義父(96歳)をつれて下仁田の手前にある南蛇井(なんじゃい)方面へ向かった。
小さな機関車デキの姿は、田園風景よりも山間部の森の間をぬって走る姿の方が似合うと思ったからである。
高崎駅の出発、到着時刻から推定通過時間を予測して、おいしいそばをお昼に食べてから、南蛇井の不通渓谷近くに向かった。
撮影場所に近づくと、既に三脚をかかえた人々が何人も車の周辺にいる姿が見え、みな狙う場所は同じなのだなと思い、残された車のおき場所を探した。
ところが、車を少し離れた場所において線路の脇にきてみると、先ほど大勢いたカメラマンたちの姿がひとりも見えない。
ここからは見えないもっと良い撮影スポットにみんな移動したのかと思ったら、なんと車も一台もなくなっている。
どうやら通過時間を一本間違えたようだ。
義父に申しわけない。
取り繕うように、すぐそばの不通渓谷の美しい姿を撮影しながら、次の異動先を考えた。
電車つながりなら、横川の「鉄道文化むら」がある。碓氷峠の「めがね橋」がある。
幸い新緑がちょうど芽生えだした季節で、どこを走ってもそれを見るだけで義父も十分満足してくれたようであった。
鉄道文化むらは、GW中ということもあり、かなり混んでいそうであったのでパスして碓氷峠の旧道へ向かった。
かつて国鉄バスの運転手をしていた義父は、県内の地理はかなり詳しい方であるが、県下南西部はあまり来る機会がなかったようである。
ところが、碓氷線の景色をみているうちに昔の記憶が蘇ってきたのか、いろいろな思い出を語ってくれた。
(上記の本は、絶版で手に入らないものですが、碓井線の勾配などの路線の図面なども詳細に載っています。)
義父の話を聞いていると、いつもそれがいつごろの時代の話であるのか、つかみにくいことが多い。今回の話も定かではないが、それはどうやら敗戦後のまだ日本が米軍占領下にある昭和25年近辺のことのようだ。
かつてこの碓氷線で、大きな崖崩れの事故があったという。
敗戦間もない当時、救援の車両の確保もままならなかったので、物資や人の運搬応援として義父がバス一台とともに要員としてここへ呼ばれたらしい。
大規模な崖崩れであったようで、かなりの人手が動員され、埋もれた人の救出、土砂の除去の要員などは、みなこのトンネルの中に寝泊まりしていたという。
そこに下から駅長、局長(なんの局長か?)、署長?らもかけつけたのだけれど、そのどちらか後方を歩いていた一人がまた崩れた土砂のいけ埋めになってしまったらしい。
かなりの犠牲者が出たらしいが、遺体を引き取る被害者家族から、今朝はちゃんと首はついていたんだ。ちゃんと首は返してくれと詰め寄られる姿も目撃したとのこと。
義父はそのような現場へバスの運転手として赴き、片道は遺体を運び、片道はまたそのまま握り飯弁当を積んで往復したそうだ。
(後にこの事故は熊ノ平駅構内 土砂崩壊事故(昭和25年)であるとわかりました。)
http://www.gijyutu.com/ooki/isan/isan-bunya/usuisen/saigai-jiko.htm
そんな話を聞きながら、神社好きの義父であればきっと喜ぶだろうと峠の上の熊野神社へそのまま向かった。
連休中であるから、軽井沢へ降りてしまったら渋滞にぶつかることが明らかであったので、途中から林道へ入ろうと思っていたが、つい見過ごしてしまったので、軽井沢駅前に展示してあるデキを見てから、Uターンしてまた林道へ戻ることにした。
すると覚悟はしていたものの想像していた以上の大渋滞。ものすごい人と車。
この渋滞と人ごみを見て思い出した本。
多くの人には、軽井沢の避暑地、別荘地というとバブル以降のイメージしかないのではないだろうか。
地元の私たちにとっても、軽井沢というとバブルの時代に豪勢な別荘がどっと増え、その後、空き家になったままの家がいたるところに寂しい姿をさらしているイメージが強い。
それでいて今も夏場とGWなどの休日だけは、どっと人が押し寄せる。
そうかと思うと、瞬く間にまた人の姿が見えない町に戻ってしまう。
バブル時代の特殊な加熱はあったかもしれないが、どっと人が押し寄せ、あっという間にその人の姿が消えてゆくというのは、マイカー時代が到来してからの、ついここ30年くらいの姿である。
いくら別荘を持つような人であっても、かつて東京などからこの軽井沢まで来るには、新幹線もない時代、この碓氷線のアプト式鉄道を何度もスイッチバックで上り、軽井沢駅からも自分の別荘までは、人の駆け足程度のスピードの草軽電鉄や馬車などを乗り継いで歩くようなところ。車があっても高速道路はもとよりなく、ものすごい時間を要する場所であった。
したがって、そのような時間を割いてここを訪れることが出来る人というのは、多くは普通の職業の人々ではなく特殊な職業の人でなければならなかった。
必然的にそうした人たちとは、単に高額所得者ということではなく、小説家、画家、役者、音楽家、哲学者、翻訳家などである。
はたして、今の別荘地とバブル以前の別荘地の違いが、今の人々にどれだけ創造できるだろうか。
偶然ではあるが、それに近いギャップを今回私たちは、軽井沢中心地の大渋滞とほんの数キロ離れただけの別荘地の林道を通ることで感じることが出来た。
松家仁之『火山のふもとで』は、そんなかつての軽井沢の空気をページをめくるごとに感じさせてくれる本です。
私は、小説よりはノンフィクションを読むことの方が多い。仕事柄話題の本はある程度、半ば義務感で読む事がある。しかし、話題の小説を読んでも、8割がたはがっかりさせられることが多く、物語りの組み立て方や技法に凝った作品以外、純粋に小説としての読み応え満足させてくれるものに出会うことは滅多にない。
