かみつけ岩坊の数寄、隙き、大好き

働き方が変わる、学び方が変わる、暮らしが変わる。
 「Hoshino Parsons Project」のブログ

点と点がつながり、線になっても、安易に「面」にはしない

2018年05月13日 | 「月夜野百景」月に照らされてよみがえる里

先日、久しぶりに片品で地域活動をしていた昔の仲間と話をしていたら、こんな話題になりました。

最近は、みなかみ町の方がよくいろいろ話題(いい面も悪い面も)になっているよね。
それに比べると最近、片品の方はぜんぜんダメだ。
最終的には、利根・沼田地方でもっと連携して、点と点がつながり面になっていったらいいよね。

利根・沼田地方の生態系に依拠することを考えれば、それこそもっともなことだとも思いました。

これは確かによくある話で、点と点が繋がり線になり、やがて面になることを自分で話していたのですが、それと同時に、その言葉に妙に違和感を感じる自分がもう一方にいました。

たしかにややベタな表現には違いないのですが、その違和感が何なのか、どういうことだったのか、私はあとになって気づくことが出来ました。

点と点がつながること、やがて線になり、線と線がつながること、さらにそれが面になること自体、決して悪いことではないのですが、安易に「面」になると、それまで点や線が持っていた個々の「責任」というものが消えていまう場合が多いことを気にしていたからです。

なにごとも、最初にはじめる人は、失敗のリスク、膨大な自己負担がかかるリスクなどを必然のこととして背負っているのですが、それがだんだん拡大してくると、そのリスクを知らない人がどうしても増えてきます。

参加してくれること、仲間が増えること自体は、当然歓迎されることなのですが、どうしてもそれと同時に、リスクを負わない人も増えてきてしまうものです。

そうした人々の面倒を丁寧にみることも、その目的を達成するためには必要なことです。

ですが、責任やリスクを負わない人が増えるというのも、実は大きな問題なのです。

大きくなるというのは、内容を薄めて大きくするのではなく、それまで持っていた個々の濃い内容を保持したまま、より多様性のある大きさを目指してこそ、豊かな活動、豊かな地域が保障されるからです。


そうしたことによってこそ、点は点のまま、線は線のまま、複雑に絡まりあい、どの線がどの線を支えているのかわからないような、例えるなら「鳥の巣」のような構造であることが望ましいのではないかと思いました。

 

 

鳥の巣といえば、余談ですが高校時代、クラスに天然のモジャモジャ頭の子がいて、よく先生から「モズの巣みたいな頭して・・・」とからかわれていました。いま思えばからかうにしてもヒドイ先生ですが、もしかしたら「こんがらかってる」の意味ではなく複雑なネットワーク型の頭としての褒め言葉だったのかもしれない。

 

 

この後また気づいたのですが、アメリカの民主党と共和党の対立構造も個別に勝ち取るものと、公共の利益優先の考えの違いとしてこれに似てます。

共和党からすると、俺たちは銃をぶっ放して命かけてアメリカを開拓してきた。

それををお前ら民主党は、俺たちが自力で勝ち取ってきたものをタダ(無料)で分け与えようとしている。

なんでトランプみたいのが大統領になってしまうのか、ということの背景には、意外とこうしたアメリカ人の気持ちが根深くあるようです。

 

日本でも私たちの上の世代では、政党や組合、あるいは企業間の闘いで、自分たちの側の組織(勢力)を大きくしてこそ勝利できるのだとの感覚が根強いように見えます。

それに対して今の若い世代はどちらかというと、自分が特定の組織に固定化されることを嫌う傾向があります。

彼らはむしろ自由なネットワークのようなものを好みます。

強いて言えば「縛られないつながり」のようなものです。

そこでは組織の階層性のようなものを強く嫌います。

何かを成そうとする限りにおいて、確かに「責任」は発生しますが、どちらかというそこの場合の責任は、トップが負い、より上のものが取るべきものというより、それは個々の役割、作業に応じた責任分担のような社会です。

中間管理職を排除して誰もがトップと直接コンタクトを取りながらスピーディーに仕事をすすめる組織がこのタイプです。

すべてがこの方が優れているとは限りませんが、大事なのは、この場合の方が個々の責任も明確になるわけです。

何人ものハンコを押してもらうよりも、この問題の責任者は誰なのかがはっきりしています。

わたしたちの活動もこうありたいものです。

良いことだから、より多くの人が仲良しになるというだけではなく、参加する人たちの個々の責任や役割分担も明確にしていかないとそもそも豊かな活動には至れません。

 

私は決して共和党タイプではありませんが、最近なんでトランプみたいのが大統領になってしまうのか、とか
最も尊敬し大好きなクリント・イーストウッドがなんで共和党なのかとかを考えていると、だんだん彼らの側の論理も、こんなふうには理解できるようになってきました。

