かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

沼田市に4カ所ある「月夜野」地名を訪ねて

2024年10月05日 | 渋川、利根・沼田周辺情報


 みなかみ町にある月夜野という地名は、2021年に「三文字以上の妙にかっこいい地名ランキング」で全国一位になるほど人気の地名です。 ところが、この月夜野という地名が、北毛地域だけで八か所もあるということはほとんど知られていません。

 このことは、都丸十九一が『地名のはなし』(煥乎堂刊)のなかで、現みなかみ町や山梨県の道志村の他に、群馬県に「吾妻郡東村西部にある月夜野、高山村尻高の月夜野、沼田市秋塚・下佐山・屋形原などの月夜野」の存在を早くから指摘しています。


                        沼田市4ヶ所の月夜野

 みなかみ町月夜野で月にまつわる活動をライフワークにしている私としては、これらの場所が実際にどこにあるのか確認する必要性をずっと感じていましたが、法務局で個別に調べるのも面倒なので、長い間その場所は正確に特定することができずにいました。それを最初に確認する手がかりを与えてくれたのは、『沼田市史』です。市史資料のなかに町ごとの小字地名の図があり、そこで秋塚、下佐山、屋形原にある月夜野のおよその場所をはじめて知ることができました。

 しかし、みなかみ町と道志村の月夜野以外は、どこも小字地名であるために、その調査は予想以上に困難な作業になりました。つまり、小字地名は、それらしい現地へ行っても、現代では地元の人でさえもほとんど知らないことが多いばかりでなく、地元の郵便局や交番を訪ねてもわからない場合が大半であるからです。これには驚きました。『沼田市史』の図自体も、境界線は手書きでトレースしたもののため、地図に必ずしも正確に合致しているとは限らず、地形図やグーグルアースなどの地形画像から、実際の場所を推定せざるをえませんでした。

 

 

 

 秋塚の月夜野

 沼田市秋塚の月夜野の場合は、薄根川が川場村との境界となっており、川場村に突起のように境界が食い込んでいる場所がどこなのかを確認してから、現地での聞き込み調査となりました。ここでも、道を歩く人を呼び止めて聞いても返ってくるのは「まったくわからない」の返事ばかりでした。

『沼田市史民俗編』付図「沼田市の小字」より

 この人に聞けばわかるのではないかという情報を郵便局で教えていただき、電話でおよその場所を教えてもらい、ようやく確認することができました。
 確認できた薄根川に突き出た平地の地形は、ちょうどみなかみ町の月夜野の地形を小規模にしたような形のようにも見えます。

 

 

 月夜野という地名の由来

 この地形に照らして場所を特定する作業を始めるようになってから、それまで確信は持てていなかった「月夜野」という地名がどれも「月」にまつわる呼び名ではなく、地形に由来した地名であることが間違いないと断言できるようになりました。「伝説由来の地名は、すべて疑ってかかるがよろしい」と都丸十九一が残してくれた言葉が、私には大きな指針となっています。

 そもそも、この一連の調査のはじまりは、みなかみ町に合併する前の『月夜野町史』に、この町名の由来として「伝説によると村上天皇の応和二年源順この地に旅したとき小川原(現在の月夜野上組)から月の夜景を見て余りの美しさから『ああ良き月夜かな』と賞嘆したことから名づけられた」と記されていることから、一部の郷土史家がいくら月ではなく地形由来の地名なのだと言っても、地元ではほぼ源順の伝説由来の説が定着してしまっている現実を、何とか伝説としての文化的価値は認めつつも、合理的な理由で多くの人に地形由来の地名であることの意義を知ってもらう情報整理の作業としてでした。

『市町村名語源辞典』の説明でも月夜野は、「ツキ(高所)・ヨ(間)・ノ(野)という地名で、『高くなった所の間の野』のこと、ヨは『二つのものの間』とあり」とされています。

 