ところが、この作品は久々に、どの場面を読んでも小説としての描写に十分納得できる表現をともなったものであった。
(私見では、小説で確実にそうした作品判断が出来るのは、圧倒的に新潮社といって良いかもしれない。)
この作品が、高い評価を得る理由はいくつかあると思う。
まずは、今の中心地の姿とはおよそかけ離れた、かつての軽井沢別荘地の雰囲気をあらわした舞台設定。そしてその空気。主人公がかつて探鳥会に入っていた経験から、目撃する鳥たちとの出会いも、美しく語られている。
そして、そうした条件がより一層活かせる建築設計デザインという職業を軸にしたストーリー。
フランク・ロイド・ライトの晩年に学び、アスプルンドに影響を受けた建築家の設計事務所が、高度経済成長からバブルに向う上り坂の時代に、その時代を代表する勇壮でシンボリックな建物の設計をする著名な建築家と国立現代図書館の設計コンペを競い合う。
建物の形状インパクトで押すことこそ、建築デザインの真骨頂かの時代。これからの時代に求められる図書館の在り方を含めて、書架の配置、デザイン、椅子のあるべき姿などについてどうあるべきか、ディテールを余すことなく本書は描ききっている。
それが小説ならではの力で、建築素材それぞれの木材の質感にいたるまで見事に描写されているので、どの断片をとっても一貫した作品の香りにつつまれて読む事ができる。
もちろん、文芸小説には欠かせない若い主人公のほのかな恋心も柱になっている。
しかし、この作品にとって主人公のラブストーリーは、おそらく従のほうになる。
なんといっても、現代の軽井沢という別荘地の姿の変遷を背景に、建築デザインのディテールを通じて「モノ」と「ヒト」の在り方の大きな変化のはじまり、問いかけと格闘苦悶の姿を描ききっていることに今日のリアリティを増す要因があるのではないだろうか。
でもそれは読み人それぞれで良い。
全体構造を無視したとしても、それぞれの濃密な場面描写を通じて、誰もが最近の小説ではなかなか味わうことの出来ない世界を間違いなく体験できる作品だと思う。
この本との出会いのおかげで、私たちは碓井峠、軽井沢、浅間には何度となく来ていながら、今回ほど深く景色を味わえたこともなかったのではないかと思えたほどだ。
火山のふもとで | |
松家 仁之 | |
新潮社 |
2012年9月刊行の本ですが、じわりじわりと評価が伝わりコツコツ売れていますが、現在は品切れ。はたして重版されるかどうか。
評価には確実なものがあるので、いずれ文庫化されるを期待する。
八束脛の伝説
後閑駅から東北を望めば、三峰山塊の一つの峯として、石尊山が見える。
その岩窟に八束脛明神が祭られてあるが、その神体は人骨である。
その洞窟および明神について、村人たちは次のように言い伝える。
昔、源頼義が奥州で安倍貞任、宗任を征伐した時に、その残党が尾瀬にのがれてこもり、さらに当地に来てこの岩窟に潜んでいた。
食料に困って、毎夜後閑の里に出て稲やひえそのほか、いろいろ作物を盗んでいく。
村人たちは不思議に思い、ある夜あとをつけると、この石尊山に登り、おい繁る太い藤蔓をはい上りその岩窟に這入った。
さては夜あらしの主はこの者と定めてその藤蔓を切り落としてしまった。
それから幾日かの後、夜の明け方その岩屋から、馬の悲鳴が聞こえた。ついに餓えのため馬を刺し殺して自殺したのであろう。その後は再び野あらしは無くなった。
しかしその後、村にさまざまな祟りがあるので、骨を集めて祭ったのであると。
このため昔から、後閑村では村芝居などでも、奥州安達ヶ原袖萩祭文の場(雪降り)は、演じてはならないと言い、事実演じなかったのである。
以上、月夜野町誌編纂委員会 発行 『古馬牧村史』より
(写真は、かみつけ岩坊)
この歴史伝説の受け止め事実、下牧人形浄瑠璃での上演には、隣村というだけで無視することができたのでしょうか。興味津々。
奥州安達ガ原、安倍の貞任・宗任の物語りがこのように月夜野の地とつながっていたことは知りませんでしたが、記憶をたどれば田原芳雄さんによる『尾瀬判官』(文芸社)という小説も、奥州安倍一族の末裔である安倍小三太直任の波乱に富んだ生涯を、この八束脛遺跡の舞台を交え、見事な構成でまとめあげた歴史小説です。
私たちの力いたらず、多くの人にこの本の魅力を伝えられませんでしたが、歴史のあやが思わぬところでつながり、図書館で手に取って読まれる方が増えることを望むばかりです。
古馬牧人形の由来
下牧(古馬牧)人形が吉田座を名乗るのは、上方の人形師吉田勘十との出会いによりますが、簡潔な説明以外、知られていない大事なことが多いので、ここにその歴史を『古馬牧村史』より引用させていただきます。
全国には上方から伝搬して根付いた人形浄瑠璃は各地にあり、吉田座を名のる座や、上方からきた吉田某の教えをうけた浄瑠璃芝居もいくつかあるようですが、吉田勘十から秘伝を受け継ぐほどの密接な関係から成り立つ下牧人形浄瑠璃は、単なる郷土芸能の枠で語られるのは惜しいと思われるほど、格別の歴史所以のあるものです。
下牧、牧野神社境内の舞殿が落成した当時は、よくここで村人による奉納人形劇が公開されました。この建物の棟木には筆太に「元治元年上棟」(1864-1865)とあるので、人形のできたのは、これより以前のことであることは確かです。
しかし、明治四十一年(1908)阿部善三郎宅で公開実演のみぎり、当時人形関係の諸道具のおいてあった木村政蔵宅が火災にあったため、一切の記録が灰塵に帰し、歴史を語る資料が一物もなくなってしまいました。
