先日、久しぶりに片品で地域活動をしていた昔の仲間と話をしていたら、こんな話題になりました。
最近は、みなかみ町の方がよくいろいろ話題(いい面も悪い面も)になっているよね。
それに比べると最近、片品の方はぜんぜんダメだ。
最終的には、利根・沼田地方でもっと連携して、点と点がつながり面になっていったらいいよね。
利根・沼田地方の生態系に依拠することを考えれば、それこそもっともなことだとも思いました。
これは確かによくある話で、点と点が繋がり線になり、やがて面になることを自分で話していたのですが、それと同時に、その言葉に妙に違和感を感じる自分がもう一方にいました。
たしかにややベタな表現には違いないのですが、その違和感が何なのか、どういうことだったのか、私はあとになって気づくことが出来ました。
点と点がつながること、やがて線になり、線と線がつながること、さらにそれが面になること自体、決して悪いことではないのですが、安易に「面」になると、それまで点や線が持っていた個々の「責任」というものが消えていまう場合が多いことを気にしていたからです。
なにごとも、最初にはじめる人は、失敗のリスク、膨大な自己負担がかかるリスクなどを必然のこととして背負っているのですが、それがだんだん拡大してくると、そのリスクを知らない人がどうしても増えてきます。
参加してくれること、仲間が増えること自体は、当然歓迎されることなのですが、どうしてもそれと同時に、リスクを負わない人も増えてきてしまうものです。
そうした人々の面倒を丁寧にみることも、その目的を達成するためには必要なことです。
ですが、責任やリスクを負わない人が増えるというのも、実は大きな問題なのです。
大きくなるというのは、内容を薄めて大きくするのではなく、それまで持っていた個々の濃い内容を保持したまま、より多様性のある大きさを目指してこそ、豊かな活動、豊かな地域が保障されるからです。
そうしたことによってこそ、点は点のまま、線は線のまま、複雑に絡まりあい、どの線がどの線を支えているのかわからないような、例えるなら「鳥の巣」のような構造であることが望ましいのではないかと思いました。
鳥の巣といえば、余談ですが高校時代、クラスに天然のモジャモジャ頭の子がいて、よく先生から「モズの巣みたいな頭して・・・」とからかわれていました。いま思えばからかうにしてもヒドイ先生ですが、もしかしたら「こんがらかってる」の意味ではなく複雑なネットワーク型の頭としての褒め言葉だったのかもしれない。
この後また気づいたのですが、アメリカの民主党と共和党の対立構造も個別に勝ち取るものと、公共の利益優先の考えの違いとしてこれに似てます。
共和党からすると、俺たちは銃をぶっ放して命かけてアメリカを開拓してきた。
それををお前ら民主党は、俺たちが自力で勝ち取ってきたものをタダ(無料)で分け与えようとしている。
なんでトランプみたいのが大統領になってしまうのか、ということの背景には、意外とこうしたアメリカ人の気持ちが根深くあるようです。
日本でも私たちの上の世代では、政党や組合、あるいは企業間の闘いで、自分たちの側の組織(勢力)を大きくしてこそ勝利できるのだとの感覚が根強いように見えます。
それに対して今の若い世代はどちらかというと、自分が特定の組織に固定化されることを嫌う傾向があります。
彼らはむしろ自由なネットワークのようなものを好みます。
強いて言えば「縛られないつながり」のようなものです。
そこでは組織の階層性のようなものを強く嫌います。
何かを成そうとする限りにおいて、確かに「責任」は発生しますが、どちらかというそこの場合の責任は、トップが負い、より上のものが取るべきものというより、それは個々の役割、作業に応じた責任分担のような社会です。
中間管理職を排除して誰もがトップと直接コンタクトを取りながらスピーディーに仕事をすすめる組織がこのタイプです。
すべてがこの方が優れているとは限りませんが、大事なのは、この場合の方が個々の責任も明確になるわけです。
何人ものハンコを押してもらうよりも、この問題の責任者は誰なのかがはっきりしています。
わたしたちの活動もこうありたいものです。
良いことだから、より多くの人が仲良しになるというだけではなく、参加する人たちの個々の責任や役割分担も明確にしていかないとそもそも豊かな活動には至れません。
私は決して共和党タイプではありませんが、最近なんでトランプみたいのが大統領になってしまうのか、とか
最も尊敬し大好きなクリント・イーストウッドがなんで共和党なのかとかを考えていると、だんだん彼らの側の論理も、こんなふうには理解できるようになってきました。
単に組織を作ればよい時代、徒党を組めばよい時代は終わっているのだから、個々のプロジェクトを大切にしていく方がいい時代なのではないかと思います。