 屋形原の月夜野

 沼田市屋形原の月夜野も、グーグル・アース画像上部の画像上部の森林で囲まれた丘陵畑地が、利根川に突き出た丘の形になっています。

 ここからは、縄文の遺跡が出土しており、本格的な発掘調査も行われています。ちょうど出会った地元の方から詳しいお話を聞くことができ、利根川に突き出たこの丘陵部分が、古くから人びとの暮らしの拠点であったことがうかがえます。


 これらの地形から、月夜野・ツキヨノのツキは、ツキジ、ツイジ、ツイヒジなどとも共通した地形表現の言葉であるといえます。
 また、都丸十九一によると、台地状地形の前端部分は、人の目につきやすく、目印になるから、さまざまな地名用語が与えられるとし、サキ(崎)、ハナ(鼻・花)、ハナワ(塙)、ハケ、ハケタ、ハバ、ハバタ、タテ(館)などの地名表現に通じているとしています。

 

みつかった縄文土器欠片を見せながら、
屋形原月夜野について説明をしてくれた、生方吉松さん




この丘の上が、屋形原の月夜野


 

 下佐山の月夜野

 沼田市下佐山の月夜野は、沼田市四か所の月夜野のなかでも最も場所の特定が難しい土地でした。
 当初から地図上では、山裾が川に突き出ている場所、群馬県の動物管理センターのあるあたりが該当するのではないかと思っていましたが、現地で聞き込みをしても、それは山の向こうの上毛高原駅の近くだと言われるばかりで、なかなか情報を知る人に出会うことはできませんでした。バスの停留所などには、かなり小字地名は残されていますが、多少、小字地名の記憶のある人がいても、その境界がどこであるかまでを知る人は滅多にいません。



 明治時代に町村制がしかれて以来、何度となく市町村の合併は繰り返されてきましたが、戦後の市町村合併の過程で、それまでの小字や村レベルの自治単位は、ほとんど実態がなくなってしまいました。小字地名の喪失と同時に、小さなコミュニティーの自治も消えてきた歴史をあらためて痛感させられます。

 それでもなんとか、この月夜野も四釜川の左岸に突き出た場所であると確認することができました。




 

 上古語父の月夜野

 平成の大合併で沼田市に編入された旧白沢村上古語父の月夜野も、場所の特定に大変苦労しました。『白沢村誌』には、『沼田市史』のような小字地名の地図がないからです。


 ここも、地形が決め手となって確定することができました。ただ、この地形は大変ゆるやかな台地なので、古沼田湖の水位が何度かの上下を繰り返して下がった後、しばらくの間この一帯がデルタ地帯となり、川筋もまだ定まらないような時期にこの丘陵が安定したとても貴重な生活空間であったのではないかと思われます。

 

 これまでの流れからは、当然この点線の枠内の台地が月夜野かと思いましたが、地元の人に聞いてみたら、点線内の東側三分の一ほどのエリアが月夜野地区で、西の畑地は違うとのことでした。この点は、行政区分上のなんらかの都合でそうなったのか、はじめから東側のみを指していた理由があるのかは今のところわかりません。

 

 記録にない歴史証人としての地名

 以上、見てきたように月夜野という地名が、いずれも水辺に突き出た台地状の平地としての特徴を持っていることがわかります。それは沼田市以外のみなかみ町月夜野、山梨県道志村月夜野でも共
通しています。
さらに拡大すると、全国にある月(ツキ)のつく地名、月ヶ瀬、大月、月島、月町などもほぼ共通して空の月ではなく、岩槻、築地などのツキと同じ突き出た地形から来ていることが確認できます。
 また、その「突き出た」地形の大半は、川や水辺に突き出ていることも共通しており、古代遺跡が発掘されることも多いことから暮らしの拠点として、あるいは日常の目立つ場所として神聖視されていたこともうかがわれます。

 中沢新一は著書『アースダイバー』のなかで、全国の古い神社のあるところは共通して水辺に突き出た場所であることを証明しています。ここで取り上げた各地の月夜野のなかで、神社を確認できるのは、みなかみ町の月夜野のみですが、暮らしの上でなんらかの神聖な場所であったことは想像にかたくありません。