人形や衣裳、諸道具などは実演中であったので幸に焼失を免れました。よって以下は、古老の言い伝えを土台にその由来を調査して記録するものとしました。
元禄年間に当時の古老数名が伊勢参宮の道中で人形芝居をはじめて見て、村の若衆の遊び道具にでもと、人形の頭を五個買って帰ったのがもとで、その後一つ二つずつ買い求め、同志7、8人の所有物として演技を楽しんでいたのがそもそも下牧人形の始めでした。
明治八年(1875)、上方の人形師吉田勘蔵の子、勘十は父の勘当に遇い、旅芸人となって人形を遣いながら諸国遍歴に出た。たまたま当地にさしかかった際、彼の人形の振り方の並々ならぬを見て取り、宿を提供し辞を卑うして教えを乞うたので、腰をすえて技を教えることになった。
昼は農事にはげみ、夜分教えを受けることを若衆は楽しみにしていたが、雨の日は昼夜の別なく稽古したので一名「雨降り人形」と呼ばれるようになった。
勘十は人形の振り方ばかりでなく、人形を刻んだり、大道具・小道具を作ったりすることに長じていたので、若衆は喜んでいろいろの指導を受け、あるいは人形を新たに造り、または襖を張り、背景の幕作りまどまでするようになった。
主な面々は、高橋熊太郎、木村福太郎、小林政太郎、池田作次、高橋国吉、高橋藤蔵などで、その作品は現今でも大変珍重されている。
かくて彼らは追々「ヒキヌキ」「早変わり」など吉田流の極意まで伝授するに至った。
後に勘十は許されて実家に帰ったが、この間の事情を父にうちあけて語ったところ、父は極意を授けたことを快しとせず、怒りを発してふたたび勘当した。
やむなく再度下牧に立ち戻り、村人に事情を告げたところ、村人は大いに気の毒がり、お礼を兼ねて婿入道具一式を整えて実家まで送り込み、父勘蔵に面会の上、詫口上をもって謝罪に及んだ。勘蔵もその誠意と熱心とに感動して、怒りをとき勘当を許したが、しかし極意を伝えたことは、必ず他言あるまじきよう堅く約束するところがあった。
その翌年、父は村人の熱心さにほだされてか、人形数種を取り揃え、自ら下牧へ出向いて秘伝公開の興行を星野宅で行った。その時の記念として、人形頭二つを買いうけたのが未だに大切に保存されている。
その後ますます盛んになり、鎮守の祭典にも豊年祭りにも公開するようになり、連中も年々増加するに至った。
時代はうつりここに警察の干渉があって、人形は「」なりとして公開を差し止められ、十五年もの間、箱詰めのままとなった。
明治三十年(1897)不具者鑑札の制度ができて、代表者数名の名義鑑札を受け、久しぶりに松井田武太夫宅で公開した。それより以前にも増して公開の数も多くなり連中の数も増加の一路を辿った。
かかる情勢を見て村の元老諸氏は、村中たれ彼の区別なく参加できるようにとの気持ちから、共同所有を唱えるにいたり、明治三十八年(1905)正月から壮健団の所有物と名義変更がなされた。
大正七年(1918)月夜野桃栄館で公開することになったとき、高橋熊太郎から「他村まで出るには奇羅があまりにも破損し汚損していて下牧の恥になる、この際新しく仕立てるなり修繕するなりしては」との発言があり、組合総会となり、有志の寄付などで幕、裲襠などが新調された。
しかるに当時は欧州大戦争の最中だったので警察の干渉があり、一般にも遊芸を遠ざける風が生じたので、この時限り人形は再び箱詰めとなった。
以来昭和八年(1933)まで毎年虫干しに僅かに姿を見せるだけとなり、遣手も漸減の運命にあったが、この年の暮れ十二月三十一日附けをもって、新しく鑑札6枚を与えられ「大いにやれ」とのお言葉をいただき、またまた世に出ることとなった。
昭和十二年(1937)春の総会のみぎり、区長阿部伊若から、「毎年一回祭りの日には太々神楽の代わりに人形をやっては」との話があり、多数の賛成があって決議され、なお若干の補修なども行うことになり、女子青年団の奉仕で一週間にわたって修理したが、支那事変勃発により一時停止となった。
終戦後はまたまた人気を得て、昭和二十二年(1947)下牧敬老会出演から引き続いて毎年公開したが、このころから後閑祐次やその他有志の方々から「文化財保存」の話が進められ百万奔走せられた結果、昭和二十七年(1952)県関係当局から「群馬県重要文化財」の指定を受け、つづいて「古馬牧人形保存会」が誕生した。
会則を造り役員を委嘱し、連中には若手数人を勧誘して、公民館落成祝と同時に発足することになった。この年幸いにも早大演劇博物館嘱託山口平八先生の実地調査があり種々ご指導を仰いだ。また二十七年(1952)三月には東大教授文化財保存委員会審議委員藤島玄次郎博士が来村されて、人形および牧野神社の舞殿を視察なされ、種々ご指導導きくださった。
惜しいことに舞殿は三十七年(1962)火災にあって姿を消した。それ以来四月十五日の鎮守の祭典に毎年継続出演している。
かくて幾星霜を経た人形は顔が禿げ手足が損傷し、あるいは綺羅が汚損したりしたため、またまた後閑・内海両先生のご高配に預かり、修理を施すことになり、昭和四十年(1965)県および町当局から補助を受け、さらに地元で各戸から寄附を仰いで一大修理を行った。
人形の頭は埼玉県本庄市の人形師「米福」に依頼し、綺羅は東京浅草から用布を買い求め、婦人会、若妻会の協力を得て裁縫し、全く面目を一新した。修理後の第一回目の興行は奥利根有料道路すなわち紅葉ラインの開通祝賀に水上町水上中学校体育館で行った。
以上、古馬牧村誌編纂委員会編『古馬牧村史』より
(句読点、漢字など一部、現代的な表記になおさせていただきました)
数々の困難の乗りこえてきた歴史の証人、明治期の鑑札
吉田座 座長の山田忠夫さん所有
「冷たいみそ汁」?
