みなかみ町にある月夜野という地名は、2021年に「三文字以上の妙にかっこいい地名ランキング」で全国一位になるほど人気の地名です。 ところが、この月夜野という地名が、北毛地域だけで八か所もあるということはほとんど知られていません。
このことは、都丸十九一が『地名のはなし』(煥乎堂刊)のなかで、現みなかみ町や山梨県の道志村の他に、群馬県に「吾妻郡東村西部にある月夜野、高山村尻高の月夜野、沼田市秋塚・下佐山・屋形原などの月夜野」の存在を早くから指摘しています。
沼田市4ヶ所の月夜野
みなかみ町月夜野で月にまつわる活動をライフワークにしている私としては、これらの場所が実際にどこにあるのか確認する必要性をずっと感じていましたが、法務局で個別に調べるのも面倒なので、長い間その場所は正確に特定することができずにいました。それを最初に確認する手がかりを与えてくれたのは、『沼田市史』です。市史資料のなかに町ごとの小字地名の図があり、そこで秋塚、下佐山、屋形原にある月夜野のおよその場所をはじめて知ることができました。
しかし、みなかみ町と道志村の月夜野以外は、どこも小字地名であるために、その調査は予想以上に困難な作業になりました。つまり、小字地名は、それらしい現地へ行っても、現代では地元の人でさえもほとんど知らないことが多いばかりでなく、地元の郵便局や交番を訪ねてもわからない場合が大半であるからです。これには驚きました。『沼田市史』の図自体も、境界線は手書きでトレースしたもののため、地図に必ずしも正確に合致しているとは限らず、地形図やグーグルアースなどの地形画像から、実際の場所を推定せざるをえませんでした。
秋塚の月夜野
沼田市秋塚の月夜野の場合は、薄根川が川場村との境界となっており、川場村に突起のように境界が食い込んでいる場所がどこなのかを確認してから、現地での聞き込み調査となりました。ここでも、道を歩く人を呼び止めて聞いても返ってくるのは「まったくわからない」の返事ばかりでした。
『沼田市史民俗編』付図「沼田市の小字」より
この人に聞けばわかるのではないかという情報を郵便局で教えていただき、電話でおよその場所を教えてもらい、ようやく確認することができました。
確認できた薄根川に突き出た平地の地形は、ちょうどみなかみ町の月夜野の地形を小規模にしたような形のようにも見えます。
月夜野という地名の由来
この地形に照らして場所を特定する作業を始めるようになってから、それまで確信は持てていなかった「月夜野」という地名がどれも「月」にまつわる呼び名ではなく、地形に由来した地名であることが間違いないと断言できるようになりました。「伝説由来の地名は、すべて疑ってかかるがよろしい」と都丸十九一が残してくれた言葉が、私には大きな指針となっています。
そもそも、この一連の調査のはじまりは、みなかみ町に合併する前の『月夜野町史』に、この町名の由来として「伝説によると村上天皇の応和二年源順この地に旅したとき小川原(現在の月夜野上組)から月の夜景を見て余りの美しさから『ああ良き月夜かな』と賞嘆したことから名づけられた」と記されていることから、一部の郷土史家がいくら月ではなく地形由来の地名なのだと言っても、地元ではほぼ源順の伝説由来の説が定着してしまっている現実を、何とか伝説としての文化的価値は認めつつも、合理的な理由で多くの人に地形由来の地名であることの意義を知ってもらう情報整理の作業としてでした。
『市町村名語源辞典』の説明でも月夜野は、「ツキ(高所)・ヨ(間)・ノ(野)という地名で、『高くなった所の間の野』のこと、ヨは『二つのものの間』とあり」とされています。
屋形原の月夜野
沼田市屋形原の月夜野も、グーグル・アース画像上部の画像上部の森林で囲まれた丘陵畑地が、利根川に突き出た丘の形になっています。
ここからは、縄文の遺跡が出土しており、本格的な発掘調査も行われています。ちょうど出会った地元の方から詳しいお話を聞くことができ、利根川に突き出たこの丘陵部分が、古くから人びとの暮らしの拠点であったことがうかがえます。
これらの地形から、月夜野・ツキヨノのツキは、ツキジ、ツイジ、ツイヒジなどとも共通した地形表現の言葉であるといえます。
また、都丸十九一によると、台地状地形の前端部分は、人の目につきやすく、目印になるから、さまざまな地名用語が与えられるとし、サキ(崎)、ハナ(鼻・花)、ハナワ(塙)、ハケ、ハケタ、ハバ、ハバタ、タテ(館)などの地名表現に通じているとしています。
みつかった縄文土器欠片を見せながら、
屋形原月夜野について説明をしてくれた、生方吉松さん
この丘の上が、屋形原の月夜野
下佐山の月夜野