 

 そもそも月夜野の「野」も、単なる野原一般を指す言葉ではなく、高野、吉野、熊野など「死者の霊が仮泊しうる場所」といった、なんらか特別に意識された「野」であることも想像されます。もちろん、野のつく地名はあまりにもたくさんあるので、一概に言い切ることはできません。

 そうした歴史舞台のもととなっている古沼田湖は、二〇万年くらい前から赤城火山の成長とともに、少なくとも三回、湖の時代があったとされます。その規模が最大となったときの広がりは、東西約八キロ、南北は、赤城山の地層に覆われているところを除き約六・五キロと推定されます。
 これら月夜野という地名は、そうした古沼田湖の水が引いた後の、まだ沼田台地が不安定なデルタ地帯であったころの地形の特徴を表す地名であるといえるのではないでしょうか。つまり、まだ文字が使われるようになる遥か前から存在していた地形の呼び名ではないかということです。
 もちろん、立証することは容易ではありません。それでも沼田市のこの河岸段丘の地形は、遠い彼方二〇万年前、ホモ・サピエンス発生の時代からの歴史を目の当たりにできる地形でもあり、人類が日本列島にたどりき、まだ文字を使う前から存在していた言葉の実像を、その時代にしかなかった地形由来の地名を立証できる可能性を秘めた貴重な事例として、たいへん興味深いテーマであると思うので、今後も調査を続けていきたいと考えています。


(本稿は、ブログ「物語のいでき始めのおや~月夜野タヌキのPON自治共和国~」掲載の沼田市該当部分記事を改編しまとめ『利根沼田歴史散歩 第2号』に掲載した文をもとに、ページの制約で省略した写真などを加えて転載させていただきました)

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9首の伊香保万葉歌

2016年04月26日 | 渋川、利根・沼田周辺情報

「古代東国ロマン 伊香保万葉歌」のホームページに連動して
http://www.ikahomanyou.com 

9首の歌の額装をしました。

以前、書家にお願いしてこの9首を書いてもらいましたが、わかりやすい写真バージョンも欲しかったので作成しました。 

 

 

 

 樋口秀次郎『榛名山と万葉集』に、

 ともあれ、雨雲がわき、人が狂喜叫喚しだすと、まつりの第一部は終わりに入り、第一部の後半部から若い男女の間の闘歌、歌垣となります。

 まつりの第二部に性が開放されmそれが神聖視され公認された歌垣神事に、まちかねたように若い男女の愛の歌かけがはじまり、ざわめきかえり、やがて結ばれた心の男女は沼べりの茂みのここかしこに消えこむわけでしょう。神のきめた男女二人の共寝、それは性を生産の象徴として神聖視した婚姻習俗のなかに公認され、祝福されていたわけです。荒々しい山岳気象の変化とともにたかぶった若者の血は燃え、それにたえかねたように直情的に荒々しく「いざ 寝しめとら」と歌いかけるわけです。

 と絶妙な解説がありました。

 

 伊香保の山(榛名山)の急斜面ぞいの、墾り原(焼畑)の刈根(かりばね)のねのように、ねんごろ(入念)に将来のことなど心配するなよ。今、こうして会えていることでよいではないか。 

 

 

 

 

伊香保のやさかの堰堤にたつ虹のそれのように、おれとお前の仲がはっきりと知れわたってしまうまでも、共寝をくり返していたら、どんなに楽しいことだろう。(共寝さえこうしてできれば、後のことなどままよかまいはしない。) 

 

 

 

 

 

 

上毛野の国の伊香保の沼に生えているコナギの種をとってくるけれど、そのコナギの種というわけではないが、こんなに恋にこがれようと思って恋の種を求めたのであろうか(あの人が恋しいことよ)。

 

 

 

 

 