言葉を聞くなり、
「ちゃぶ台をひっくり返してやりたくなる」
と言った人がいました。
日本人の常識からすれば、冷めたみそ汁など、
すでに料理ではない。
でも、一度、この味を知ったならば、誰もがその誤解を解く。
夏の暑い季節、糖分の多い清涼飲料水を飲むよりも、この「冷たいみそ汁」をとる方が、どれほど健康に良いか。
夏でも食欲がすすみ、うどんやご飯を加えてたべても格別の料理となります。
一般的には「冷や汁」と言う地域が多いようですが、 俗に「冷や汁」となると 味噌仕立てとは限らず、ご飯やうどんを加えたものも含む「冷たいスープ」となります。
それに対して、冷たいみそ汁は、あくまでも冷たい「みそ汁」
かなり意表をつく料理ですが、ネットで検索すると、地方や家庭によってかなり様々な作り方があるようです。
私はずっと小さい頃からこの「冷たいみそ汁」に慣れ親しんできていたので、てっきりこの「冷たいみそ汁」は群馬県の利根地方に固有の料理なのかと思っていました。
ところが・・・
地元の人に聞いてみると、意外。近所の人たちは誰も知らない。
考えてみれば、私の家は転勤族であったため、群馬、福島、新潟と移り住み、この「冷たいみそ汁」はどこで覚えたのか、母は既に他界しているために確認できない。
どうやら、群馬の伝統料理であるというのは、私の勝手な思い込みであったようです。
そんなことをある日、妻に話したら、妻の母の実家が新潟県の十日町市であり、そこでこの「冷たいみそ汁」と同じものを料理していたという。
わたしの母も新潟にいた頃に覚えたものなのかもしれません。
「冷や汁」で検索すると、東北から九州までの広い地域で郷土料理としてあるようです。
以下、家内につくり方をまとめてもらいました。
***************
私が子供のころ。
母が教えてと、言うより話していました。
材料(二人)
お化け胡瓜(大きさによって変わる)直径5センチ長さ30センチ一本
青紫蘇(大葉)10枚位(揉んでしまうので沢山あっても)
作り方
(1)、胡瓜の皮はむく(すべてむかずに、筋状に残してもよい)
縦長半分に切って種が大きければ指で掻きだす。
そして薄く半月に切って行く。
ボールに入れて小さじ半分の塩をまぶす。30分位置く(冷蔵庫で)
(2)、好みで、ナスを加えても美味しい。
(3)、青シソ4~5枚ずつ重ねて丸めて千切りの後絞る。
(青シソは色が黒く変色しやすいので食べる直前に切ったほうがよい。)
(4)、冷蔵庫の胡瓜を軽く絞って涼しそうな大きめな容器に青シソと一緒に入れる。
その中に出汁入り味噌(無ければ普通の味噌)大さじ1を入れ氷も適宜入れる
味を見ながら2人分の味噌汁の量の水と味噌加減を整える。
お化け胡瓜とは大きくなりすぎた胡瓜のことです。
普通の胡瓜ではしゃき、しゃきした歯ごたえと瑞々しい感じが味わえないかも…
夏の暑い日に胡瓜もみをするたびに母が話していました。故郷新潟で野良仕事の合間のお昼ごはんです。そしてこの中にご飯を入れて食べるのだそうです。忙しい農家の夏の日のお昼ごはん。
**************
冒頭の写真は、地元で応援している郷土芸能「下牧人形浄瑠璃」の人形キャラクターを使わせていただきました。
奥州安達ガ原、袖萩祭文の場面に登場する、袖萩の父、平謙丈直方です。
盲目となって子に手をひかれてやってきた自らの娘、袖萩とその子(孫)お君。
親に勘当された流浪の身とはいえ、父親の窮状を聞き雪の降りしきるなかをやってきたにもかかわらず、父親である直方は娘たちを家にいれない。
母親である浜夕が、とりなそうとするがそれも聞き入れず追い返そうとする父親の形相です。
このパネルを使って、地元の料理店の夏のメニュー定番に取り入れてもらう計画です。
またキュウリは、地元、群馬県の高山村に「高山キュウリ」という特産品があります。
この太く独特の味をした「高山キュウリ」の魅力を広めるためにも、是非「冷たいみそ汁」を広めてゆきたいと思っています。
(「高山キュウリ」は、7月ころから地元に出回りはじめます。)
ご協力いただけるお店は
hosinoue@gmail.com 星野まで
最近の仕事のベースになっている大事なネタ本を、ひとつの山に積んでみました。
本来であれば、この1冊1冊の紹介を書くだけの価値あるものばかりですが、残念ながらそこまでのエネルギーがありません。
網羅されているわけではありませんが、タイトルだけでも見ていただければ幸いです。
要望にお応えして以下に書名書き出します。
山崎亮 『コミュニティデザイン 人がつながるしくみをつくる』 学芸出版社
山崎亮 『コミュニティデザインの時代』 中央公論新社
山崎亮 『まちの幸福論』 NHK出版
山崎亮 『ソーシャルデザインアトラス』 鹿島出版界
渡辺直子 『山崎亮とゆくコミュニティデザインの現場』 繊維新聞社
永井一史 山崎亮 中崎隆司 『幸せに向かうデザイン』 日経BP社
『藤村龍至×山崎亮対談集 コミュニケーションのアーキテクチャを設計する』彰国社
藻谷浩介 山崎亮 『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』 学芸出版社
乾久美子 山崎亮 『まちへのラブレター』学芸出版社
長谷川浩己 山崎亮 編著 『つくること、つくらないこと』 学芸出版社
筧祐介 『地域を変えるデザイン』 英治出版
シンシア・スミス 『世界を変えるデザイン』 英治出版
伊藤雅春 大久手計画工房 『参加するまちづくり ワークショップがわかる本』農文協
高知新聞社 『時の方舟 高知 あすの海図』 高知新聞社
有川浩 『県庁おもてなし課』 角川書店
大歳昌彦 『「ごっくん馬路村」の村おこし』 日本経済新聞社
篠原匡 『おまんのモノサシ持ちや!』 日本経済胃新聞出版社
