私の手元には、昔の宝川温泉汪泉館(現在は汪泉閣)が、今で言う自費出版のようなかたちで発行されたふたつの『藤原風土記』という本があります。
1冊は、昭和38年に刊行されたもの。
もう1冊は、タイトルや表紙はまったく同じ(よく見たら表紙の写真は熊の位置が違う別のものでした)ですが、昭和60年に増補改訂版として出されたもの。
全国各地で『風土記』のようなかたちで郷土の歴史をまとめた本は出されていますが、この本は、私が地元であることから興味を持ったことは当然のことですが、それらの風土記的郷土史のなかでも、とても力のこもった歴史的な1冊であるとの強い印象をもった本です。
そのなかでもひと際、忘れられない一文があるので、ここで紹介させていただきます。
それは奈良俣ダムの建設とともに、今はもう奥利根湖の底に沈んでしまった湯ノ花という湯宿のことです。
この湯の花温泉のことは、朝日新聞前橋支局編『奥利根・秘境の素顔』あさを社(1983年)のなかでも出てきますが、こちらの本で紹介されているのは、湯ノ花の最後の経営者である狩野さん夫婦のことです。狩野さん夫婦の体験談も、貴重な興味深い話しですが、今回ご紹介したいのは、この湯ノ花の管理人として暮していた竹内角次郎夫妻とその一人娘のとし子ちゃんのことです。
それは、小野伊喜雄さんの筆による章なのですが、初版の『藤原風土記』(写真中央)にこの章はなく、昭和60年の改訂版(写真右)に加えられた文章です。
「湯の花温泉哀史」小野伊喜雄
利根川水源の原始的湯治場
「湯の花温泉は昭和四十一年秋、矢木沢ダムの完成により、水深五〇メートルの水底へ永久に姿を没してしまった。」
こう文章ははじまりますが、このダム建設によって出来上がった奥利根湖という場所は、利根川の源流域の最深部にあたり、数ある他のダム湖とはとても同類には扱えない深い自然の領域で、まだ残雪の残る季節にここを訪れるとまるでカナダの景色をみているかの錯覚に陥るほど、ここは私にとっても大好きな空間です。
小野伊喜雄さんは、奇しくも水没の二日前にここを訪ねています。
「お化け屋敷のように、取り乱れて空家特有の黴くさい山宿の庭に立ってつくづく、人間の無情を感じた。主を失った温泉のみが、生き物のように三尺程立ち上った鉄管より滾々と溢れている。無色透明でラヂウムを含有しているといわれ、入浴しても飲んでも非常に効能があったこの山の湯が幾多の訪う人の心を暖め、疲れを癒した奥利根の貴重な存在であったのに、あすは水没してしまうのかと思うと感慨無量であった。」
湯ノ花の歴史は、明治33年に新潟県十日町の横山平吉氏が、遥々新潟県側から鉱石を求めてこの地にたどりつき湯の花を開拓したのが始まりといいます。昭和5年に官地を借用して、間口三間奥行四間、勝手の庇六尺、長さ二間で、客間が八畳二部屋の山小屋を建築。昭和7年から小屋番がおかれ、猟師、釣り人、登山者、湯治客などの入山者の便宜を計りました。
その小屋番として入ったのが、竹内角次郎夫妻と、当時まだ6歳であった一人娘のとし子ちゃんでした。
悲しいことにとし子ちゃんは生まれつきの唖者でした。でも、とし子ちゃんは唖者特有の勘のよさと利発であったため、すべてに物覚えが良く、成長につれて、とし子ちゃんは湯の花の人気者になっていきました。
ところが昭和十三年、とし子ちゃん十四歳のときに父角次郎さんが急死。
母娘は、以後、涙の乾く間もなく二人で父の仕事を分担し働くことになる。このとし子ちゃんの活躍ぶりは、省略させていただきます。
昭和初期のころまでの藤原の暮らしの厳しさは、いくつかの資料でも紹介されていますが、その山深い土地のなかでもさらに奥深い場所に孤立している湯ノ花に母娘二人だけで、すべてを切り回していかなければならない生活のことです。
数多の危機を生き延びた母娘のたくましさは、とても文字で書き尽くせるものではないでしょうが、それほどの生命力を持ちながらも悲劇は突然にやってくる。
昭和二十年の三月二十一日彼岸入りの日でした。