 この解釈不能、難解な歌。折口信夫の口訳は、次のようになっています。

 伊香保に居るいとしいお方よ。これまでは、あなたをいい加減に思うていましたが、その夫なるあなたを、忘れることが出来ませんことですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 伊香保山に、雷神よそう鳴ってくださるな。私にとっては何んということもないけれど、こわがる私の愛人のためにお頼み申すのですよ。

 

 

 

 

 

 

 伊香保おろしの吹く日、吹かない日があると言うけれど、私の恋ばかりはいつという時などなくずっと続いてやむときがないことよ。

 

 

 

 

 恋しいあの娘の家のあたりは、このままでは通り過ぎ難いものだ。

 

 

 

 

 

 

伊香保山の山沿いの墾り畑に私は来ていると、(お前さんに)自然とひきつけられるよ。心ひとすじに思い慕っているので。

 

 

 

 

 

 

なかなか歌に合う写真が撮れないので、まだ間に合わせのものもあります。

 

 

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奥山におのがまことを咲く桜 沼田市白沢の石割桜(カスミサクラ)

2015年05月04日 | 渋川、利根・沼田周辺情報

 利根沼田地域の桜名所のなかでも、最も遅く咲くこの石割桜。

 これまで、何度か訪れてはいるものの、なかなかその開花時期に出会うことはできませんでした。

 はじめてこの場所を訪ねたときは、今のように案内の標識もあまりなく、この道で良いのかと随分迷いながら心細い山道をたどったような気がします。

 

 花の咲いていないときのこの木は、確かに石割桜として岩の間からたくましく伸びてはいるものの、その樹容からはそれほど華やかな開花時の姿を想像できるようなものではありませんでした。

 そんな石割桜を、今年はじめて満開の時期に見ることができました。

 2015年5月2日。

 実は今回は、開花時期の事前情報を確認して行ったわけではなく、第一の目的であった花咲の天王桜を見に行ったところ、予想外に早く花が散ったあとであったので日没まで少し時間があり、どの程度の状態か確認するつもりで寄りました。

すると、

 


 予想外に、ちょうど満開の時期。

ヤマザクラ特有の気品に満ちた見事な姿を見せてくれていました。

こんなに美しい桜であったとは思いもよらないものでした。

ちょうどヤマブキの花もいっしょに咲いており、絶妙のバランス。

 

 

    見る人のためにはあらで

       おくやまに

      おのがまことを

        咲くさくらかな


              読人不知 

 

  

 

 看板のデザインなど、もう少し直しておけば、これほど詩情あふれる銘木もないといえるほど素敵な空間になっています。

 まさに、桜シーズンの最後を飾るに相応しく、ヤマザクラ特有の落ち着いた雰囲気。

 ソメイヨシノなどの里の華々しい騒ぎが過ぎ去って、山の落ち着きある新緑の季節へバトンタッチするにはとても相応しい木です。
 

 

桜の放つ精気に打たれて魂がしんとなり、ひそやかにさざめいていた慎みなど、私たちは忘れたのだろうか。      (石牟礼道子)

 

 

 見た目通りこの木の種類はカスミザクラ(霞桜)。花柄に短い毛が生えていることから別名「ケヤマザクラ」。

 里の花が散ってから葉が出る桜と違って、ヤマザクラは花と葉が同時に咲きます。

 

 そのためか、もともと遅咲きのこの桜は三分咲きくらいの時にここに来ると、葉がもう出ているので、もう散ってしまった姿なのかと勘違いしてしまう人もいます。

 足元に花びらが落ちているかどうか、まだ、つぼみがたくさんついているかどうか、よく確認して見るようにしてください。

 

  

 

 この写真を撮ったときのように文字通りカスミがかかったように見えるのは、完全な満開の時期ではない方が美しく見えます。

 妻も私も里の桜よりもヤマザクラのほうが好きなたちですが、山桜は山の木々の間にまぎれて咲いている姿を見るのが美しく、なんらかの一本の桜の木を特定して鑑賞するようなことはほとんどありませんでした。