梅原真 『ニッポンの風景をつくりなおせ』 羽鳥書店
梅原真 原研哉 『梅原デザインはまっすぐだ!』 はとり文庫
佐野眞一 『大往生の島』 文芸春秋
後藤哲也 『黒川温泉のドン 後藤達也「再生」の法則』 朝日新聞社
金丸弘美 『幸福な田舎のつくりかた』 学芸出版社
金丸弘美 『「地元」の力』 NTT出版
金丸弘美 『田舎力 ヒト・夢・カネが集まる5つの法則』 NHK出版 生活人新書
溝上憲文 『「日本一の村」を超優良会社に変えた男』 講談社
吉岡忍 『奇跡を起こした村のはなし』 ちくまプリマー新書
矢崎栄司 『僕ら地域おこし協力隊』 学芸出版社
久繁哲之介 『地域再生の罠』 ちくま新書
菅谷明子 『メディア・リテラシー』 岩波新書
菅谷明子 『未来をつくる図書館』 岩波新書
NPO知的資源イニシアティブ編 『アーカイブのつくりかた』 勉誠出版
「ソトコト 2013年5月号 特集 おすすめの図書館」木楽舎
セーラ・マリ・カミングス編 『小布施ッション 長野県小布施町から洗練された発信力』 日経BP社
ア・ラ・小布施編 『遊学する小布施』川辺書林
西田亮介・塚越健司編著『「統治」を創造する 新しい公共/オープンガバメント/リーク社会』 春秋社
クリス・アンダーソン 『FREE 〈無料〉からお金を生み出す新戦略』 NHK出版
クリス・アンダーソン 『MAKERS』 NHK出版
レイチェル・ボッツマン/ルー・ロジャース 『SHARE 〈共有〉からビジネスを生みだす新戦略』 NHK出版
三浦展 『これからの日本のために「シェア」の話をしよう』 NHK出版
リンダ・グラットン 『WORK SHIFT ワーク・シフト』 プレジデント社
内田樹 岡田斗司夫 『評価と贈与の経済学』 徳間書店
田中浩也 『FabLife デジタルファブリケーションから生まれる「つくりかたの未来」オーム社
スコット・ドーリー/スコット/ウィットフト 『make space』 阪急コミュニケーションズ
(ここから下は、ちょっとまとまりに欠ける付け足しリストです)
F・F・シューマッハー『スモールイズビューティフル』講談社学術文庫
暉峻 淑子 『豊かさとは何か』 岩波新書
暉峻 淑子 『豊かさの条件』 岩波新書
阿部彩 『弱者の居場所がない社会』 講談社現代新書
荒川龍 『自分を生きる働き方』 学芸出版社
本田直之 『ノマドライフ』朝日新聞出版
本田直之 『LESS IS MORE』 ダイヤモンド社
中山マコト 『フリーで働く!と決めたら読む本』 日本経済新聞社
* 地域通貨、内山節、出版業界・書店関連は除きました。
当面の仕事の軸になる本なので、facebookのプロフィール写真にも使ってみました。
ふたたび奈良へ
私は昔から毎年、GWを避けた5月の中ごろに3~4泊程度の旅に出ることにしてます。
かつてはもっぱら山に行き、縦走や山スキーを楽しむのが常でしたが、数年前からは、家内とその時々のテーマで、里の旅をすることがお決まりのパターンになりました。
今回は、奈良西部方面で二上山以外のまだ行ってなかった重要スポットを巡る計画。
現地で時間を見ながら予定変更もありましたが、行ったのは當麻寺、高野山、信貴山、法隆寺とその周辺の寺など斑鳩の里、それと奈良中心部の興福寺、元興寺、新薬師寺。
運良く興福寺の南円堂の公開と當麻寺の練供養の時期にも重なりました。
過去の旅に比べると予習不足気味で、迷いもありましたが強行して正解の旅でした。
今回のコースでも、興福寺や高野山の仏像や建築についての印象は、書き留めておきたいことがたくさんあります。
普通ならば、まずここで旅の紀行文を書くところ。
でも、私たちはいつもながら観光よりも、その時々のかたよった問題意識が軸になる旅なので、訪問先の概要については省かせていただきます。
とりわけ今回は予期していなかった出会いがあり、今の自分の仕事にとっても大事なヒントを得ることがあったので、そうしたことを中心に書かせていただきます。
桜や紅葉の次にくるもの
まず、最初に寄った當麻寺が想像していたイメージと随分異なりました。
見るところが多い大きな寺であることは、家内から中将姫にまつわる話などもいろいろ聞いて予想してました。そうした視点で資料などを見ていたのですが、行ってみたら、歩けば歩くほど、その先々に新しい世界が開けていて驚いてしまいました。
美しい庭や建築のなかでも、この季節ならではのものとしてシャクナゲが見事に咲いていました。
その種類も多く、二人ともこれほど多くのシャクナゲを一度に見た事はありませんでした。
つい境内の話に深入りしそうになります。省きます。
考えてみれば、どこも人が殺到するのは圧倒的に春の桜。
それと秋の紅葉。
あとは見る人は少なくチャンスも少ないかもしれませんが、写真家などが狙う冬の雪景色。
この三つが代表的な寺院の景色であるとばかり思っていました。
ところが、のちに行く高野山でさらに決定的と感じたのですが、シャクナゲの花の位置づけが境内の庭造りのなかでとても大きいことを知ったのです。
もちろん、シャクナゲの季節の前に牡丹があります。
さらに遡れば梅。
これからはアジサイの季節にもなります。
ほかに桔梗もフジもツツジも大事でしょう。
渋川市にも牡丹寺があります。紫陽花寺もあります。
しかし、當麻寺や高野山の庭園の造りを見ると、シャクナゲが格別の役割を持っていることにあらためて気づかされます。
そういえば私たちが最も愛する室生寺、鎧坂の両脇もシャクナゲで埋め尽くされていました。
シャクナゲは、それほど広く愛されていたのか。
今まで意識していませんでした。
一年間ずっと出番を準備している花々
でも今回の旅で、より深く考えさせられたのは、シャクナゲの重要度のことではありません。シャクナゲの感動はむしろ余談です。