沼田市下佐山の月夜野は、沼田市四か所の月夜野のなかでも最も場所の特定が難しい土地でした。
当初から地図上では、山裾が川に突き出ている場所、群馬県の動物管理センターのあるあたりが該当するのではないかと思っていましたが、現地で聞き込みをしても、それは山の向こうの上毛高原駅の近くだと言われるばかりで、なかなか情報を知る人に出会うことはできませんでした。バスの停留所などには、かなり小字地名は残されていますが、多少、小字地名の記憶のある人がいても、その境界がどこであるかまでを知る人は滅多にいません。
明治時代に町村制がしかれて以来、何度となく市町村の合併は繰り返されてきましたが、戦後の市町村合併の過程で、それまでの小字や村レベルの自治単位は、ほとんど実態がなくなってしまいました。小字地名の喪失と同時に、小さなコミュニティーの自治も消えてきた歴史をあらためて痛感させられます。
それでもなんとか、この月夜野も四釜川の左岸に突き出た場所であると確認することができました。
上古語父の月夜野
平成の大合併で沼田市に編入された旧白沢村上古語父の月夜野も、場所の特定に大変苦労しました。『白沢村誌』には、『沼田市史』のような小字地名の地図がないからです。
ここも、地形が決め手となって確定することができました。ただ、この地形は大変ゆるやかな台地なので、古沼田湖の水位が何度かの上下を繰り返して下がった後、しばらくの間この一帯がデルタ地帯となり、川筋もまだ定まらないような時期にこの丘陵が安定したとても貴重な生活空間であったのではないかと思われます。
これまでの流れからは、当然この点線の枠内の台地が月夜野かと思いましたが、地元の人に聞いてみたら、点線内の東側三分の一ほどのエリアが月夜野地区で、西の畑地は違うとのことでした。この点は、行政区分上のなんらかの都合でそうなったのか、はじめから東側のみを指していた理由があるのかは今のところわかりません。
記録にない歴史証人としての地名
以上、見てきたように月夜野という地名が、いずれも水辺に突き出た台地状の平地としての特徴を持っていることがわかります。それは沼田市以外のみなかみ町月夜野、山梨県道志村月夜野でも共
通しています。
さらに拡大すると、全国にある月(ツキ)のつく地名、月ヶ瀬、大月、月島、月町などもほぼ共通して空の月ではなく、岩槻、築地などのツキと同じ突き出た地形から来ていることが確認できます。
また、その「突き出た」地形の大半は、川や水辺に突き出ていることも共通しており、古代遺跡が発掘されることも多いことから暮らしの拠点として、あるいは日常の目立つ場所として神聖視されていたこともうかがわれます。
中沢新一は著書『アースダイバー』のなかで、全国の古い神社のあるところは共通して水辺に突き出た場所であることを証明しています。ここで取り上げた各地の月夜野のなかで、神社を確認できるのは、みなかみ町の月夜野のみですが、暮らしの上でなんらかの神聖な場所であったことは想像にかたくありません。
そもそも月夜野の「野」も、単なる野原一般を指す言葉ではなく、高野、吉野、熊野など「死者の霊が仮泊しうる場所」といった、なんらか特別に意識された「野」であることも想像されます。もちろん、野のつく地名はあまりにもたくさんあるので、一概に言い切ることはできません。
そうした歴史舞台のもととなっている古沼田湖は、二〇万年くらい前から赤城火山の成長とともに、少なくとも三回、湖の時代があったとされます。その規模が最大となったときの広がりは、東西約八キロ、南北は、赤城山の地層に覆われているところを除き約六・五キロと推定されます。
これら月夜野という地名は、そうした古沼田湖の水が引いた後の、まだ沼田台地が不安定なデルタ地帯であったころの地形の特徴を表す地名であるといえるのではないでしょうか。つまり、まだ文字が使われるようになる遥か前から存在していた地形の呼び名ではないかということです。
もちろん、立証することは容易ではありません。それでも沼田市のこの河岸段丘の地形は、遠い彼方二〇万年前、ホモ・サピエンス発生の時代からの歴史を目の当たりにできる地形でもあり、人類が日本列島にたどりき、まだ文字を使う前から存在していた言葉の実像を、その時代にしかなかった地形由来の地名を立証できる可能性を秘めた貴重な事例として、たいへん興味深いテーマであると思うので、今後も調査を続けていきたいと考えています。
(本稿は、ブログ「物語のいでき始めのおや~月夜野タヌキのPON自治共和国~」掲載の沼田市該当部分記事を改編しまとめ『利根沼田歴史散歩 第2号』に掲載した文をもとに、ページの制約で省略した写真などを加えて転載させていただきました)