 そんなヤマザクラのイメージを、はじめてこの石割桜が覆えしてくれました。

 一度この霞桜の開花を見てしまうと、他の名の知れた桜の名所は、みな派手さばかりを競う芸も深みもない三文役者のように思えてきてしまいます。

 

 

 昔、この場所をさがしまわった頃に比べたら、案内の看板もたくさん出来てすべて舗装道路をはしってたどりつけるようになりました。 

 でも、この桜の良さを鑑賞するには、より多くの人が来れる利便性の向上よりも、この山桜のまわりの環境をきちんと保全されることが何よりも望まれます。

 

 

 この石割桜へ至る山道には、ちょうど満開の時期にはヤマブキの花が咲き乱れ、ウグイス、クロツグミなどの名脇役たちが交互に鳴き競い、行き帰りの道すがら、ひとつの絵物語りにひたるような夢空間が続いています。

 そこに、白ペンキで塗られたガードレールや道路標識、コンクリートの電信柱さえなければ、完璧な世界が開けています。

 

 まだ自動車の普及する前の時代、地元の人々が長い山道を歩いてここにたどりついた時の感動は、どれほどであったでしょう。

 そんなことを想像しながら、現代の姿を味わうだけでも、格別の空間として際立った存在感をこの場は持っているのを感じます。

 

 
 

このたった一本のヤマザクラのおかげで、春の慌ただしい花物語は、
静かな余韻を残して終わることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            おもかげは身をも離れず山桜

    心の限りとめて来しかど

                 『源氏物語』


  あの面影が私の体を離れずにいます、
          あの美しい山桜の面影が・・・

  心は、すべてそちらに置いて来てしまったのですが、 

 

 

 

 

 

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秋もやってくる

2013年09月10日 | 渋川、利根・沼田周辺情報

はじめてSLを撮影して来ました。

土日に限らず、かなりの頻度で運行しているので、いつかは撮ってみたいと思っていましたが、

三脚を構えて本格的にスタンバイしている人たちの横に並ぶ勇気もなく、なかなか機会を得られないままでした。

最近になって、およその地元通過時間がわかってきたので、急きょ、昼前に、

「20分後にSLが通過するぞ」

と昼食の準備をしてる最中の家内に怒られながら出発。

3分とかからず、撮影場所につけるありがたさ。

人気のなさそうな田舎道をたどったのですが、やはりそこには3人ほど三脚をたててスタンバイしてる人がいました。

みな同じ場所に固まっているのですが、そこでは真正面からしか見れません。ま、それがいいのかも。

 

私は、ひとり後ろに下がって、手前にススキの生える間からねらうことにしました。

私には、まだカメラ操作の技術がないので、三脚をたてると動くものは、とても追えない。

 

 

三脚なしで追うことにしました。

 

 

十分な下見もせずに、はじめての撮影にしては、思いのほかうまくいきました。

SL撮影している人は、どこもとてもたくさんいるので、今更そこに加わるつもりはありませんでしたが、

季節の映像として、これは素晴らしい。

 

 

 

 

せっかく家の近所を走ってくれているのだから、

畑や季節の草花を入れて、その時々の記録を残してみたいと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

また、仕事してる暇がなくなりそうです。

 

 

 

 

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柳沢寺と新船尾記

2013年05月10日 | 渋川、利根・沼田周辺情報

船尾神社?

言わずと知れた船尾滝を考えれば当然あってしかるべき神社ですが、その存在は知りませんでした。

榛東村にある柳沢寺にそれはあります。
群馬にも五重塔があると聞いて、はじめてその寺を確認しにいったときは、ちょっと残念な姿に見えましたが、境内にたくさんある石仏、鋳造仏類はなかなかのものでした。

 


「修行中 ほとけも勝てず 花粉症」 

            かみつけ岩坊


そして、そこが船尾神社を併せ持つ寺として由緒ある寺であることだけは想像がつきます。

話の種としては外せないと思っていたので、桜の季節に妙義方面へ行く途中、衝動的に家内と寄ってみるたら、そこには驚きの空間が広がっていました。

 