大芦の中島丑重氏が、湯の花温泉の物資中継基地をやっていた関係での出入りがあり、夕方五時頃湯ノ花に到着。母娘の遭難を発見した。
「雪の融け具合からして流雪は午後十時頃発生したのではないかと判断された。大きさは百五十メートル位で横幅が六、七十メートル位であったろう。当日は小春日和の稀に暖かな日で、各地で流雪がおこり危険であった。おそらく母娘は温泉の出具合の異常にきがついたのであろう。浴室の湯は約七十メートル位の川上より木のといで引湯してあった。流雪は今日にはじまったことではない。ここは度々大なり小なりの流雪があって故障があったのである。母親はそれと察して、修理の為湯元へ急いだのであろう。母娘はとし子ちゃんとは離れて母屋に近いところで流雪の下に埋もれていた。
丑重氏が夕刻訪ねたとき、耳に応ぜず森閑と静まりかえった家の様子に不審を抱いたので、母屋より少し離れた浴槽のある小屋へ廻って流雪に気がついたのである。小屋までついていた足跡がそこで流雪のために消えていたので、これは流雪の下になったのだと直感した。それにタマという子犬が、無情な流雪の盛り上がった上で寝ているのが眼についた。『ハハー』この下に主人親娘が埋もれているに違いないと察しがついた。自分一人では掘り出すにも、どうにもならない。奈良沢で別れた友人三人の到着を待って遺体を掘り出すこととした。遺体は約三メートルの雪の底に埋もれていたが、とし子ちゃんは金槌を握ったままでこと切れていた。流雪で壊れたトイを板で修理中を、突然山腹の雪がくずれ落ちたと判断される。
母親は母屋に近いところで流雪の下敷となっていたということは、娘が帰ってこないので様子を見にいって第二波の流雪に巻込まれたともとれるし、娘の仕事中を流雪の出るのを監視して流雪が起きたら娘に知らせる役であったか、あまり速度が早い流雪で二人もろとも下敷になったとの、いずれかであったろう。いずれにせよ何と悲しい母娘の運命であったろう。つくづく厳しい自然の無情な暴威を恨まずにはいられない。時にとし子ちゃんは十九才の花でいえば蕾盛りであったとか。
奇しき因縁とでもいおうか、所有者の平吉は天命を完うしたとはいえ、水没前に他界し、又角次郎氏は湯ノ花の浴中に倒れ、母娘もまた湯元の流雪の下敷となってしまった。
水没の運命になった湯ノ花温泉とともに、一家全員殉死したようなものである。湯ノ花の歴史は矢木沢ダムの完成とともに、永久に水底に消えてしまった。まったく仏教でいう諸行無常、万物流転そのものの哀史ではないか。
母娘はこの年の秋には湯の花を引揚げて、母親の実家へ移り住むことになっていたという。嗚呼。」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
2016年7月1日、記録的な渇水情況が続いているので、ダムの水位が下がったこの時期であれば、湖底に沈んだ湯ノ花温泉の痕跡が、もしかしたなら見れるかもしれないと、友人にカヌーを出してもらい、奥利根湖に行ってみました。
ダムの水位が下がりすぎるとダム湖に降りること自体ができないかもしれないと心配しましたが、問題なく降りることが出来ました。
こんな水位が下がったときに、わざわざカヌーを漕ぎに来るひとはいないだろうと思いますが、
風も穏やかで、絶好のカヌー日和り。
こういう時でなければ見れない景色もたくさん。
あとになって、小学生の子ども達がクマが泳いでいるのを目撃していたことを知りましたが、われわれは、知らないうちにクマを振り切っていたのか!?
https://www.youtube.com/watch?v=sZaJQkld8dE
湯ノ花温泉のあった場所の目安は、右岸が上立合せ沢と大立合せ沢から西千ガ倉沢の間、左岸が下の俣沢と大白沢の間。
目安の沢をたどると、おそらくこのあたりに湯ノ花温泉があったと思われますが、透明度もないのでそれらしき場所は確認すること出来ませんでした。
往復、3時間ほど、すばらしい景色を堪能してくることができました。