単に組織を作ればよい時代、徒党を組めばよい時代は終わっているのだから、個々のプロジェクトを大切にしていく方がいい時代なのではないかと思います。

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ホントのようなウソ「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切」

2018年05月08日 | これからの働き方・生業(なりわい)

よくいわれる「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切なのだ」という表現。

仕事においても、子育てや教育においても、国際援助のあり方においても、とても大事なことであるかに思えますが、少し前から私自身、自分の仕事を進めるほどにこの表現に含まれる矛盾を感じていました。

これがまるきりウソと言いきってしまっては誤解を生むことになりかねないのですが、「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切なのだ」とのみ思い込んでしまうことの危険性はまぎれもなく存在するので、ここに書かせていただきます。

それが、以下の伊勢崎賢治さんの『国際貢献のウソ』(ちくまプリマー新書)を読んでから、確信を持っていえるようになりました。

 それは、次の表現です。

 

こうして見ると、NGOって、かなりあくどい中間業者のように見えます。僕が見る限り、被援助者というのは権利意識も何も持ちえないくらい知能的に劣った人たちだ、というイメージを暗に作りたがるようです。

 その典型的な例が、「魚を与えるより魚のとり方を教えることが大切なのだ」という言い方です。端的に言えば、発展途上国は援助依存体質が染みついてしまっているから、自立させねばならんという考えですね。

 勘違いもはなはだしいんですが、途上国の人々は、我々よりはるかによく魚のとり方を知っています。自分たちで自宅を建設したり修繕したり、コミュニティで共同して集会所なんかも自前で建設する。僕たちNGOに言われなくたてです。

 

 現実に大概の「魚のとり方」を教えられるようなかたちになってしまった原因は、多くの途上国援助が、先に植民地支配などの歴史を通じてその国が何百年、何千年とつちかってきた在来の生産・生活体系を破壊され、生活基盤の多くを外国から購入させられる仕組みになってしまったからです。

 魚のとり方を教えると言っていながら実際は、教え続けるいいお客さんであり続けることこそが、先進国の一番の利益であるわけです。

 

 この構造は、私のこれまでの仕事でも痛感させられていました。

 それは二つのことで感じていました。

  ひとつは、本を売るという仕事で、もうひとつは、同業者やホテルなどの業界のサポートの仕事をするようになってからのことです。

 これはまた別の長い話になってしまうので、今日はここまでにしますが、教えることこそ本業の教育の世界においてこそ、この原則は貫かれるべき問題です。

 

 切り込み口は、斜めから入っていますが伊勢崎賢治さんの活動は、これからどんどん注目されていくことと思います。

 

 

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何か悪〜いビョーキにかかってしまったのだろうか?

2018年05月06日 | ・・・ったくアホな生活

時々、自分のブログやホームページを見ると

そこにはなぜか

自分の興味があることばかり書いてある。

面白くてしょうがない。

冷静に考えれば、

自分が書いたのだから当然なことなのだけど・・・

 

 

 

これと同じ感覚にまた出会った。

今朝、ある探し物があって2階の部屋の本棚を見ていたら、

いつこんな本買っていたんだという全く記憶のない本が出てきた。

 

 

その時の本 

 

そして、

改めて自分の本棚を見ると

そこには自分の興味がある本ばかりが置いてある。

これまた面白くてしょうがない気分だ。

これも冷静に考えれば

自分で興味があって買った本なのだから当然のことなのだけど・・・・

 

自分のしていること、書いたことが面白くてしょうがないというのは、

自分が過去にやったことを自分で忘れてしまっているからなのか、

興味があることでもまったく身についていないから起こることなのか、

自己撞着、自家撞着というのだろうか、

ただの自己満足というのだろうか、

自分では面白くてたまらないのだけれど、

どうも馬鹿げたこの意味が自分でもよくわからない。

 

何か重大な勘違いをしているのでなければ、

これは生涯、最高に脳天気に生きていける秘策を習得したということなのだろうw

 

 

あるいは、

なにか、とんでもない悪〜いビョーキにかかってしまっているのかもしれない。

 

 

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「当事者意識」の欠落が本を殺す

2018年05月04日 | 書店業界(薄利多売は悪くない)

「一万円選書」で有名な北海道砂川市「いわた書店」の岩田さんのことは、
これまでも何度か書きましたが、
最近取材された放送「プロフェッショナル 仕事の流儀」のことがネット上で
図書館や図書館司書の問題としてちょっとした議論になりました。

今回の岩田さんの番組、私はまだ見ていないので
この同業者の論議にすぐには絡めなかったのですが、
図書館、教育現場、この業界共通の問題として書いてておきたいことがあるので、
少し論点はずれるかもしれませんが、また短か~く書かせていただきます。