私たちが何よりも痛感したのは、そのシャクナゲの真っ盛りの時期に巡り会えた幸運さと、そのタイミングの良さを思えば思うほど、季節の花々の咲く期間の短さのことです。
個々の花で見れば、短いものは数日で散ってしまう命。
それが一本の木に、数十から万の単位にまで咲くので、入れかわり立ちかわり咲いている期間は、数週間、ものによってはそれ以上にもなることでしょう。
数日から数週間の開花時期。
桜を見れば誰もがその短さ、はかなさを語ります。
確かに桜に限らず、花の咲く期間、命はどれも短い。
しかし大事なのは、その短い開花時期のためにその草木は、1年をかけて準備をしているということです。
花を咲かせ、多くの昆虫、小動物や風の力をかりて雄花と雌花が受粉し、実を実らせ、種をまき、やがて葉を落として冬を越す。
志村ふくみが草木染めで桜の色を出すには、桜の花からとるのではない。桜の色を草木染めで出すには、桜の幹からその色をとりだすのだと言っていました。
桜の花の色は、花の咲く前の幹のなかに備わっているのだと。
「植物から緑が染まらない」
「咲いてしまった花からも色が染まらない」
(ベニバナだけは例外らしい)
年に一度の出番がくるまでは、私たちは山を見て山桜の木がどこにあるのか、それをみつけることはとても難しいものです。
だからといって自然の草木たちは、誰ひとりとして花の咲く時期以外、休んでいるわけではありません。
多くの場合は、私たちが意識しなかったり気づいていないだけのことです。
昨年、東北を巡ったとき、私たちのテーマのひとつは縄文文化でした。
運良く栗の花が咲く時期であったために、山のいたるところに縄文文化の軸である栗の木があることを遠くからでも確認することができました。
大きな木が黄色がかっていなかったならば、私たちはその山に栗の木どれほどあっても、気づくことはできなかったでしょう。
樹木でも、草木でも、多くの植物は、年に一度の出番の短い開花の間だけ、私たちに認知され、それ以外のときはどの植物たちも隣りで一瞬の間だけ咲き誇る花の脇役になっています。
あたりまえのことでしょうが、この必然の姿こそ、あらためて考えるとスゴイこと、すばらしいことです。
この素晴らしさは、ふたつの視点から言えます。
ひとつは、短い開花出番までの間、1年かけて草木はずっと準備しているということ。
もうひとつは、その出番の開花時期は、草木によってみな異なる時期におとずれ、入れ替わり立ちかわり選手交代しながら私たちを楽しませてくれるだけでなく、それぞれの大事な役割をその時々に果たしています。
その一握りの出番の草花が咲いている間、他の草木はみな脇役として立派に別の仕事をしてくれているのです。
背景に豊富な緑がなく、花だけが咲き誇っているような庭は、葉も茎も取って花瓶に入れられた花の姿のようになってしまいます。
またあらゆる花をかき集めて、一カ所にまとめたような花園は、お飾り庭園とでもいいましょうか、華やかさだけは見事でしょうが、決してわたしたちを感動させるものにはなりません。
現実にはそのような何々フラワーパークのようなところも、たくさんありますが、その感動は決して長続きはしません。
わたしたちが、何々フラワーパークの類いよりも、こうした神社仏閣の草花のほうが、ずっと美しく感じるのは、やはりそのロケーションに花々を支える豊かな背景が含まれているからにほかなりません。
いや、フラワーパークですらも、背景に豊富な緑がなかったならば、とても殺風景な姿に感じることは間違いないでしょう。
出番を支える豊かなバックグランド
出番をむかえた一握りの花たちを支える圧倒的多数の脇役たち。
それは、開花を待つまわりの草木だけではありません。
草木たちを支える台地の土や岩。
大気に含まれる水蒸気と天から降り注ぐ雨。
そして何よりも、燦々とふりそそぐ太陽の光。
どれもあまりにもあたりまえの存在です。
しかし、この背景となる豊かなバックグランドがあってこそ、その花の輝きは支えられているのであり、その美しさも、それによってこそ増すものであるということです。
このことをスタイルとして明確に主張したのは、黒川温泉を復活させた後藤哲也さんといえるのではないでしょうか。
後藤哲也 『黒川温泉のドン 後藤哲也の「再生」の法則』朝日新聞社
誰もが自然に学ぶ事、自然をいかに再現するかということが、庭造りの基本テーマであることにかわりはありませんでした。
ところが、自然をより多く取り入れることは誰もが考えていましたが、自然を部分的に切りとることなく、自然のままの姿に再現することを明確に方法として主張したのは、農林漁業などの生産者以外では、後藤哲也さんがはじめてといっても過言ではないのではと思います。
いかにシャクナゲが美しいからといって、庭一面にシャクナゲを敷き詰めたのでは、ああきれいだなとは思っても人に深い感動を与えることはできません。
旅に訪れたひとが、こころから感動できるのは、宿の窓から裏山を見たときに、ふっと一本のシャクナゲがそこに咲いているのを見つけたとき、誰かが埋けたような姿ではなく、あたかも昔からずっとそこに咲いていたかのような姿を見せたときにこそ、人は感動するのだと後藤哲也さんは強調します。
黒川温泉は、後藤さんのそのような考えに基づいて、人工的に見える造園はブルドーザーで根こそぎ排除して、昔からずっとあったような自然の景観を再現することで、最も予約の取りにくい黒川温泉という観光地を築きあげることができたのです。
この後藤さんのとりくみは、本来は特別なことではないはずですが、歴史の皮肉で、それを真似るわたしたちにとっても、自然のままの姿を取り戻すという作業が、ものすごい労力を要する作業の時代となってしまいました。