永大供養の施設を兼ねた五重塔のアンバランスな下部も、これなら気になりません。
百年もたてば、こうした建造物も味わいがでてくるものなのでしょうか。

真摯な信仰心を疑うものではありませんが、この建築からは、やはり信仰の精神が突き抜けているような印象はあまりうけません。

にもかかわらず、それまでけばけばしく品のない境内の印象だった空間が、まるて京都に来たかのように見違えてみえるのです。

 

境内いたるところで、写真撮影をする人や水彩写生をするグループなどがいました。

 

ここが船尾神社という地勢を考えると、それでもこのお寺は、群馬県の歴史を語るうえでもとても重要な役割を担っていることを感じさせられます。

おそらく、ここもかつては修験道の寺院だったのではないでしょうか。

船尾神社が船尾滝をご神体にしているのかどうかは、自然な連想で誰もがそう思います。水源地として下流の土地を潤す大事なところであることに疑いはありません。


そこで、頼りたいのが『神道集』に出てくるこの船尾滝にかかわる記述。

柳沢寺の縁起にもそれは明記されています。
 参照(

ところがこの『神道集』の物語りがいまひとつよくわからないのです。
単純な縁起書としては理解しがたい、ちょっと救いのないような物語りなのです。


もともと船尾の地は、タブーの地とされてました。
たとえば不浄の者などが行くと災難に逢うとか、やれ天狗が出て投げ飛ばされたとか、身の毛がよだつような小僧が巌の上に現れたとか、いろいろな伝説につつまれた地域でした。

その山一帯で、多くの人々が焼死、あるいは打死したとかいわれていました。
宝亀から天慶年間にいたる古い伝説なので、信憑性に乏しいのですが、多くの人が死んでいることだけは事実のようで。

 

この地に立ってみると、いろいろな創造が浮かんできます。

 


もっぱらわかりにくい『神道集』だけをたよりに創造をふくらませていたら、思いもよらぬ先人の労作を、私はかつて譲り受けていたことを思い出しました。

 

 

  岩崎狐松著 『新船尾記 小説』  復刻刊行「絵と本の木かげ館」

 

これは昭和43年に、岩崎浦八という人が『神道集』の八ヶ権現をもとに、仏教的脚色を随所に盛り込んだ小説に仕上げ、柳沢寺のもとに刊行されており、それを元教員の品川秀男さんが手作り製本で復刊されていたのです。

私はそうしたことは何も知らず、品川さんのお宅が「絵と本の木かげ館」として開放されていることから、かつてそこを訪ねお話を伺ったことがあります。

そこにこの手作り本が並んでいるのに気づき、私が興味を示したら、なんとその場で譲っていただけました。

B5判の手作り製本で110ページに及ぶもの。
あらためて開くと、思っていた以上の力作でした。

最初の刊行も多くの人々の寄付によって作られたもののようですが、その志を受け継いで品川さんが手作り製本で復刊された功績も大きい。

これは地域の歴史を語る上で、絶対に欠かすことの出来ない重要な文献であることは間違いありません。

なんとかこうした多くの人々の思いを受け継ぎ、電子書籍化などの方法で、より多くの人の目にふれられるようにしたいものです。

 

 

参照 『神道集』八カ権現の事

http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/shinto-shu/files/47.html

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村の力でささえた芝居文化

2012年05月27日 | 渋川、利根・沼田周辺情報

以前、渋川市の三原田歌舞伎のすばらしさについて書いたことがありましたが、県下にはかつてそうした地芝居が各地で盛んに行われた痕跡がたくさん残っています。

関越道の上り線、沼田IC手前の左側の丘にそうした舞殿がいつも見えているのがずっと気になっていました。

畑からのぼった丘の上に桜の花に囲まれた舞殿をみて、早く行こうと思っていたものの、その機会は桜が散ってからとなってしまいました。

 

 諏訪神社境内にある舞殿。

間口5間半、奥行3間半、床高1m。

 

 