このたびネットで話題になったことの主な論点は、
本来、司書や教師の仕事であるはずの選書を本屋がすることについてのようですが、
わたしは、学校現場の図書館をめぐる深刻な実態以上に
以下のような問題をずっと感じています。

教師であろうが、図書館担当であろうが、司書であろうが、本屋でろうが、
確かに現場にいる限り、誰もが膨大な作業に追われて、
やるべき仕事に手がまわらないというのはどこでもみられる風景です。
 

でもそもそも何のために働いているのかといえば、

ただ給料のためという人も多いかもしれませんが、
その職業を通じて出会った困っているひと、
不自由している人の課題解決こそが職務であるはずです。


それが、その場に「担当」がいるかどうか、
その道の「専門家」がいるかどうかに
あまりにも問題がすりかえられてはいないでししょうか。

それは、たまたま自分が歩いていた場所の目の前に、ゴミが落ちていたときに、

そのゴミを見て「この場所の管理者はだれだ?」
「誰だ、こんなところに捨てるのは?」

と言ってそのまま通り過ぎてしまっているのに等しいことと思います。

いま目の前にあるのだから、自分で拾えばいいのに・・・


つまり、あらゆる仕事の現場で

当事者としての感覚の欠如、
当事者意識の後退が「仕事」の狭い捉え方の拡大とともに
深刻化しているのではないかということです。

まずそこに担当がいないからこそ、
目の前にいる自分が動くべきことでしょう。

「仕事」を与えられた「作業」をこなすことと考えている限り
こうしたことに気づくことはないのかもしれませんが、
近ごろ、教育現場の話を聴くほどに教育者の仕事ってなんなんだ!と
つい怒鳴りたくなってしまいます。

子どもたちのために、まず教師は職員室で闘え!と
言いたくなります。

教師が首をかけてでも闘わないから
子どもたちが死んでしまってるんじゃないのか。

教育委員会や校長の気の抜けた謝罪、弁明はそのあらわれでしょう。


司書云々にかかわりなく、現場の課題に応えるための「調べる力」
「選書能力」を自らの重要課題としないで、なんの教育があるのでしょうか。

そこが行動できれば、たとえ司書がいなくても
学校では個々の教師を通じて立派な図書館の活用が行われることでしょう。

現状に問題があるのであれば、それと闘う先生が学校のなかにいてくれるはずです。

 

以前、この場に書かせていただいた
「それはありません」の一言にすべてがある https://blog.goo.ne.jp/hosinoue/e/c4837a00a6cff5350a9497de3d25a4bd
と共通したことなのですが、

モノとしての本を売る産業は確実に消えていきますが、
情報としての本を扱う仕事は絶対になくならないと確信している根拠もここにあります。


職種、肩書、立場などにかかわりなく

目の前で起きた問題に対しては、その場にいる人こそが
常に最大の当事者であり、それを無視して肩書きや専門性を言いだす人が
いつの時代でも社会をつぶしていくのだと思います。

こうした意味では、比較的どんな職場でも
社員よりもパートやアルバイトの方が、
常に目の前の問題に対しては「当事者意識」を持って
課題に対応できている傾向がある気がします。

肩書きにこだわるような職種、身分ほどなぜか
現場できていることへの当事者感覚は薄れていくように見えてなりません。 


ヒラ社員だろうが、パート、アルバイトだろうが、
専門外であろうが、畑違いであろうが、
その場でいま問題にかかわっている人こそ
常に最大の当事者であること

そして専門家でもなく、肩書もないようなその現場にいる当事者にとって

いつも最も身近で力になってくれる存在、

まさにそれこそが本来は何よりも「本」であると思います。

また、このことこそが、自由に飛び回り活用される「本」の
最大の生命線であるとわたしは信じています。

この核心部分を外した文化の殿堂かのような図書館など
私はこれからの時代には要らないものとすら思ってます。 


岩田さんは、目の前にあらわれた一人の顧客・読者とどう向き合うかを
顧客カルテを通じて実践されましたが、
誰もが目の前のひとつの課題にいまそこにいる最大の当事者として向き合うことを考えれば、
本屋だろうが、
教師だろうが、
司書だろうが
困ったことなど起こり得ないと思います。

そもそも自分こそが課題解決の最大当事者なのですから。

そこの担当者であるかどうかとか、専門家であるかどうかとか
自分にその能力があるかどうか、経験があるかどうかなどといったことは関係ありません。
やり方が上手いか下手かなどということも関係ありません。 


目の前のひとりの子ども、ひとつの現実、ひとつの課題に
精一杯向き合う姿勢ことこそが何より大事で、
それを抜きに安易にカウンセラーなどに頼ってしまうこと自体、
教育としてはアウトでしょう。

