利根沼田地域の桜名所のなかでも、最も遅く咲くこの石割桜。
これまで、何度か訪れてはいるものの、なかなかその開花時期に出会うことはできませんでした。
はじめてこの場所を訪ねたときは、今のように案内の標識もあまりなく、この道で良いのかと随分迷いながら心細い山道をたどったような気がします。
花の咲いていないときのこの木は、確かに石割桜として岩の間からたくましく伸びてはいるものの、その樹容からはそれほど華やかな開花時の姿を想像できるようなものではありませんでした。
そんな石割桜を、今年はじめて満開の時期に見ることができました。
2015年5月2日。
実は今回は、開花時期の事前情報を確認して行ったわけではなく、第一の目的であった花咲の天王桜を見に行ったところ、予想外に早く花が散ったあとであったので日没まで少し時間があり、どの程度の状態か確認するつもりで寄りました。
すると、
予想外に、ちょうど満開の時期。
ヤマザクラ特有の気品に満ちた見事な姿を見せてくれていました。
こんなに美しい桜であったとは思いもよらないものでした。
ちょうどヤマブキの花もいっしょに咲いており、絶妙のバランス。
見る人のためにはあらで
おくやまに
おのがまことを
咲くさくらかな
読人不知
看板のデザインなど、もう少し直しておけば、これほど詩情あふれる銘木もないといえるほど素敵な空間になっています。
まさに、桜シーズンの最後を飾るに相応しく、ヤマザクラ特有の落ち着いた雰囲気。
ソメイヨシノなどの里の華々しい騒ぎが過ぎ去って、山の落ち着きある新緑の季節へバトンタッチするにはとても相応しい木です。
桜の放つ精気に打たれて魂がしんとなり、ひそやかにさざめいていた慎みなど、私たちは忘れたのだろうか。 (石牟礼道子)
見た目通りこの木の種類はカスミザクラ(霞桜)。花柄に短い毛が生えていることから別名「ケヤマザクラ」。
里の花が散ってから葉が出る桜と違って、ヤマザクラは花と葉が同時に咲きます。
そのためか、もともと遅咲きのこの桜は三分咲きくらいの時にここに来ると、葉がもう出ているので、もう散ってしまった姿なのかと勘違いしてしまう人もいます。
足元に花びらが落ちているかどうか、まだ、つぼみがたくさんついているかどうか、よく確認して見るようにしてください。
この写真を撮ったときのように文字通りカスミがかかったように見えるのは、完全な満開の時期ではない方が美しく見えます。
妻も私も里の桜よりもヤマザクラのほうが好きなたちですが、山桜は山の木々の間にまぎれて咲いている姿を見るのが美しく、なんらかの一本の桜の木を特定して鑑賞するようなことはほとんどありませんでした。
そんなヤマザクラのイメージを、はじめてこの石割桜が覆えしてくれました。
一度この霞桜の開花を見てしまうと、他の名の知れた桜の名所は、みな派手さばかりを競う芸も深みもない三文役者のように思えてきてしまいます。
昔、この場所をさがしまわった頃に比べたら、案内の看板もたくさん出来てすべて舗装道路をはしってたどりつけるようになりました。
でも、この桜の良さを鑑賞するには、より多くの人が来れる利便性の向上よりも、この山桜のまわりの環境をきちんと保全されることが何よりも望まれます。
この石割桜へ至る山道には、ちょうど満開の時期にはヤマブキの花が咲き乱れ、ウグイス、クロツグミなどの名脇役たちが交互に鳴き競い、行き帰りの道すがら、ひとつの絵物語りにひたるような夢空間が続いています。
そこに、白ペンキで塗られたガードレールや道路標識、コンクリートの電信柱さえなければ、完璧な世界が開けています。
まだ自動車の普及する前の時代、地元の人々が長い山道を歩いてここにたどりついた時の感動は、どれほどであったでしょう。
そんなことを想像しながら、現代の姿を味わうだけでも、格別の空間として際立った存在感をこの場は持っているのを感じます。
このたった一本のヤマザクラのおかげで、春の慌ただしい花物語は、
静かな余韻を残して終わることができます。
おもかげは身をも離れず山桜
心の限りとめて来しかど
『源氏物語』
あの面影が私の体を離れずにいます、
あの美しい山桜の面影が・・・
心は、すべてそちらに置いて来てしまったのですが、
超大型連休で鬼の様に混み合っている川場の田園プラザとは対照的に、ほとんど訪れる人の姿を見ません。
かつて、ブログに「山の名優」として紹介していましたが、この桜は大勢に見てもらうことを求めず、自らのあり様だけを追求している孤高の姿にこそ魅力があるので、「名優」あらため「山の孤高詩人」に訂正しました。