 建築の時期は定かでないようですが、昭和10年に改修新築されている。

こんな場所でミニライブでもやれたらすばらしい。

 

 

さらに、私の地元みなかみ町(旧月夜野町)下津には、中村天満宮の舞殿があります。

こちらも、私の通勤コース途上にあるもの。

ネット上の写真などでは、肝心な舞殿には戸板がはめられたままの写真ばかりで、このように普段から解放されて見れるのは最近になてのことなのだろうか。

 

江戸時代中期、村芝居として素人歌舞伎がはやり、各村々で神社境内に舞台小屋を建てて踊っていた。

その後、幕府等は時間と金のムダで風紀を乱すと禁止したが、庶民は氏神様への奉納として神楽殿の名目で舞台の低い舞殿を建て、村祭りの日に芝居を上演した。明治時代に入り盛行するが、明治末の取締り強化と戦争により衰退していった。往時、町内には十四カ所の神社に舞殿があり、改築等により舞殿の機能はないものの六社に現存するという。

                    (以上、みなかみ町教育委員会看板説明より抜粋)

 

今、面白いものを観るには、高崎、前橋や東京にまで行かなければならないのに、江戸時代や明治の時期には、村単位でこうしたものがありました。

しかも表向きは禁止されてたものが。

(もちろん、昔のことだからなにもかも杓子定規ということはなく、見て見ぬふりということもあっただろう。)

渋川の郷土史家である大島史郎先生が、お上がやってはいけないということは、たいていやっていたものだと言っていましたが、やってはいけないからといって素直に守る現代人が、なにか妙に不健康な姿に見えてきます。

守らないやつがいるから規則ができる?規則があるから破るやつがいる?

これは必ずしもイタチごっこの議論ではなく、すべて枠に収まると決めつけるほうが無理があるし、世の中をつまらなくするのです。

 

もちろんテレビにインターネットに様々な娯楽があふれる現代とは、前提が異なるかもしれませんが、今より遥かに少ない人口で所得も低い村落社会で、村人自分たちの力で勝手に守り育てていた文化を、ただの歴史保存建築物として観るのではなく、この舞台のまわりに目を輝かせて集まってきた村人たちがいたことを想像してほしいものです。

 

昨年、くしくも原田芳雄の代表作になった映画『大鹿村騒動記』で、地域で支える地芝居のエネルギーが広く紹介されましたが、渋川市でも子供たちが演じる歌舞伎の世界が大人たちに想像を超えた感動を与えています。

なにも歌舞伎や浄瑠璃にこだわる必要はまったくありません。人口の少ない地域でも、十分に自分たちで楽しむ文化は創れるはずであることを、こうした建造物が私たちにつきつけています。

他人に迷惑をかけることなく、自分たちが楽しめることは誰が何と言おうが、自分たちで創る。

行政の予算がつかないから、などということは言わないでほしい。(もちろんつくにこしたことはありませんが)

体に悪いということは、たいてい面白いし、やってはいけないと言われてもやらずにはいられないことほど価値はあるのだということ、そんなものを金のあるなしではなく、わたしたちはもっとたくさん取り戻すべきなのではないでしょうか。

これらの歴史建造物から歴史文化保存以上の価値と意味を多くの人に感じてほしいものです。

 

 

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「冬」 vs 「春」

2012年04月08日 | 渋川、利根・沼田周辺情報

同じ県内でも、群馬の北部、みなかみ町(旧月夜野町)で生活するようになって、季節の感覚が随分変わりました。

このところ全国的な傾向ではありますが、寒波が再来して小雪のちらつく日が多い。

4月だというのに。

おかげで毎日、美しい景色を通勤時にみることができてうれしい。

                        上の写真は昨日の榛名湖畔

 

