ヤマブキは、みなかみ町の花です。
地域では山吹の植栽を活発にすすめています。
ところが、もともとは自然に自生している植物なので、それが良い花だからといって花壇のように植えてしまっては、どうも風情がありません。
多くの人びとのボランティアでささえられたそうした活動はまぎれもなく大切なことですが、こうした植物の植生を考えると、みなかみ町や月夜野地域などの田舎では、都会の花壇づくりとは異なる本来の自然を活かした景観づくりをもう少し考えたいものです。
確かに、花を積極的に増やし、オフシーズンのスキー場や休耕田の活用法などとして、一面のユリやスイセン、サクラソウなどが広がった光景もすばらしいもので、多くの人がそこを訪れて感動を与えています。
でも私たちの土地では、暮らしの景観を取り戻すことを第一に考えると、そうした方向とはやや違う、本来の自然空間といったものをもう少し大切にしたいと思います。
ずっとそんなことを考えていながらも、現実にそうでない在り方はなかなか提案出来ませんでした。
身の回りに花が増えることや、それらの多くがボランティアによって植栽作業が行われていること自体は否定しているわけではないので、そう簡単に横から口をはさめるものではありません。
それでも、地域の人たちがまちの花として少しでもヤマブキを意識するようになっただけで、日ごろは気づかなかった場所に、たくさん咲いていることにも気づいたり、周囲の環境をみる目や季節を感じる気持ちがだいぶ変わったりもしてきているメリットはあります。
月夜野とは縁の深い源順(みなもとのしたごう)も山吹の歌を詠んでいます。
春ふかみ井手の川波たちかへり 見てこそゆかめ山吹の花
それがこのたび、まちづくり協議会の仲間と一緒に地域を歩いてみる機会があり、実際に咲いているヤマブキの実体を見ることで、どのような環境が美しいのか、実際にどれほどの花が咲いているのかなどを知ることができて、ようやくこれから求められる共通の課題を語り合う土壌を少しつくれたような気がします。
ひとつの花の美しさは、背景の豊かな自然の景観があってこそ、その輝きを増すものです。
ブロック塀の前よりも、板壁の前に咲く花こそ、落ち着いた魅力を感じるものです。
これらの気づきから私たちは、
まず第一には、花が増えることに異論はありませんが、至るところにただヤマブキをたくさん植えれば良いとは限らないことを再確認できました。
第二には、新たに植えなくても地域にはとてもたくさんのヤマブキがすでに咲いていることに気づくことが出来ました。
有名な湯布院のとなりで、かつて伸び悩んでいた黒川温泉は、従来の花壇のような植栽を全てブルドーザーで取り潰し、昔からそこにあったような自然の空間を取りもどすことで、最も予約の取りにくい温泉地にしたこの本の話しは、未だにわたしのバイブルです。
地域にすでにあるヤマブキが、意識されて見られるようになっているかどうかは、花をたくさん植えて増やすことだけでなく、
①、今咲いている花々の周辺の環境が下草刈りなどがゆきとどいて整備されているかどうか
②、限られたヤマブキが咲く季節、その時期を「見る側」が意識しているかどうか
といったことが、とても大事であると思います。
本来、①のことは、林業や農業が地域に息づいていることで、必然的にささえられていました。それが第一次産業の衰退とともに、行政や地域の人びとのボランティアの手をかけないと維持しにくい環境が広まってしまったともいえます。
「美しい景観は、第一次産業がつくる」
こんなようなことを四国のデザイナー、梅原真が言っていましたが、これからこの点はとても大事な視点になると思います。
農業や林業を復活させることなく、その地域に第一次産業で働く人びとがいなくなると、どんどん自然環境や景観維持に必用な行政コストばかりが上がってしまう傾向にあります。
このたび見てまわった場所でも、ヤマブキの花が最も映えるのは、下草刈りの行き届いた杉林のある斜面でした。
草花が華々しく咲き乱れる公園を整備するよりも、私たちの身近な農林業とともに整備され生まれる植生こそが、本来の自然の美しい景観を約束してくれるものと思います。
そして、新たに植えなくても、とても多くのヤマブキがすでに自生していることに気づきましたが、今までそのことに気づけなかったとは、どういうことでしょうか。
まさにこのことこそが、私たちが「月夜野百景」の活動を通じて地域に浸透させていきたい視点です。
日本が世界に誇れる月の文化があるといっても、それは月に対する自然科学的知識が豊富であるということではありません。日本の月の姿が、世界のほかの土地で見る月と比べて何か物理的な特徴に優れた点があるわけでもありません。
すべて、月や草花の客観的な姿に左右されているのではなく、その実体は、私たち一人ひとりのこころの側にあります。
自分が楽しいときに見るのか、
それとも、悲しいときに見ているのか。
こちらの心の状態によって、同じ月を見ても、花をみてもまったく違う姿に見えます。
地域に咲く草花や月の姿が、そこに暮らす人びとのに意識されるかどうか、
それは、わたしたちのこころの有り様にこそかかっているのだということを、「月夜野百景」などの活動を通じてなんとか示していきたいと思うのです。
日本の伝統文化は、まさにそうしたこちら側の心の姿をとても豊かに表現しています。
暮らしの景観づくりというのは、まさにこうしたことを伴ってこその活動であることを立証していきたいと考え「こころの月百景」の活動などをはじめています。
でも、心の問題は、まさにひとりひとりの心の内の問題であるだけに、運動として考えるとそれは一歩間違えば「余計なおせっかい」にもなりかねません。
かといって個人の心に届かない「客観的」な運動は、さらに心に響かないことも確かです。
まさに、こうした領域こそ、日本人の先人たちの豊かな遺産があるので、簡単なことではありませんがようやく本題にたどりつけた感があります。
こうした視点がないばかりに、ある町では、アジサイの剪定を安易に外注業者に任せてしまい、花が咲かなくなってしまいました。
また、地域の人が大切にしているリンドウやダイコンノハナなど咲く前の花を下草刈とともにみな刈り取ってしまったりもします。
どこかから苗を買って来て、許可された公共の場に花を植えるだけの活動ではなく、
また、予算があるかどうか、人手があるかどうかの問題ではなく、
どこにその植物が埋もれているのか、
それはどのような環境に育っているのか、
どのような時期や期間に花を咲かせるのか
長い歴史上どのように愛されてきたのか、
どんな実を実らせたいのか
そんなことを大切にする活動がようやく語れるようになった気がします。
そしてそれらの活動が真にいきるのは、ボランティアや行政補助によるものも大事ですが、
何よりも第一次産業である地元の農業、林業の基盤が持続していることです。
ひとつの草花そのものも自然であることに違いありませんが、
ひとつひとつの命の連鎖のなかにある多様性あふれる自然こそ
私たちは大切にしていきたいものです。
川原湯地区・上湯原の八ッ場ダム水没予定地に咲くヤマブキソウ。
どこの「いのち」もかけがえのない存在であることに気づかされると
すでにあるこの自然こそを大切に守っていきたいと思わずには入られません。