実際に、黒川温泉を視察し、真似る観光業者は少なくありませんが、それを実現することはそう簡単ではありません。
いま私たちがかかえているこの困難は、
こうした自然の復元、再生だけではありません。
人のつくるものも自然と同じ
奈良や京都の古い建築を見るたびに思うのですが、 むかしの人々はどうしてこれほど巨大で立派な建築や仏像をつくることができたのだろうか、不思議でなりません。
これはなにも日本に限らず、世界の歴史建造物をみたひとたちは、誰もがそう感じることと思います。
戦後の高度経済成長からバブルの時代のほうが経済力は、古代から中世、戦国、江戸時代など、どの時代と比べても、はるかに余力がある時代であったはずです。
なのに戦後つくられた建造物で、はたして100年、1,000年を経ても存在し続け、なおかつその価値が認められるようなものが、どれだけあるでしょうか。
もちろん、もう昔のような権力が独占集中する時代ではなくななり、進歩した面もあります。
しかし、経済力そのものは比べ物にならないほど規模が拡大しています。
不況が長引き、余力のなくなった現代になって、このことをどうしても考えてしまいます。
今に比べたらはるかに余力のあった時代であった数十年前。
余力があったにもかかわらず私たちはそのエネルギーを、歴史と自然のつちかったストックを食いつぶす事でしか、さらなる発展を創造できませんでした。
もっと成長できる。もっと発展できる。
その発想がすべて、ストックの食いつぶしで成り立っていました。
化石燃料に代表される資源の食いつぶし。
豊かな自然景観の食いつぶし。
人的資源の食いつぶし。
これから私たちがそれを取り戻すのは、たいへんな作業を要します。
頑丈にみえる鉄筋コンクリートの建造物の寿命は、せいぜい30年。長くても50年ももちません。
それはわかっていましたが、バブルのようなおカネのあふれる時代ですら、誰も千年もつ建造物をつくろうなどとは考えませんでした。
どんどん新しいものをつくり続けることこそが、社会発展の証しであると。
今になってやっと、誰のための発展なのだと気づきだしたのですが。
では、むかしの人はどのように考えていたのでしょう。
実態からすれば、まず多くの建造物は戦乱や火災によって自然消滅します。
戦乱で焼き払われ、地震で倒れ、火災で焼け落ち、あるいは全国の国分寺のように老朽化とともに廃れた建造物も少なくありません。
同じ国分寺でもそのまま歴史から消えていったものと、東大寺大仏殿のように不死鳥のようにその都度よみがえったものとの差がどこにあるのか、明確にはわかりません。
おおまかには、多くの歴史建造物が、鎌倉時代、江戸時代、明治期、平成と大修理を重ねて維持されてきています。
運よく再建されたもののなかには、為政者の強い信仰心から成し遂げられたもの、徳川幕府のように外様大名に莫大な普請事業を押し付け、政治的権力をみせつけ、自らを維持するためのもの、純粋にその歴史的価値を重んずるものなど、理由はさまざまでしょう。
でも、どうしてその寿命がこれほどまでに現代の建造物と違うのでしょうか。
再建、補修可能性という面で考えれば、建築物に限っては木造であることが大きく左右していることは間違いありません。
宮大工の西岡棟梁だったか、ヒノキという木がなかったら千年以上の間、法隆寺のように今日まで生き続ける建築はありえなかっただろう、といったようなことを言ってました。
木造ならではの移築、補修、再生可能性の柔軟さは、これまた語れば切りなく話題が出てくることでしょう。
百年、数百年に一度の大改修に必要な膨大な良質の木材の確保、それは豊かな森林の維持と不可分な作業でもあります。
考えてみると、こうした仏教建築物の不規則な再生の方法とは別に、計画的な「再生」をはかっているものの代表としてもう一方に伊勢神宮があります。
式年遷宮。
二十年ごとに様々な祭をおこないながら、お社をはじめ、着物や日曜調度品などすべてを新しくすること。
ようやく見えてきました。
現代の鉄筋コンクリートの建造物が30年から長くて50年の寿命。
古代からの木造建造物が百年から数百年の寿命。
部分補修、大改修などの繰り返しで千年以上の寿命。
これらの生きのびる寿命に対して、伊勢神宮の20年サイクルの建て替えは、明らかに生命力あふれる状態を常に維持しながら、再生をはかるサイクルになっていることにあらためて気づかされます。
それはなにもあの伊勢神宮のお社が、いつも新鮮な輝きに満ちているというだけの意味ではありません。
劣化、老化するすべてのものを新鮮な生命力あふれる状態で維持し続けるサイクルが20年となるのです。
現実には、柱などの巨木の寿命とその材料を継続して育てる豊かな森の維持のための必要年月ということなのでしょうが、はからずも人間の世代交代のサイクルと同じにもなっています。
なにか自然の摂理と、神の摂理と、人間の摂理がここでぴたりと一致したような感じになります。
わたしは長い間、伊勢神宮には格別の興味は持っていませんでした。パワースポットとしての注目を集めるようになっても、数年前あの空間へ行って格別の思いを感じるほどではありませんでした。
ところが式年遷宮の具体的な行事の数々を知ったり、その遷宮のために維持されている広大な森の存在を見たときにはじめて、わたしは本来の神道が遥拝しているご神体は、拝殿のなかにあるのではなく、その背後にある広大な自然の生命再生のかがやきのなかにこそあるのを感じ、底知れぬパワーにようやく敬服して思えるようになりました。
フロー偏重の経済からストック重視の経済へ
あまりに寿命の短い現代のビジネス
ふりかえって現代を考えると、社会の変化のスピードは驚くべきスピードで変化するようになったように見えます。
細部の技術をみれば、確かにそれは事実といえるでしょう。