こちらでの生活をしていると、そもそも「冬」と「春」との間には、中間の季節というものがないことを感じます。

まるで、デジタルのように昨日は春、今日は、冬。と入れ替わりたちかわり、その日ごとに季節が冬か春になる。

毎日、神様が今日はどっちにしようか、たった2枚のカードを選んで、どちらかに決めているらしい。

4月 冬、冬、春、冬、冬、冬・・・

きっと4月下旬にもなれば、冬のカードも使いきり、もう春しか出せないと、一気に春だけになるのだろう。

その頃、このあたりはやっと春が完全勝利して、梅と桜が一緒にあわてて咲き出す。

そんな冬と春の闘いの毎日がつづくこのお天気。

なかなか見応えがあるものです。

しぶとい冬に負けるな春。

 

 

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気品と妖気あふれる沼田の御殿桜

2010年04月14日 | 渋川、利根・沼田周辺情報
昨夜、仕事を終えてから大急ぎで、
福増寺のライトアップされた桜を見に行ってきました。

9時終了10分ほど前のギリギリ到着。
かつてこの境内を訪れたときには、これほどのものがあるとは気付きませんでした。

桜はちょうど今が盛りの時で、折からの強風に揺れる枝の姿を動画で撮影できたら、
どんなに素晴らしいだろうかと思いました。

手持ちのiPhoneで撮った写真は、あまり出来の良いものがなかったので、
申しわけありませんが、その迫力はお伝え出来ません。

今日天気が良かったので、改めて昼間に仕事のコースから寄り道して見てきましたが、
ここは夜の方がずっとすばらしく思えました。

それで昨夜は、その感動の勢いで沼田城址公園の桜も見に行きました。
すでに福増寺のライトアップは終了してからの訪問なのに加えて、時期的に沼田で桜はまだ早すぎると思いつつ期待はせずに行ったのですが、沼田市街が見えだすとともに、派手な提灯の明かりと一本の桜だけがぼんやりとライトアップされているのが遠くからも確認できました。

沼田公園内に入ると、やはりほとんどの桜ははまだ早く、
提灯の明かりだけが、派手に煌々と周囲を照らしていました。

ところが、遠くから見えたあの一本の木だけを頼りに先へ進むと、
想像を超えた見事な桜が見えてきました。



この沼田公園の桜は、何度か見に来た記憶はあるのですが、そのときは公園全体のソメイヨシノが満開のときで、
この御殿桜1本の存在は、ただここに大きな桜の木があるということだけで、
これほどの存在感を感じることはなかったように思えます。

周囲のソメイヨシノとは違って、この御殿桜はヒガンザクラなので
他に比べて早い時期に咲くようですが、その姿、色からして、
とても気品ある大木に見えました。

樹齢は400年を超えるとのこと。
ということは、ここに五層の天守が出来、沼田藩のかたちが整い、その草創期から全盛期に植えられ、
真田伊賀守、茂左衛門の時代から見守ってきた木ということになります。

西楼台の石垣の上に立つ巨木なので、ちょっとした強風でも吹けば
石垣もろとも西側に崩れてしまうのではないかと心配になるような立ち姿です。

その西の崖側にまわって下から見上げてみて、また圧倒されました。

iPhoneで撮った写真なので、画質はイマイチかもしれませんが、
この妖気は十分伝わるかと思います。


風に揺れるこの大きな枝、
400年という樹齢を感じさせないその幹の樹肌、
ソメイヨシノに比べると可憐さを感じさせるその白い花びら。



桜と聞けば、チャンスがあればどこへでも出かけていきますが、
こういった体験は、はじめてのものでした。

今年はこれから、ヒガンザクラを中心に追いかけてみようか。

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今、鵺が鳴いてます

2009年03月20日 | 渋川、利根・沼田周辺情報
ヒー、ヒョー、

ヒー、ヒョー、



今、向かいの森から
鵺の鳴き声がずっと聞こえてます。


止むことなく、
ずっと鳴きつづけています。


ヒー、フー、

ヒー、フー、

とも聞こえる。



決して

ヒー、フー、ミー

とまではいかない。



杉林の奥で
花粉症がつらくて
鳴いてるらしい。


ヒー、フー、

ヒー、フー、
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