病気に苦しむとき、確かに専門医師は不可欠で頼りになります。
しかし医師を選んだり、その前後の健康管理は自分自身の判断に依存しています。

問題をかかえた一人の子ども、一人のお客、一人の取引先など
このとてもやっかいな相手に真剣に向き合った時こそが、
それまでの自分の能力とは関係なく
周りの風景がガラリと変わるときなのです。 

自分の判断そのものの責任を他人に預けてしまう人は
そのまま、自分の幸せも他人に預けてしまう姿でもあります。

またそれは同時に、問題を常に誰か他の人のせいにして
絶対に自分は変わろうとしない
目指そうともしない人の姿でもあります。 

こうした「当事者意識」の後退こそが「本を殺す」のだと私は思います。

どんな本が良いのか、教師や本屋や子どもや親たちが、
迷い悩み考えながら探す作業を抜きにして
誰かに頼んでただ買ってくるだけの関係で、
どんなに立派な設備で膨大な蔵書を置いたとしても
理想の図書館など生まれるはずがありません。

1冊の本の内容を正しく理解しているかなどということは関係なく
自分にとって大切な本、思い出深い本を語れないところに、
本当の「知」や「情報」の生まれる余地はありません。
ただのデータならネット上で十分間に合う時代です。

教科書第一、お受験第一に追い込まれた教育現場に
ここで何かを言ってもしょうがないことかもしれませんが、
なにかを感じること、考えること、調べることを二の次にした教育の
どこに未来の子どもを育てる希望を感じられるでしょうか。


少し今回はボヤキ気味ですが、
少なくとも、単なる文化教養にとどまることなく、
「知」や「情報」の真の力を信じるならば、

何が起きても最も困ったことは起こりえない
困ったことにはなり得ない業種が
本来の本屋、図書館などの情報にかかわる職業なんじゃないでしょうか。

ここが、「本」というものがただ現実逃避の道具で終わるのか
それとも、現実に立ち向かうための力になりうるかの
大きな分かれ目になるのだと思うのです。


私の場合、やや実用性に偏った本の見方をしているように捉えられがちなので
そうではないことのことわり書きを加えないといけないかと思っていた矢先、
「NASAより宇宙に近い町工場」で知られる植松努さんの講演映像を見て
https://www.youtube.com/watch?v=gBumdOWWMhY
本の持つ本来の力、教育現場の問題、まさにその通りと背中を押されました。


岩田さんから久しぶりに電話があったこともあり、
毎度、感情のおもむくままの乱文で恐縮ですが投稿させていただきました

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完全な菜食主義になる

2018年05月04日 | 暮らしのしつらえ

これまで私は冗談半分に、週休3日での菜食主義を自称していました。

週に2日か3日くらいは肉を食べても良いだろうと。

もともと菜食主義なる言葉自体、常に百パーセントでなければいけないなどと定義されているわけではないので、目標として菜食主義を目指しているのであれば、誰でも名乗ることは可能であると思います。

 

 

 でも週休3日、つまり7分の3が肉食、7分の4が菜食などというのでは冗談にしても、努力している目標だとはちと言い難い。

せめて週休2日くらいにしておかないと。

そんな程度の問題は、もともとどうでも良い話なのですが、そもそもは健康な食生活に近づきたいということが第一の目的です。

幸い私は妻のおかげで、脂分は減らし、新鮮な野菜を中心にかなり健康的な食生活が送れるようになりました。

そのせいか、30代の頃からほぼ4年に一度、オリンピック周期で結石の発作を繰り返していたのが、50代に入ってからはほぼ無くなりました。こちらの好みを踏まえたうえで、いろいろな食材や調理に気を使ってもらっていることには本当に感謝しています。

それでも、肉を完全には止められないこと、白いご飯の比率を下げられないことなどまだ理想の食生活には至りきれない課題はいくつか残っていました。

 

それが、こと「菜食主義」に関してだけは、この度、完全に克服する方法を得ることができました。

  

 

どこかの作家さんだか俳優だかがどこかで言っていたことで、
出典は毎度の事ながら定かな記憶ではないのですみません。


 

いわく


「肉食は良くないというけれど、草は牛が代わりに食べてくれている」


とのこと。

 

なるほど。

であれば完全な菜食主義を貫くことができるというわけだ。

これで週休2日での菜食主義なんていう方便も使うことなく、
また完全な菜食主義ではない負い目なども感じることなく、

堂々と「わたしは菜食主義です」と言い切ることができるわけです。

 

めでたし。めでたし。 

 

 

今日はここまででこの話は終わりますが、
もしかしたら草食動物の肉や筋肉のことを考えると、これは意外に奥の深い話かもしれません。
筋肉隆々のゴリラが草食動物であることなど、また考え出すと深みにはまりそうです。

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