しかし、先にみた自然と神と人間の生命再生産のサイクルからみると、現代の生産サイクル、企業や組織の賞味期限、パラダイム変化のスピードなど、なんら神代の昔から変わっているわけではないことに気づきます、
新しい商品を次々と開発して売り上げを伸ばすことは、ビジネスでは不可欠なことです。
でもそれは必然的に
商品の寿命が短くなる
↓
会社の寿命が短くなる
↓
業界の寿命が短くなる
↓
地域社会の寿命が短くなる
↓
人間の命が食いつぶされる
となります。
これは、すべてフローを優先するあまり、ストックをとことん食いつぶしていく社会でです。
今の政権が目指しているデフレ脱却を至上命題にした先の成長戦略とは、このような前提にたったものだと思います。
仮にデフレ脱却が実現できたとしても、彼らが描く成長戦略のもとでは、次々にストック(自然資源、国民所得、歴史遺産、あるいは海外、他国の資産など)を食いつぶして、みかけのフローを創出し続けるということにかわりはありません。
生命再生産のかけがえのない源であるストックを増やすこと、蓄積することなど、まったく眼中にありません。
百歩譲って、数十年前までの情勢であれば、人類史が経験した事の無い異常な人口爆発が続く社会だったので、資源も労働力も限りなく不足しているように見えたのも無理からぬことです。これまでのストックをある程度、食いつぶすことの他に、手だてがみつからなかったことは想像できます。
でも、現代は、これからの時代は、そんな経済観を前提にしてはならないでしょう。
浜矩子さんが、アベノミクスは言葉に出すのもいやなほど、なんら新しい提言を含まない過去の経済理論と切ってすてるのも、こうした意味もあるのだと思います。
伊勢神宮の式年遷宮に学ぶ20年サイクルでの生命再生産は、ひとつの理想型です。
その20年のサイクルを上回るスピードで生産が続くと、ストックの食いつぶしがはじまり、背景の森林の再生産などが追いつかなくなり、破壊の道を進みながら成木になる前の若木を多用せざるをえなくなってしまいます。
イメージとしては、「白」の色彩比重が多くなります。
次々と新しいものが更新されて生産され続ける時代には、建物、内装、商品ともに、「白」ベースのものが多くなる傾向があります。
有名な建築家が豪語してますが、そんな時代であれば、コンクリートむき出しの建造物であっても、それはたしかに美しい。
絶えず新しいものに更新される社会であれば、それは必ずしも間違いとは言い切れないでしょう。
しかし、それも20年という生命の再生産のサイクルを超えると、途端にその「白」ベースの社会は、きたなく汚れはじめ、見苦しい社会になります。
20年サイクルを超える生命の再生産を考えるならば、それは自然と「黒」が基調になってきます。
補修、改装、リサイクルのしやすい、仏教建築のようなものが中心のイメージです。
人工物を避けた自然素材中心で、補修、改装を繰り返し、百年、数百年に一度大改修をするような社会。
時間とともに劣化するものはありますが、素材の生命は生きているので、汚れた見苦しさはなく、手をかければかけるほど味わいがでてきます。
大改修にむけて計画的にストックを増やし続けるような社会こそ、健全なサスティナブル社会といえます。
わたしは、欧米の論調の「持続可能な社会」から受け取るイメージは、どうも「生産拡大」の持続が前提に見え隠れしていて、生命の再生産の基本構造がどうも背景に追いやられているように思えてなりません。
世界レベルで今はじまりかけている大きなパラダムの転換。
これを世の中の大きな変化だから、国や政治家の責任だと勘違いしてはいけません。
もちろんそれも大事で、その責任は追求するべきですが、大事なのは、大きなパラダイムの転換が起きているということは、歴史のどの断面を切り取っても共通の構造があるということです。
したがって、それはたとえ国がどうであれ、政治家がどうであっても(決して許すわけではありませんが)自分たちの身近な環境の中で、同等の問題構造がおきており、自分ひとりでも始めることがあるということ、となりのひととふたりでも始められることが必ずあるということです。
またそれは、個人でおこなうことが、巨大組織や国家レベルで行うことと比べても、なんら価値の差はないのだと言える時代ともいえます。
フローがないから、いかにして数字を伸ばすか。
このこと自体は今でも必要がないわけではありませんが、それは生命再生産の構造、ストックを蓄積、積み重ねていくこと抜きには、20年サイクル以上の幸せな環境は築けないということです。
年に一度の短い出番を待って咲く草花のように、自らの商品やサービスを時間をかけてやがて来るその日のために磨き上げる。
「何々が悪いから」、「何々が無いから」の論理ではなく、今あるもののなかに有用なもの、価値あるものを発見し活用する力をみにつける。
次から次へと選手交代して咲く花のように、異なる人材や異なる顧客の恊働関係を築き活用する。
右肩上がり時代の安い消耗品で埋め尽くされた空間を、再生、補修可能な備品、什器、建物に少しずつ変えていく。
最短でも20年のサイクルでパラダイムが変わることを前提に、世代交代の準備と必要なストックを蓄える。
そんな働き方、暮らし方を目指そうと思っています。
「生命の再生産」「命のリレー 」こそが、自然と人間社会の経済活動を含めた根底原理です。
そういう私自身も、ようやく今、会社や組織中心のパラダイムから抜け出し、地域のストックを積み重ねる仕事に踏み出したばかりです。
先人のストックを食いつぶしただけで終わらないように、がんばらねば。
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり 道元